行方不明の象を探して。その81。

新しいの出たのでよろしく。

 

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せーの!って感じで雨が降ってるな。なんでポツポツこないの?急にバケツの水こぼしたような量の雨が振るってありゃ自然現象じゃないね。意図的なもんだね。ローストビーフ食べたのは昨日だけど今日はポークで同じようなもんを食べたな。毎日労働に追われている人間よりかはマシだって比較しかありえねえ。

 

毎日暇すぎる。でもその暇を埋めたいとは思わないんだよね。永遠にその暇を刺激で埋めたいと思うわけだ。ブラーンと弛緩した金玉が画面いっぱいに映る。キラキラ光りながら流れる水はおしっこだった。竿は画面に映っていない。音量を上げても音がしないから音声はないのか。でもVHS的なノイズが混ざってる気がする。ここまで音量を上げてしまうともし音がしたときに爆音になってびっくりするから音は下げておこう。

 

一宿一飯の恩義を忘れない食客たちエックスっていうかかける3000として3000人が人を刈るか何か借るわけだからマネーに変換してもらおう。そうやって俺は食っているんだから。食っているって言葉が嫌いだ。生きているほうが大事で食うのは二次的だ。でも食客には時代を変えてやる!と豪語するものも多かったが口だけのやつが大半だったから3000の恩は皮算用過ぎるだろう。

 

暇な割に時間が勿体ないからトイレのちんふりにそんなに時間をかけてはいられない、ようはあれだ小便振りね、で、雑になるとパンツのアンモニア臭が凄まじくなるのはそれだけおしっこがパンツに染みているからなんだろう。でも女性のほうが尿がパンツにつきやすそうだよね。性器の構造的に。女が良いのは女なのにパンツとかブーツとかが臭くなってしまうという宿命を背負っているからだ。だからその恥部をいじるのに最高の快感を覚える。

 

また久々にオマンコしたいな。オマンコしたいときにオマンコできないのが今の生活の難点と言えば難点かな。ただその代わりの凄まじいフリーダムを得ているけどね。トイレと執筆場所からの間に的を作って通る度に棒手裏剣や投げナイフを投げるようにしている。そうすると通るたびに練習できるから便利だ。知らない間に棒手裏剣に刃筋が現れてくる。意識もあるけど習慣だな。

 

例えばだ、そのー凄くね、練習、稽古に熱心なやつがさ、投擲とは投げるものに刃筋を見出すことだとかって思いながら真剣に稽古に打ち込むのとさ、俺みたいにトイレに行くたびに無意識に投げるのとではさ、やっぱ習慣の力ってのは凄いね。頑張ろうとしないから。「よし!投擲の練習をしよう!」って言ってやらないじゃん?ちんぽこいじるぐらいの感じで手裏剣投げるわけでしょ?

 

「お前のオナニー上達したな!」

 

なんて言われないもんだよね。誰かに見せるもんじゃないから。戦うことが当たり前の時代だったらまぁ訓練もある程度は重要なんでしょうが、あれですね、武術の歴史なんてのを紐解いてみますとね、結局は丹力だなんてことが言われているわけですね。肝が据わってるってやつですね。ビビるんですよ。精子がかかると。生死がかかると。そこでビビらないと。んで普段の稽古の7割ぐらいの力が出ればそりゃもう大したもんだと。

 

でもどんだけ強いやつでも丹力があるとは限らないですからね、だからまぁ新選組の入隊試験なんかもエゲつないものだったらしいんですよ。入隊を許可したっつってオッケーされたっつーテイでね、寝込みを襲われるんですよ。新選組の連中に。そこで「ヒェー」なんて感じで逃げだしたら即アウト。そこですぐ目覚めて抜刀したり必死に抵抗しようとすればオッケーなんだそうで、抵抗というよりぶっ殺そうとするっていう意思ですな。

 

