行方不明の象を探して。その121。

「だったらどうなんだ?」と僕は答えた。

 

「どうってことありゃしませんよ」と通りすがりは答えた。


通りすがっているのに通っていない男だ。こいつは。俺の何を知っているのか、でも妙に的を得ている。そもそも我が国日本では通りすがりと話すということが無いわけで、いや、もしかしたら現代の日本がそうなったのかもしれない。もっと昔は自然に話していたのかもね。みんな下を向いてみんなが他人同士。親しさすらも怪しく思えてくるレベルですな。

 

こういうことが書いてあればどこのページから読んでも特に問題はないでしょう。でも問題はそれが小説なのか?ということなんですよ。何しろこの通りすがりが言うように今の俺の生活圏は本当に狭い。PCとトイレの行き来だけの生活の中では何も起こらない。何も起こりようがない。たまに外に出るとゲームで見た光景のように人が動いていて新鮮に感じられる。でもその新鮮さも一瞬で失われる。だから異様な類のフィクションを読んだときの、どこか変なところに迷い込んでしまったような気分に飢えているのだろう。

 

「とにかくやってみればいいじゃないか。何も失うものはないんだから」

 

「いや、やっているさ。やっているつもりだよ。少なくとも。あんたが思うよりかはね」


そんなの絶え間なく感じているさ。やっているかはともかく感じているわけだ。

 

バーバリアンについての説明。

 

耳の後ろが匂うから、そこをアルコールで殺菌しておいてほしい。最悪だな。放っておくと臭くなるなんて。なんで逆はないの?放っておくと綺麗になって洗うと汚くなるってのがないのはよく考えたらおかしいよね。みんな洗えば綺麗になると思っている。でも実際はそんなことはないわけで。


「それでいいんだ」

 

とガブリエルは言った。大天使のほうではなくてガブリエルという男だ。ガブリエルの友人Sさんは彼のことを「ガブ」と呼んでいる。三人で話すときはお決まりのブロークンイングリッシュだ。

 

「会いに来ないの?今日は」


「今日は来ないみたいだ。例のあそこなんだっけ、あの量で金額が決まるやつ」


「サラダバー?」

 

「いや、サラダだけじゃなくてバイキングのやつ」


「なんでバイキングって言うんだろう?あとバイキングのバーバリアンなイメージって実際にバイキングって野蛮だったの?」

 

くるぶしの上のあたりが異様に痒くなったので掻き毟ったらヌルヌルする液が出てきた。何かの拍子で昔飼っていた愛犬のことを思い出してといっても思い出さない日はなくて、いなくなったというより近くにいる感じがしているのだが、でも「死んでしまったのだな」とやけに実感する時がたまにあって、そういう時に悲しさに飲まれると泥沼にハマってしまう。

 

あまり人生にシリアスになり過ぎずによく分からない類の好みの小説を読みながら、自分でもよく分からないものを書いたりして気ままに過ごすのが理想的で、その理想を育むものは自分の妙なシリアスさ。適当なのに生真面目過ぎるので損をすることが多いように思う。気苦労が絶えない。だから気苦労の無い生活を送ろうと、気苦労がかかりそうなことを徹底的に可能な限り避け続けると、気苦労をもたらすようなものがあちらからやってくることが少なくなる。スピリチュアル的に言うと覚醒とかって呼ばれるものらしい。


覚醒したら凄いものが書けそうな気がする。でも「凄い!」というものに出会ったことがない。別な意味で「凄い!」ものは結構ある。つまり話が凄いわけではなくて、何かしらの凄みがあるものだ。

 

よくもまぁこんなことを書こうと思ったなぁーとか、何なんだこれは?と思うようなものとか、結局、わけが分からないものとか、結局、わけが分からないものが好きなのにも関わらず、物語の導入でもなんでもない、ただの日常だけが何の衒いもなく、淡々と描かれるというより日記のように書かれているものに凄みを感じたりする。

 

物語とか舞台とかの外部的なある種の虚構的な装置に頼らずに物事だけで読ませるものは凄みがある。逆に壮大な世界を左右するような戦争とか経済ゲームの話が描かれているもので凄みを感じるものはない。元々興味がないのもあるし、凄みが出るはずがないと思っているし、実際にそうだから、そういうものを読もうと思って読んでも途中でやめてしまう。


だからそういう本は新品のような佇まいを保ったままどっかに放置されている。本屋に置かれている本はくたびれているものがあったりするものだが、自分が持っているほとんど読んでない興味がない本の状態の良さは異常である。ピカピカでテカテカだ。


手元にあった未読のテカテカの興味がないスケールが大きめの本をパラパラとめくったら十円玉が出てきた。しおり代わりに使うわけがないのでなぜ10円玉が挟まっていたのか分からない。読んでないから10円分のおつりが来たとか?彼らはテラスに集まっていた。でもテラスに集まるのを見たことが無いし、彼らって誰のことだか分からないので、集まっても何が起こるのかが良く分からない。何かが起こったら報告するつもりだ。


逆に日常生活で彼らのような彼らがテラスに集まるような光景を目にするような生活を送っている人間はわざわざ虚構を書こうとは思わないだろう。充実した私生活は創作の最大の敵だろう。孤独によってのみ創作は可能になる。誰かの受け売りだけどね。でも読んでて「そうだよねー」って思うんだよね。

 

なんかみみっちいだろう。仲間とバーベキューやってほろ酔いでよく食べて気持ち良くなったらSNSとかでバーベキュー会の報告を書いたりするわけで、そこで虚構に向かうやつはまずいない。日々のリアルな物語に満足しているやつが虚構に向かうベクトルを持つはずがない。持っていたらそいつは商売としてやっているだけで、本質的に何も書いてないに等しい。