行方不明の象を探して。その105。

小説だって同じだろう。30までに出版できなかったら諦められるやつは最初から書かないほうがいい。書かずにはいられないから書いてしまうのが小説家だろう。まぁそれだけではないかもしれないが少なくともやめようなんて思ってやめられるものではない。続けるにはパワーが必要だと思われるかもしれないが逆である。書きたいことや演奏したい音楽があるから生きられるのだ。それが無くなったら生きている意味がなくなるやつらが言わばマジのやつらだ。そこに才能と努力が乗っかれば凄いことになる。

 

でもやめられないのだから他者から見れば努力と思われることを本人はただやりたいからやっているということで続けていて、だから練習を練習だと思わないし苦痛だとも思わないだろう。苦痛だと思うようなものを避けるだろうな。でもそれでは上達が頭打ちになるというのは確かかもしれないが、自己流なら楽しくやり続けることができるからその人なりの何かが生まれるのではないか。

 

全て教科書通りにやらなければいけなかったらみんな似たような小説を書いたりギターを弾くことだろう。そういう意味で個性的なやつは最初から個性的だ。多分パーソナリティも相当個性的なんだろう。だから普通じゃないやつが多い。過去の小説家なんてクズ人間だらけだしロッカーもロクでもない死に方をしたりヤク中だったりして、とても普通に生活していけるような人間じゃないやつらが多い。

 

現在のような自己プロデュースの世界になるとそういう破滅型の自分を演出しているプロデューサー型の似非芸術家が多いだろう。まぁセルフプロデュース力もあって表現力もあるならかまわない。でも物凄く凡庸な人間が変人ぶるのは最悪だ。変人から見ればそいつが根っこからの変人じゃないのがよく分かる。

 

セルフプロデュースもしなきゃいけないみたいなことは例えばギターだけ弾きたいのにそれだけじゃダメだから歌わなきゃいけないと言われているようなものだろう。そいつはギターは上手いかもしれないが歌は下手糞かもしれないしボイトレしても所謂聞きたくなるような声じゃないかもしれない。そんな無理なことをするぐらいだったら歌わないほうがいいわけで。

 

自分にとって歌というのは異様なものでしかない。DJが回している曲に合わせて歌を歌っているようなもんだろうっていつも思う。いや、それは歌い手の仕事でヴォーカリストがやるべき仕事なんだから、まぁようは素人が声優やるようなもんだな。歌なんてそんなすぐ歌えるもんじゃない。

 

そういえば象と全然音楽の話をしていなかったな。ヴァイノーを象は聴くのだろうか。最近またヴァイノーを聞き始めて過去に自分が集めていたコンピのシリーズモノとかっていうよりヴァイノー全般が高騰しているのには驚いた。新作をヴァイノーで出すのはそういうビジネスモデルだからしょうがないとして、安い割にキラートラックだらけのお得なコンピが過去の貴重なコンピになってプレ値になっているというのはどういうことなのか?

 

調べてみたらヴァイノーの需要が過剰なんだという。世界的にヴァイノーが流行っているから日本みたいに貧しい国じゃない賃金が高い国の連中でヴァイノージャンキーなやつらは死ぬほどヴァイノーを買うらしい。まぁ安く感じるんだろう。こうなると困るのは日本の中古市場を行ったり来たりしていたヴァイノー達が海外流出して国内で回らなくなってしまうことだ。あと金があるやつらの出せる額の尺度になると廃盤のやつなんかはそこそこ値段を上げても売れるわけだからだからどんどん値段が高騰するんだろう。

 

俺が持っているコレクションも時価総額が3倍くらいになっているだろう。厳選していらないのは売っているからね。ヴァイノーはジャンキーにおいてのみコレクターズアイテムだったのにヴァイノーの位置づけが一般的にコレクターズアイテム的なコモディティになっているということなんだな。

 

俺はだ、もうほとんど全く新譜と言われるものに興味が無くなってというより興味を惹かれるものがないから聞いているものはほとんど昔の音源ばかりだ。色んなのを含めても2000年代ぐらいまでのものが大半だ。ということはもうほとんど俺にとって音楽というのは過去のアーカイブを掘るという行為そのものになる。そうなると無限にあるように見える音源たちがいきなり有限に思えてくるから不思議だ。

