行方不明の象を探して。その120。

「何が気に入らないの!」と女性が大声で言った。金玉を丸々と、むしろスポンっていう感じで口に含んだ後に、俺の股の間でそう叫んだのがこの女。気に入らないというのではなくて、目というよりも目の上の骨に慢性的な鈍痛があって、単純な眼精疲労だとしても、例えば中学ぐらいから小説を読んできた人間が生涯に読破するだけではなくて、人生の伴侶とも言えるほどの本に出合える可能性と俺の可能性を比べたときにだよ、そりゃ読むでしょうよ。

 

体が追い付かない。本の読み過ぎて慢性的な眼精疲労になっているといっても、それまでも本は読んできた。でも学術書ばかりで小説はほとんどない。そんな俺が小説を読もうとしているのだから、それは大変なことだ。軽い眼精疲労だと目がショボショボする程度だが、重度になると慢性的に嫌な鈍痛が目の周りを覆いつくしている感じで、こめかみあたりも鎖か何かを嵌められているような、締め付けられるような感覚がある。


だから別に女の玉舐めが悪かったわけではなくて、いや、玉舐めご苦労様!でも玉を舐めてもらったところで眼精疲労が良くなるわけではない。「数日休んだら?」と言われても、今までの遅れを取り戻そうと思うなら余計に読むことに邁進しなければいけない。

 

「でもそんなの間違っているわよ。遅れじゃなくて、適切な時に文学と出会ったんだから」


などと女は言うのだが、小説を読むのが当たり前になってもう20年以上経つような人間の小説の接し方と俺の接し方は圧倒的に違う。でも滅多に「面白い!」と思える小説に出会える確率が極端に低いのは、そもそも文学とはそういうものなのだろうか?

 

彼女はまたため息をついた。たまに本によってピーナッツのような匂いがする新品の本がある。外に出ると生活を一変させてくれるような小説があるに違いないと思って書店に行ったりする。でも出会える確率は少ない。少しでも気になったら買ってみるのだが、大体気に入らない。でもそれは書店に置いてあるものに限るのであって、自分が今後、心底気に入る小説というのは存在している。ただそれが新品として書店に置いていないだけの話で、それだったら街を彷徨っても意味がない気がする。

 

だから引きこもって、こうやってたまに女に金玉を吸わせているのだが、大体射精する前に眼精疲労の話になって、そこから話が長くなって結局、射精する前というより、そもそもセックスというか玉舐め自体が終わることが多い

 

。小説も同じで、全くイメージが浮かばないものは途中で読むのをやめてしまう、というより海外小説での一昔前のどこかの国の日常生活を描かれても全くリアリズムが感じられない。ビロードのカーテンとかブリキ缶のなんたらとか、橋の下にある何々、とかそもそも現代の日本で橋らしい橋を探すのは大変だ。あるのは橋のような形をした実質的な道路であり、ましてや木の橋なんてないわけで、木の橋と言われてもとにかく困り果ててしまう。

 

戦後すぐの物資が少なかった時代では海外小説なんかは貴重な品だったのだろう。そこから見える情景は戦後の貧しい日本とは違うどこかを思わせてくれる夢のような世界だったはずで、でも現在の世界はと言えば画一化されていて、どこの日常もある意味、まぁ大体はっきり言ってしまえば同じだろう。木の橋があるかないかはあまり重要ではない。

 

例えば今、ヘッドフォンの左側から耳糞が耳の奥でガサゴソいっているような、絶妙に嫌な音が流れている。原因は分からない。無線だから接触不良がどうのという話でもないだろうに、いや、これこそがリアリティだ。木の橋は関係ないしブリコの箱も出てこない。

 

その点、映像の力は強い。全く知らない国の知らない年代の子供部屋だの学校だのというのも映像で再現されているわけだからイメージする必要が無い。見たらそのままもうそれはそれだ。なぜ文字からイメージを喚起させるのがここまで大変なのか?畑が広がっているといっても自分が思い出すのは母方の田舎の実家の風景で、自分が生まれ育った場所に畑が広がっているような場所はない。

