魂のゆくえ。その38。

最近は色々とぶっ飛んだのを読んでるけどブラヴァツキーのシークレット・ドクトリンとその様々な派生ってのが面白くて、神智学っつってもただのナンセンス臭いオカルトからちゃんとした哲学的なものまで色々あって一概にオカルト扱いできないところが面白いんだよね。

 

あと僭越ながらだいぶ前に買ったウスペンスキーの本を読んでるんだけど俺の世界観に近いのよ(笑)まぁウスペンスキー解説とかになると面倒だから俺の考えで色々書くけど現実が実は自明ではないってのは前から書いてるし、何をリアリティとするか?というのも結局はそれは外界に存在するものではなくて外界のものを脳が理解したものをリアリティだと思ってリアリティを形成するっていう究極の主観性がリアリティってことなんだけどね。

 

でもそれは一般的に考えられるような我々が干渉しなくても存在すると思われている外界がリアリティを形成していたり、それ自体が物質だって思うんだけど、そもそもそれを知覚するのが人間である限り客観性ってのは無いんだよね。客観性というのはむしろ一般的に言うところの主観性に近くて、実際の客観性は俺が言うような脳が形成するリアリティに近いんだよね。

 

でもこうなってくると面白いのが未知のエネルギーとか超能力めいたことも、そもそもの外界のものに思念が干渉して動いたり変化したりするというよりかは、その変化を起こしているのがマインドなんだっていう風に考えるとある意味、包括的に超自然的なことが考えられると思うんだよね。

 

変化を起こしているのがマインドというよりリアリティを形成しているのがマインドなんでそのリアリティの変化をマインドが起こせるのはむしろ自明なことなんだよね。ニューソートとかについて調べてると今の自己啓発本に繋がるような元祖自己啓発系のやつってスピ入ってるやつが多いんだけど思念が現実を変える!ってのが通底していて、それも何も根拠がないことではなくてリアリティは勝手に主観で形成されているものだからこそ思い込みで物事は変わるのは外界が変わるのではなくて外界の写り方が変わることであたかもリアリティが変化したかのように思えるということなんだよね。

 

そもそもの人間の考えのミスってのは主観と客観の二元論っつーか、人間如きの限られた認識しか持っていないものが主客を分けられるのか?っていうと分けられるはずがないんだよね。それもマインドで主客を分けているだけで実際は全てマインドの中で行われているただの分別だから真実とは全く関係ないんだけど、でも分かってない人ってのは客観性を科学的思考だと思い込んでいて、ある種、何でも脳や現象に還元できるという錯覚を思い描いてしまうんだよね。これは凄まじい思い上がりなんだよね。

 

いや、良識ある人だったら人間如きが全ての分からないことも含めて全部理解できるなんて考えるのがおこがましいって思うはずなんだけど、考え方の癖みたいなのが所謂、主知的過ぎる場合、人間の限られた知能と認識というのを過大評価してしまって、それ以外の捉えられないものを存在しないものとするか、別なマインドで説明可能なモデルとして還元してしまうんだよね。

 

あとはそんな意味不明なことが実際にあり得るとしたら認知的整合性が保たれなくなるのでそれを保とうとして人間的な主客に分けられる世界を保とうとするんだけど、それってのは幻想の牢獄のようなもんで、なおかつそう思い込んでいるからこそそういうリアリティしか知覚できないっていう盲目的な状態になっちゃうっていうことがあるんだよね。

 

でもわけわからんものは当たり前のようにあるとして考えるとそもそもそれはあるものだという認識からリアリティがそれをあるものだとして次元の拡張に向かうんだよね。まぁ端的に言えば瞑想とかってそういうことだよね。日々の生活は人間とのやり取りとか日々のルーティンとかっていう形而上学が入りようがないようなものの連続なんでそこに埋没しちゃうんだけど実はそれはそこに埋没しているループっていうループモノのリアリズムなんであって、それを形成しているのは紛れもないマインドなんだよね。

