そうさ、俺は脈略の無い男さ。うじうじふさぎこむのはいい加減にしろって。ネガティヴキャラっていうの?それに徹するとさ、凡庸なやつでもいくらでもなんでもできちゃうんだよ。ネガティヴなものほど安易なものはないからね。
森影が静かに過って、朝の平穏の中、階段口から海の方へ動いていく。そっちへ目をこらした。磯近くと沖合で海面の鏡が軽やかな靴を履いて駆け上がる脚に踏んづけられて白くなる。翳りの海の白き胸。絡み合う強勢、二音ずつ。手がハープをかき鳴らし、絡み合う和音をかき混ぜる。基本的に僕がギターでやってるのはこういうことだよね。波白の結ばれた言葉が翳りの潮にゆらめき光る。雲がゆっくりと動いて、太陽をすっぽり覆い、湾をさらに濃い深緑に陰らせた。目下に広がる、苦い水を湛えた器。
「飲んだ方がいいよ」
たっぷり30秒間を置いてから象はゆっくりとした均一な動作でテーブルから顔を上げ、そのまま枯れた鉢植えをぼんやり見つめた。
「本当はお前が返ってくる前に出ていくつもりだったんだよ。顔を合わせたくなかったから」
「でも気が触れたんだね」
「そうじゃないんだよ。もうどこのも行きたくなくなっちゃったんだよね。でももう出ていくから心配しなくていいよ」
「ドア壊しておいてそれはないんじゃないか?せめて要件だけでも言ったらどうなの?」
「ともかく俺がいれたお茶、もう冷めてるよ。飲んじゃってよ」
僕はアマゾンの段ボールを分解してガムテープで止めて紙ごみ置き場に捨てた。そして残り物のリッツを食べた。「先輩、リッツ食べていいですか」ってCMのリッツだ。なんでリッツを食べるのにわざわざパーティー主催者の先輩の許可を得ないといけないのか。ギャツビーだったらなんて言うだろう。
「冷蔵庫にサラダがあるよ」
「サラダ?」
僕は頭をあげて象を見た。
「うん」
僕は冷蔵庫からサラダの入った青い沖縄ガラスの深皿を取り出し、瓶の底に5ミリほど残っていたドレッシングを空になるまでふりかけた。トマトといんげんは影のようにひんやりしていた。そして味が無い。クラッカーにもお茶にも味はなかった。
「ねえ」
と象は言って指を一本空中に立てた。
「俺がここにやってきたのはあなたを壊滅から救うためです。多分、お前は俺のことを頭のいかれた象だと思ってると思うけど、もしくは白昼夢でも見ているのかと思っているかもしれないけど、俺は狂ってないし、これは白昼夢でもない。きりぎりに真剣な話なんです」
「あのさ、象さ」
と僕は言った。
「言ってる意味がよく分からないっていうか、龍が如くの一馬状態なんだよね。「一体何が起こっているんだ」としか言えなくて、ストーリーのパペットマペット状態っていうかさ、宙ぶらりんなマリオネット状態だよね。俺をこうやって浮かせるやつは多いけど、お前もそういうタイプなんだよな」
「でも理解し合うのはとても大事なことだろう。理解とは誤解の総体に過ぎないという哲学的なことを言う人もいるけどさ、残念ながら今のところそんな哲学議論をしてる余地はなくてさ、最短距離で相互理解に達することができれば一番良くて、俺はそれを目指してるんだよ」
「ベケット三部作が気に障ったなら謝るし文学議論の類とかはマジでやめてくれよ。なんか急に語彙増えたよね。読書のおかげだと思うんだけどさ。本を読むことは凄くいいことだよ。でも議論を吹っ掛けられても困るんだよね」
「もちろん俺はただの象だよ。以前と変わらない。別に本を読んで考えが変わったとか議論をしにきたわけでもないし、暗喩とか引用とか脱構築とかサンプリングとか、そういうややこしい話をしたいわけではない。もし俺がそれでもややこしい話を持ってきたに違いないって思ってるやつがいたとしたら断固粉砕してやるよ。象なんてあれだぜ、体重だけでなんとかなるもんなんだぜ。思いから芸の無い体当たりでも人間は凄いダメージを受ける」
僕は肩をすくめたあと頷いた。
「そういう仕草をする日本人ってあんまりいないよな。アメリカとかならいるけど」
「アメリカに5年いたから基本アメリカンだぜ。俺は。ただ帰国から時間が経ってるから、すっかり日本人になっちまったけどな」
「じゃあなぜ肩をすくめる?」
「アトラスの真似さ」
「資本主義を肯定するのか?お前のこと左翼だと思ってたんだけどな。というかアイン・ランドをまともに受け止めるなんて正気の沙汰じゃないぞ」
「それとこれとは関係ない。じゃあ逆に聞くけどさ、肩をすくめる以外の表現って何がある?類するものは?」
「ため息をつく、首を振る、下を向いて息を吐く、目を逸らす、とかかな」
「でもさ、人間の身振りって文字で表現できるほど画一的なものではないだろう?同じ肩をすくめるにしても人によってニュアンスが違うし、肩をすくめるとほぼ同意義の意味合いのジェスチャーで何もしていないけど、その何にもしていないジェスチャーを見て、あたかも肩をすくめたかのようなボディーランゲージを感じることがあるだろう。というかそれが大半だろう?しかもそれは人によって違う。意識的にやるものじゃないから」
「さっき散々文学論はやらないとか言っておきながら、なんかそれっぽくなってきてるきがするゾウ」
「いや、俺が言いたいのはさ、風景の描写とかさ、そんなもんいらないってことなんだよな。あんなの書いてる側のオナニーだろ。もしくは読んでる人間をバカにしてるよな。描写が無くたって何らかの語り合っている場みたいなのを想像するわけだろう?んでレトリカルな言葉遊びの描写に終始してさ、あと陳腐な文学的表現とかさ、そういうのばっかりだろ」
「だからベケット三部作を俺にくれたんだろう。誕生日でもないのに」
「別にそういうわけじゃないけど、無駄が無い作品ってああいうものなんだよ。別に俺はベケットのファンじゃないんだよ。あとポストモダン系の作品のファンというわけでもない。たださ、ポストモダン的にならざるを得ないだろう?」
「動作はどうなんだ?象がいたとかさ、お前がこの話に耐えられなくて出て行ったとかは」
「それは描写っていうより「じゃあもう行きますね。そろそろ行かなきゃいけないんで」ぐらいの状況の説明でミニマムだよね。そこをなんたらのように素早く立ち去ったとか、そういうのがいらないっつってんだよ」
「でも小説からそういうのを抜き出したら、何も残らなくないか?」
「文字の粉飾なんだよ。あれは。ポストモダン哲学と同じだよ。無駄な話を抜いたら100ページぐらいで話は済む」
「ボルヘスとかがそんなことを言ってたよな。10ページぐらいで済むことを500ページも書くなんて気が狂ってるって」
「別にボルヘスを真似たわけじゃなくて、そういう風に考える人間がいてもおかしくないって話だよな。それは。俺は別にボルヘスの言葉を読んでそう思うようになったわけじゃなくて、単純にそれを読んだときに、やっぱり同じように考える人間は同然いるよなっていうことだったんだよ」