行方不明の象を探して。その123。

僕は今でも、ヒー君のことを。見捨てたのを非常に後悔している。僕は自分からここに来たのではない。前回も来なかったし、その翌日も翌々日も眠ったわけではない。もっと長い間眠っていたのだ、と思うようにしていても、それでも、僕はヒー君のことを思っていたのです。水泳に行く前も、ビート板でノイズを出した後も、目が覚めた今に至るまで、ずっとヒー君のことを考え続けてきた。

 

僕は立ち上がろうとした。しかし、全身の筋肉が断ち切られるような痛みを感じた。全身の骨が折れるような、うずくような痛みを感じた。彼は、じっと、じっと、じっと、じっと、していた。東映のわき役が怖かったのだ。それはただ深く、凝固した記憶だった。それは次第に広がり、過ぎ去った日々の様々なイメージが短い回想の連鎖の中で糸を引いていった。こうして、死んで枯れた肉体に、再び明るい意志が芽生えた。

 

ヒー君の耳には脇役の怒号が刺さった。僕は一瞬、ヒー君のほうを振り向いた。記憶の奥底から、自責の念に似たものが浮かび上がった。

 

僕はどこだ、そして僕はどこにいるのだ。僕は、良い人間ではない。すっかり忘れてしまっている。しかし、ちょっと待てよ。俺は覚えている。あの時のことだ。脇役の声を聞いた。その通りだ。理不尽にヒー君を怒鳴りつけるあの親父。でもね、言葉というのを信じよう。書物というものを信じよう。

 

枝の連なった松の木の下、細い小道が露のついた湿った砂地へと続いている。空の星は澄んでいるが、松並木の小道に光を落とすことはめったにない。しかし、海が近いことは、まばらな光りの中を流れる潮風がはっきりと示している。

 

彼は一人、夜とともに強くなった松葉の匂いを嗅ぎながら、この寂しい暗闇の中を慎重に歩いていた。僕は手をふせて、こっそりと親指の腹と他の指を擦り合わせる。渦と渦が擦れ合う。かすかな細い線と線が触れる感覚。この線のふれるかすかなものに彼はいつのまにか身を沈めていた。繊細な、目のくらむ、線の接触。

 

そして彼は立ち止まって、自分の行く手を怪訝そうに見つめた。彼の家の煉瓦の壁が、数歩先に黒々と現れたからである。彼はまた目の前に手を開いた。柔らかに中心にふくれる指の腹、いまこうして見つめている彼とは別の命で生き続けて来たのではないかという気がする。この指の腹にだけ触れ、渦の中心に沈み、そのまま彼に隠れ生きている。常緑の藤に覆われた古風な壁のあたりで、ふと忍び足の靴音が聞こえた。

 

十本の指のそれぞれ違う紋々の中心には渦の底にひそめいた命が隠されている。この指の触れたひと肌、そのぬくみ、線にしずんだ肌の脂の厚み、そしてとつぜんするどくふるえさす陰毛のざらつき、それは一人一人違う、一つの命に違いなかった。

 

しかし、いくら壁越しに見ても、松の木の深い闇とまぶしさのためか、肝心の姿は見えない。しかし、すぐに感じたのは、その足音がこちらに来るのではなく、あちらへ向かっていることだった。この道を歩くのは、僕一人ではないのだ。

 

彼は、心の中で恐怖を抱いた自分に気合を入れた。しかし、この道は彼の家の裏門以外には通じていないはずだ。その時、裏門が開く音が、吹き込んできた海風とともに、かすかに彼の耳に入った。おかしいな。今朝見たとき、あの裏門は鍵がかかっていたはずだ。もしかしたら僕というものはとうに死んでおり、僕などではない。全く別な十本の指だけが生きていてのかもしれなかった。神でさえも証人を必要する。神の無名性、それは下界においてつき破らねばならぬ。

 

そう思った彼は、静かに裏門に近づき、獲物を見つけた猟犬のように辺りを見渡した。しかし、裏門は閉まっていた。扉は以前と同じように鍵がかかっているようだった。彼は扉に寄りかかり、膝を埋めて眩しさの中にしばらく立っていた。門が開くような音がした。

 

それでも彼が動かずにいなければなるまいと考えると、彼は気分が悪くなるのだった。彼はみずから一つの道標となるのに多くの時間を、辛く苦しい時間を過ごした。そして気づいた。この物語には証人がいないということに。しかし、足音はもうどこからともなく聞こえてきた。壁の上には、明かりもついていない彼の家が、星空にひっそりと佇んでいた。