 

で、それが絶対的なものだと思うのはそれが紛れもない現実だからっていうことなんだけどでもそれはマインドで形成されたものなんであって実際のリアリティとは関係ないものかもしれないんだよね。それこそ異次元の世界とか時間という軸が存在しない世界とかってのに想像が及ばないし時間と空間がないリアルなんてありえないということになるんだけど、それをありえないと考えるリアリティを作っているのがマインドそのものってことなんだよね。

 

かといってもじゃあ意識を拡張すればなんでも知覚可能になるのか?っていうとそれは未知な部分と不可能な部分があるけど、少なくとも人間が普通に生活している中でマインドの在り方によっては知覚可能になる普通は存在するとされないものがあったりするわけなんだよね。でもしつこい科学的思考というか、そこから外れたらオカルトでトンデモ扱いになるっていうタブーみたいなある種の知的な気取り方っていう保守的な観点からラディカルな世界観というのが形成されないんだよね。

 

でもそれは凄まじい刷り込みなんであって、干されようが友達いなくなろうが人間が考えられる限りでの真実を追求したいっていう渇望があれば少なくともそれが理知的な知的活動とその知的活動の延長にあるものによってのみ知ることができるなんて思わなくなるはずなんだよね。

 

それはいつも書くように全てが言語化できるわけじゃないし言語にした時点で劣化するものっていうのはいっぱいあるわけだよね。あとは数式でならちゃんと表せるものでも言葉として表そうとすると比喩的になって劣化が起こってしまうみたいなね、でもそういうのが自明なのにいつも書いてるようにロゴセントリズムが凄いんだよね。なんでも言葉だっていうようなさ、言語とかへのオブセッションというか、それが知の中核にあるものだみたいな思い込みがあるんだよね。

 

でも不立文字という言葉があるように言語では表せないものってあるわけだよね。というか言語の抽象度を考えると抽象的なことを表象的に比喩的に語ったりすることはできるけど、なんでそれが表象的だったり比喩的になるのか?っていうとその「モノ」自体がダイレクトに言葉では表せないものだからだよね。だから前に書いたようにそういった直接指示できないものに関しては言語を使って近似値を出すしかないんだよね。

 

でも特に聖典の類とかは近似として比喩として語られているものをダイレクトにそのまま比喩ではなく文字通りにリテラルに解釈するということで一気に抽象度が下がって聖書とかならそれはただの小学校の道徳レベルのものに成り下がったり、それをやっちゃダメだっていうことが「やってはいけない」という戒律のように解釈されて頑なにそれを「やってはいけない」って聖典に書いてあるからってことでそれを守るとかね、まぁそういうのもカルチャーだしっていうかそれが宗教だよね。所謂カルチャーなんだよな。

 

でも実際の神と自分との関係ってのは宗教というよりそこに行きつくものっていう道しかなくて、戒律も団体もクソもないんだよね。ただ直接性のみが存在するっていうね、で、その辺が凄いのがいつも書くようにエックハルトだよね。あまりに抽象度が高すぎるのと理解不能だったのもあったんだろうけど異端扱いされたし、教義とか組織神学的なものにしがみつくような類の宗教にとってはそれは相変わらず異端だよね。何しろ教会が信じる神とか教義と全く違うわけだから。

 

ただ面白いのがさ、スウェーデンボルグが匿名で色々とキリスト教関係の本を書いていたんだけどチンコロされたのかなんなのか色々とバレちゃってカトリックやらプロテスタントから色々と嫌がらせを受けていたっていう(笑)ことなんかもあってスウェーデンボルグは激しく規制のキリスト教についてある種、ニーチェ以上の痛烈な批判をしてたんだよね。

 

まぁようは色々あるんだけどなんかやったら神罰があるようなものとかが神であるはずがないとかね、まぁスウェーデンボルグは実際に霊界に行って見てきた人なんで確証があったんだけど、それもあってか既成のキリスト教のキリストご自身を使った権力の乱用ってのが許せなかったんだろうっていうかこの辺は逆にキリスト教が異様な宗教に思える日本人にとってはなじみがある感覚だと思うんだよね。なんであんな変な宗教を信奉してるのか?ってまさにそれなんだよね(笑)

