行方不明の象を探して。その110。

一気にしゃべり終えるとシンバル女はワイングラスを手にする。ややあって「なあんて、ちょっと言い回しが安っぽかった?」シンバルを噛みながら首をすくめた。

 

「いい説明だったと思うよ。何も小説っぽい言い回しでマイブラの「ホロコースト・パート」を説明するだけが世界の全てじゃない」

 

「どういうこと?」

 

ある程度は察しが付く気もしたけれどあえて聞いてみた。さらに赤ワインを口にするとシンバル女は教えてくれる。幼いころは小説の読み方が分からなくて「こでん」と呼んでいた、もしくは読んでいた。ウィキペディアによれば小説とは大説を神話や英雄伝説などの大きな物語とすると、小説は身近なことや神話に比べれば些細な出来事の物語を称して小説と呼ぶらしい。あくまで神話や英雄伝説などの大きな物語ありきの小さな物語というわけだ。

 

そうなると幼いころに「こでん」と読んでいたのは意味合い的には間違っていないどころか小説よりも正しいということに気づく。小さい伝説だから「こでん」なわけだ。「こでん」なのだ、というとバカボンっぽくなるからやめる。「なのだ」もバカボンっぽくなるところとそうじゃないところがあって、そういうところ見極めに関しては数をこなすしかないのだろう。野球の千本ノックとかギターの運指とか、そういう地道に膨大な練習をこなしていくというアスレチックなものを感じる。

 

支離滅裂とした中にも論理があり筋が通っている文体や書き方を持っているのだから、「正しい文章」のようなものは意識しないほうがいいはずだ。躁鬱の人間が躁鬱が故に何かの芸術活動や表現活動をできていたとする。しかしリチウムやらなにやら、躁鬱を抑える薬を飲んだら躁鬱が緩和される代わりに表現欲が無くなってしまうかもしれない。それは芸術におけるロボトミーのようなものだ。ファック普通。クソ食らえというよりファック食らえという感じである。

 

エクソシストで悪霊に憑りつかれた女の子が女性器にナイフを突き立てながら「ファックしろ!ファックしろ!」って言いまくっているのがクールに見えたんで、真似したら母親に酷く怒られたことがある。ファックって微妙な言葉だよね。日本でも微妙にアカン感じがする。じゃあファックってどういう意味なの?って聞いても答えてくれない。じゃあなんでファックしろ!って言うと怒るの?っていうのは、子供がどうやったら子供ができるの?という質問に似ている気がする。

 

このように頭の中に渦のように湧き上がっているアイデアや書きたいことが「正しい文章」を意識することで出てこなくなってしまう。自然体でいればそれは勝手に出てきて書かれることになる。しかし「正しい文章」を意識した途端にそれらは書き写されるのを嫌がるかのように頭の中に逃げていく。大切にするべきはその渦だ。渦が書かれたがっているフォームに従うべきだ。ファック食らえという感じである。

 

「あなたジャクソンハイツでモルヒネ打ったでしょう?一昨日よ」

 

シンバル女は冷蔵庫から桃を出してきて皮を剥きながら言う。足を組んでソファに身を沈めている。シンバルを断った。起きたのが9時。調子が出てくるのが午後5時。それまでは何のやる気も起こらず、散々寝たのにひたすら眠くてダルい。ライフ。意味分からない。何なの?人生って。なんか「じゃあこれやってみて」って知らない人に無理やりやらされる理不尽なゲームような気がしてくるんだよね。なんでやらなあかんの?って断れないゲーム。ファーストパーソン目線のクソゲーが毎日続く。ニーマーダ。タービェン。

 

「シンバル、針は一回ごとにちゃんと消毒しなきゃダメだよ」

 