ぶっ殺そうとする意志なんてことを言いだしますとですね、今の世の中じゃまたあれですよ、犯罪者予備軍。嫌だなー。形骸化した武術はやりたくないよ。意味ないもん。踊りじゃん。あんなの。殺す気もないのに殺す動作を練習するっておかしいでしょう。忍術の家元が練習してれば武術でそれ以外のやつがやってると犯罪者予備軍って権威付けですね。構造がコンブレーのあいつと同じです。

 

お父さんの旅行日記は文学と認められなくてプルーストは文学と認められるみたいなああいうどうしようもない価値観です。もうなんか大衆の中でやっていける気がしませんね。本質が分かってないやつばっかですね。一般的に知識人とか言われているような人ですらそうですからね。困ったもんです。

 

ならお前の腕を見せて見ろ!いいよ、やったろうやないかい。おしっこをするように練習というか当たり前のやることとして練習している武器術が練習だと思ってやってるようなやつに負けるわけがないでしょう。まぁあたしもスタートして三か月ぐらいではありますがね、おしっこ練習にしようと思ったのはここ一か月ですね。「よし!やろう!」がダメなんです。頑張っちゃうから続かない。

 

「ストン!」おしっこジャー。「ストン!」って感じでやればいいんです。全く物騒なものを投げたり練習することに違和感を感じなくなります。危ない刃物を扱っているんだとか顔に当たったらどうしようとか考えなくなります。当たるわけがないんですから。

 

チタン製のカード型ナイフありますね、あれはまた違う勝手で練習のし甲斐がありますね。棒手裏剣は投擲用に作られているので優秀なんですよ。投げナイフ然り。ちゃんと命中するようにできています。あとはそうですね、武器やってるとちょっとしたケガとか流血に大したことを思わなくなることですね。そんぐらい当たり前だと。そもそも殺し合いの練習をしているんだからこんぐらいのケガなんて死ぬこととか退屈に比べたら屁でもないというね。

 

屁でもないというのは取るに足らないという意味ですね。そういう感覚が出てきますと刃物を怖がらなくなりますね。普通に手で握れるようになります。恐れを消すと言えばかっこいいんですがただ慣れるって話です。刺客ですから正面から戦うことはしないにしても武器とか刃物にビビらなくなるっていうのは重要です。

 

相手はビビると思ってますからね。でも人生にこれだけ絶望していて暇でしょうがなかったらむしろ刺激になるぐらいに思えるでしょう?もう別に死んでもいいわけですからね。そう思うと全く怖くないですよ。怖いのは人間関係とか何を考えているから分からない一般人とか痛い病気ですね。一瞬で死ぬ病気はあれですね、運命というか寿命だからしょうがないでしょう。でも長く患った後に死ぬようなものは嫌ですね。プロセスが嫌ですよね。

 

ナイフってニギニギしても意外と手は切れないんですよ。そこで引かないと切れません。ニギニギして切れるようなのもあるかもしれませんけどね、まぁあの程度のもので怖がってたら戦場に出れるわけありません。ブルって逃げるタイプの人間がどれだけ武術を練習したところで何にもならないですね。

 

趣味でやる分にはかまいませんが当方は趣味のつもりじゃないんでね。でも遊びだって見られちゃう。道楽だって見られちゃう。仕事じゃないからなんでしょ。マネタイズできていないから?でも俺、10億もってるからマネタイズしなくてもいいんですけど?

 

もうこの風潮というか常識が嫌なのよね。俺は真剣なんだよ。先人が命を賭けながら開発してきた武術という尊い崇高なものを学ぶというのはね、凄いことなんですよ。宗教的ですらありますよ。でもバカはそれを殺人術と呼んでみたり学んでいる人間を犯罪者予備軍扱いするでしょう。それはそのバカの尺度でしか物事を考えられていないからなんです。それがマスですね。

 

まぁあたしがやっていることを理解してもらおうなんて寸分も思っちゃいないですけどね。理解してもらわなくていいし何より人に見せなくていいから究極的に人と関係ないところで自分の技術を磨き続けられるからいいんですよ。芸事が好きなのもありますね。芸を磨くみたいなことに凄く価値を感じるでしょう。