 

まぁ俺は一時期モロにキリスト教に目覚めたと思い込んでいたから人のこと言えないんだけどまぁ色々あってかあえて言うなら神道的な随神の道以外の神への道は無いっていうことが確信できたからこそ、当初のキリスト教への違和感に戻ってきた感じだよね。勉強する前は大嫌いで(笑)目覚めた後は学ぶ必要がある!と思って近寄ろうと思ったけど知れば知るほど異様さがどんどん増してきて言わば外道なんだよね。

 

まぁ仏教とかもそうなんだろうけど本来のブッダの教えとは全く関係ない現世利益的なものになってしまったり祈れば生活が良くなるみたいなどうしようもない考え方が流布したというよりまぁ元の教えの抽象度が高いからキリストも言ってたように神の恩寵を受けた12使徒達には直接的に語るけどそうではない一般の人たちには比喩で語るってことなんだよね。

 

でもそこで一般の人たちは比喩をリテラルに解釈してしまったので異様な信仰の形態になっちゃったんだよね。まぁもちろん異様な信仰の形態になった原因ってのは色々あるんだろうけど、何よりまぁ間違いなく言えるのはキリスト教のキリスト離れですよ(笑)

 

まぁいつも書くけどアレと一緒よ。マルクス主義とマルクス本人が関係ないっつーやつね。マルクス本人が俺はマルクス主義者ではないって言ったみたいな話があるけどキリストも自分はキリスト教徒ではないって言うだろうなっつーところだよね。

 

だからまぁ言語的な齟齬が凄いよね。キリストに帰依してますっつーとあんなわけのわからないつじつま合わせだらけのつぎはぎだらけの教義を丸々信じてるのか!っていうキリスト教徒ですなんて言おうものなら「自分はバカです」って言ってるようなものみたいになっちゃうわけだよね。

 

でもそこで自分はキリスト教徒というよりキリストそのものに帰依していて、思想的にはマイスター・エックハルトとかの神の認識に近くて・・・っつっても通じないっていうね、まぁエックハルトを知らないのが悪いとか教養不足とかって言うんじゃなくてキリストそのものへの帰依とキリスト教は違うっつーことを頑張って説明しても徒労に終わるってことだよね。

 

だからあんま結果的に宗教の話とかしないほうがいいってことになるんだけど(笑)同じく冒頭に書いたような現代神秘主義ともいえるようなウスペンスキー的だったりブラヴァツキーの話もしないほうがいいっていうね(笑)

 

相当ぶっ飛んでいるようで実際は相当まともなんだよね。ぶっ飛んでいると思うのはそもそもの自分のリアリティ認識が間違えていたからなんであってっつーか俺は元々そう考えていたからぶっ飛んでいるというよりかは真実に近いところにいる人たちだなっていう印象しかないんだけど一般的にはぶっ飛んでるわけでしょ。

 

でもそれ言い出すとキリスト自体がぶっ飛んだ人だからね(笑)あのお方が一番ぶっ飛んでるし究極的な「あの人を見よ!」的な人間なんだよね。全き者であるから全き者以外は廃れないといけない。思いあがらずに全き者に帰依すればいいんだけどエゴが強すぎてそうはいかないってのが世界の在り方だからね。

 

神智学とかウスペンスキー的な現代神秘主義とかその派生みたいなのってうさん臭いイメージしかないけど一番随神の道に近い世界認識を持ってるんだよね。むしろ一番遠いのが既成の宗教なわけだよね。といっても宗教をある程度学んでみて既存宗教にも良いところはあるし、無宗教どころか反宗教的だった頃よりかはだいぶ寛大になりましたけどね。

 

おしっこしたいからそろそろ終わるわ。

 

んじゃまた。