 

人間と接する機会もないので、仮にそれが幼少期のことだとしても、マルチェラの笑顔がどうので、お日様がどうのっていう話をされても全くイメージができない。もしかしたら極東の国で、しかもVRやら動画配信やらがデフォルトの時代に色々な小説を読むというのは難しいことなのではないか?と思っている。なぜ映画を観ないのだろう?いや、映画は観る。でも小説も読んでみたい。

 

でも気に入るものにオーソドックスな名作はほとんどない。大体変な小説ばかりで、しかも観念的で作者が頭の中で見たような情景がそのまま広がっていくようなものしか読めない。まさにカフカのような。

 

カフカが描く世界は抽象的で、仮にどれだけ風の音がどうとかドアがどうとかという描写があってもリアリティが欠けていて、常に何らかのシュールレアリスティックなフレーバーがある。抽象だからこそ伝わることは多い。例えば数学は国や時代関係なく数学自体が数学として伝わるわけで、小説とはだいぶ違う。ということは数学書のように読める小説を探さなければいけないということなのか。

 

物語よりも出来事そのものが描かれているものがいい。物語の膳立てのための風景の描写や日常の描写は苦痛でしょうがない。例えば幼馴染の三人が偶然街中で出会ってヨーロッパにバックパッカーとして旅行しに行くことになるという話があったとして、その幼馴染の一人一人のディティールを何章も費やして描いて、その三人が出会うまでに100ページぐらい何か色々書いてあるともうそれは受け付けられない。ヨーロッパにすでにいて、一緒に旅しているのは幼馴染の二人だ、ということでよいのではないか?でもそういう小説もあるような気がする。

 

なんで終わりやスタートがあるのだろうか。どこから始まってもいいし終わってもいいはずで、出来事というのはそういうものだろう。どこを拾って描くか?というのは任意なはずである。

 

簡単に言うと突き詰めれば何も書かないのが文学ということになる。エンリーケ・ビラ=マタスの「バートルビーと仲間たち」という作品は、つまりは書かない症候群に行き当たった作家の話の寄せ集めである。といっても3ページぐらいしか読んでいないので内容は分からない。期待度が高すぎて読む気になれないのだ。自分は小説を書き始めてまだ半年も経っていないのにも関わらず文学的にバートルビーの仲間になってしまったようである。

 

ムージルの「特性のない男」自分が持っているのは和訳の三巻組なのだが、順番があってないようなものなので適当に開いてパラパラ読んでまたやめるということを繰り返している。読破という概念から程遠い小説。こういうのが本当に小説なんだと思う。今、読んでみたらかなり小説っぽい小説で思っていたのと違った。思っていたのはこういう感じの小説。

 

「小説なんて書いてませんよ」と答えると、彼は目を開けながら首を振った。書いてしまったら、余生をどうやって過ごせばいいんだ?その必要はないのでは?ここにいるより家にいたいと思うなら行けばいいじゃないですか。小説のことなんて考えずに、もっと気ままにしていればよろしいのに。

 

あたしゃただの通りすがりのものですがね、あなたほど学があるとも思えませんが、言わせてもらいますけどね、あなたは家に戻ってもまた何かしなければいけないと思って階段を下りてくるでしょう。もちろん階段を下りるということが家を出るということを意味するのではありません。あなたの生活圏は非常に狭いようですな。

 

あなたは誰の顔も見ないようにして、何か考えるようにしてトイレに行ったり限界まで体臭が我慢ならないぐらいになるまでシャワーを浴びるのを我慢して、そして浴びるのですな。浴びた後、そしていつも思うわけでしょう?もっと早くシャワーを浴びていればよかったと。でももう遅いのですよ。そういうことの繰り返しにうんざりしているのでしょう?