 

これは絶対ヴァイノーで欲しい!って思うものなんてそんなに多くない。ロッカーになろうと思うからロックのヴァイノーを買おうと思ってもアングラでも所詮、俺がドストライクで聴いているようなマイナー音源に比べたらめちゃめちゃメジャーでいくらでも手に入るものに4000円だの5000円だの払う気になれない。

 

でも俺が好きなギターノイズフリーインプロヴィゼーションみたいなものはそもそもの音源の絶対数が限られているからそんなに何枚もあるもんじゃない。だからピンポイントでDiscogsとかで買ってしまえば高い送料に目を瞑ればいくらでも手に入る。あとヴァイノーで聴くのが大好きなディープファンクみたいなものはコンピ類が充実しているからそんなに困らないし手持ちも相当あるんでバカみたいに買う必要もない。筋金入りのDJみたいにオリジナルのドーナツ盤を掘るとか、そこまでの熱はないのでコンピで十分だ。

 

ノイズロック。スカムロックなのかノイズロックなのかジャンル分け出来ないようなオブスキュアなものが大好きだ。Harry Pussyは理想的なバンドだ。Harry Pussyが出すキチガイとしが言いようがないドラミングに音楽的に破綻し尽くしていない辛うじてロック的な構造を持った異様なノイズの洪水を聴いているとラリってくる。俺が思っている「これだ!」というロックに近いものの一つだ。

 

いや、「これがロックだ」と思えるものは本当に少ない。大体のロックアルバムを聴いてもロックな瞬間があっても、どうしても商業的になんとかしなきゃならないんだろうからバラードみたいな余計な歌モノが入ったりコマーシャルっぽい凡庸なコード進行の曲が入っていたりして正直退屈極まりないものが多いのだ。

 

ラリったジミヘンが永遠とフィードバックギターを流しているアルバムとかキマったカートコバーンが永遠とノイズギターを演奏しているアルバムは存在しない。片鱗を感じさせるものはあっても商業がそれを許さなかった。商業がロックを殺すのだ。カートコバーンはもっと荒々しいロックをやりたかった。実際にインディーズ時代には相当ノイジーな演奏をしていたしドラムセットにダイヴしたりギターを放り投げたりして彼の躁鬱をそのまま表したような「作っていない」そのままのカートコバーンがそこにいることがあった。

 

でもメジャーになってからはそんなのが許されるはずもなく、許されたとしても商業の範囲内だから窮屈に違いなかったんだろう。でも勝手に自分とは違った意味でのロックスターに仕立て上げられてしまった彼は作られた勝手なロックスター像と実際の自分と実際に自分がやりたかったこととのギャップに悩み続けた。そこでどんどん深みにハマってしまいドラッグもやり続けて最終的にダメだって思ってショットガンで自分の頭をぶち抜いた。

 

彼がロッカーなのは商業ロックにショットガンで頭を吹き飛ばすという形でファックを突き付けたことだろう。大衆に媚びているロックの形をしたただのポップスのやつらにカートコバーンのシリアスな悩みが分かるはずはない。でも皮肉なことにツルンツルンのマスタリングをされてしまったメジャーのアルバムは売れ続けてヴァイノーブームの現在もNever Mind Boxなるものが発売されるぐらいニルヴァーナは伝説的だ。でもニルヴァーナは過大評価されているという意見もある。それはそうだろう。ニルヴァーナの本当の姿はインディーズ時代のBleachにあるのだから。

 

本人はボーカルはがなっているだけだしギターも一本調子で全くクオリティに満足していなかったらしいが、Rawさ加減で言えばあれが最高である。メジャーで出したものは全てポップスに成り下がった似非ロックアルバムばかりだ。だからBleachがニルヴァーナなのだとすれば偉大でもなんでもない、ヴォーカルがただがなっている一本調子のギターのバンドなわけで、伝説でもなんでもないのだ。でもそのRawさが良いという意味ではロックなわけで過大評価されるべきではないが素晴らしいロックアルバムであることは間違いないのだ。