シンバル女は答えずに部屋の隅にあるベッドに横になり煙草に火をつける。首筋に太い血管が浮き出て弱々しく煙を吐き出す。書店で面白そうだと思って買ったのに、特にその翌日、買ってきたばかりの本を読んでみたときに何にピンと来て買ったのかが分からない本が結構ある。そのたびにイライラする。買ってしまったから読まなきゃいけない。リプス。俺にとって本は米粒みたいなもんだ。

 

昔、嫌いだった親戚のある人間から米を一粒も残すなというパワハラみたいなのを受けてから、それがハラスメントだと分かっているのに、恐怖から米粒を残せなくなってしまった。本も同じで買ったものはどんなにつまらないものでも全て読まないと気が済まないので、読書がストレスになることが多い。元々好きで読んでいるはずなのに、それを言い出したら書くこともそうだろう。

 

書くことに困ったことはない。永遠に書き続けられる。でもそれは自己模倣を永遠に繰り返しているから書けるのであって、方法論や考えの断絶が必要だと思って、書きやすいスタイルで書くことをやめる。そうすると書けなくなる。それでまたイライラして腰が痛くなる。ずーっと座って書くか読むかしているから元々腰痛になりがちなのが、最近、自覚していることなのだが、ストレスを感じると腰痛が酷くなるらしい。色々と書くようになってから腰痛が悪化している。

 

「あなたも鬱?それとも腰痛?まだあるわよ。打つことで鬱をふっとばーす!」

 

といってシンバル女はシンバルを鳴らした。相変わらずの高低差が無いのにも関わらず耳がキーンとする。いきなり鳴らすからいつも身体がビクッ!とする。ただ不思議なことにいきなり脅かすようなことをされると人間は瞬間的に怒りを覚えるはずなのに、シンバル女に関してはコンプライアンスの関係から怒りを覚えてはいけないとか、怒りを覚えてもシンバル女に発散してはいけないという決まりがあった。

 

決めた決まりなのだが。キマリの中途半端さは凄かった。基本的にFFでは青魔術を使うキャラクターは不遇にあると言っていい。キマリは竜騎士的な立ち位置であるべきなのに攻撃力も魔力も中途半端である。しかも絶望的なまでにキャラクターに魅力が無いので出番がない。使うメリットが無さすぎるのだ。そういった理由により打つことも桃と同じく丁重に断った。

 

なんでちゃんと書けている小説はしっかりしているのか?論理が現実と変わらないのはなぜなのか?フィクションなのだから論理も整合性もないだろうと思うのに。シンバル女のシンバル音は本当に耳が痛くなる。鼓膜がヒリヒリする感じだ。なぜだろう、なんでみんな俺が書くものはフィクションだと思うのか?これが現実で現実がフィクションだということに気がつかせるのはどうしたらいいのか?

 

「今日はいいよ。今日は俺も持ってるんだ。友達も来るしさ」

 

シンバル女はサイドテーブルに手を伸ばしジイドの「贋金つくり」を読み始めた。昭和に出版された筑摩書房の世界文学大系全集のものなので著者名が「ジッド」ではなく「ジイド」になっている。「贋金つくり」のほかに「法王庁の」「抜け穴」「知の糧」が収録されている。ちなみに未読なので内容は分からない。シンバル女は本を読んでいるというより古本の匂いを嗅いでラリっているという感じで、ただその気持ちは分からなくないなとシンパシーを感じた。本は読むより嗅ぐものだ。

 

「よく読めるなあ、変わってるよ、シンバルは」

 

棚から落ちて床に転がった注射器を拾い上げてと言うと、あらあ香しいのよ、と舌がもつれた声で言った。読み方が分からないと退屈としか考えられない古典を読める人間は凄いと思う。しかしシンバルも古典を嗅ぐ人間だった。それはリスペクトよりもシンパシーだった。その場合、何よりもまず足を運ばないことには始まらない。足で稼ぐ。足で覚える。階段を四階まで上ってここでドアを入るのだが気を付けてほしいのが、踊り場の薬剤師のドアと間違えないこと。