 

彼の胸には突然悲しみがこみ上げてきた。何がそんなに悲しいのか、彼にはわからない。ただ佇み、虫の音に耳を傾けていると、自然と涙が頬を伝って流れてきた。彼と彼の運命との間にだれ一人としていないため、彼の顔がむき出しのまま、彼のまなざしが分割されないままでいるために、彼が見るのが他者、つまり彼ではない他者、それはよそからきた、消え失せた者、彼岸の影、だれでもない人であり、そうやって彼が終わりまで人間であり続けるために彼らは自分を見つめ、自分に語り掛ける。

 

二階の窓際に、こちら側を向いているらしい人影がぼんやりと浮かんでいる。あいにく電灯の光が背後にあり、その人影が誰であるかはよくわからない。しかし、それが女性でないことは間違いない。彼は苦しそうな、折れそうな声を出した。しばらくして、彼は壁を乗り越え、庭の松をくぐり、無事に二階へたどり着いた。

 

しばらくして、やつは塀を乗り越え、庭の松を抜け、うまく二階のすぐ下の客室の窓まで忍び寄った。長い沈黙が訪れた。その静寂はまるで木枯らしのようで、色を失った彼の額には冷たい脂汗が吹き出ていた。震える手で、彼はドアのノブを探した。ノブは、鍵がかかっていた。 

 

彼はその存在において、もっとも空虚で、もっとも借り物である孤独を作り出すのだ。こんなにもむき出しな感情、こんなにも尺度を逸脱した心配などの数々は、彼の心を蝕んでいった。彼の興奮と不安は極限に達していた。苦渋の数秒が過ぎた頃、ドアの向こうからかすかなため息が聞こえてきた。その直後、誰かが静かに寝台に乗り込んだようだ。

 

彼が今、彼の思い出の中で、まるで彼には自分しか見えないように見つめている男であるとしても、それが語っているのはただ、彼が想起できない彼自身の弱さに過ぎない。彼はここの外の明かりのついた窓が見える部屋にいるのだ。一人ぼっちの男、よそ者、重い病人なのだ。もし、この状態が1分も続いていたら、彼は扉の前に立ったまま気が狂っていたかもしれない。

 

しかし、その時、ドアの隙間から漏れる蜘蛛の糸のようなぼんやりとした光が、天啓のように彼の目に飛び込んできた。彼はとっさに床に這いつくばり、ノブの下の鍵穴から、部屋の中を窺い見た。暫くして、彼の目の前に永遠に忘れられない光景が広がった。

 

そして一瞬、心臓が身体と一体となって急に締めつけられるような、そんな通過点に立ったような気がした。突然、楽で広々とした世界に足を踏み入れたような気がした。そして、ふとした瞬間に、空も、大地も、花も、木も、色も……彼自身さえも、何の点もない世界になってしまったような気がした。打ち解けることもできない世界になっていた。ああ、その瞬間から、彼自身、自分が何者であるかを忘れてしまったのだ。

 

もし文学を愛し実践している人が、その生涯に何の変化もなかったとすれば、その人の文学を愛する心は、空虚極まるものであったに違いない。そこには明らかな文学の負の影響というものがある。これは考えなければならないことだ。文学が好きでも、毒としての文学の影響を少しも受けず、シャカイジンとして完璧な人生を送っている人がたくさんいる。しかし考えてみれば、古来より読まれてきた書物で、不健全な要素、有害な要素がないものはない。

 

バタイユも言っていたではないか。文学の中に悪が無ければそれは凡庸極まるものになって、つまらないものになると。バタイユのように自分が書いた言葉を突き詰めて、自分が出会って書かなければならない新しい地平を垣間見た作家がいる。

 

彼らは、言葉や文章を通して、人生の論理を追求した。そうして彼らは、次世代の美しい表情を自らの文学に写し取ることに成功したのである。このような新しい生活への理想が、正しく優れた文学の第一の資格であった。したがって、文学の美は、腕を失った過去の美とも、神から託された美とも、少し違うのである。

 

僕が過去に生き、苦しんだ人々の世代を見るとき、僕は虚しさしか感じない。僕は、悲しみのうちにこの世を去った人々の物語を語ろう。悲しいと思うなかれ。足のくるぶし、膝の膝窩、腰の麓、首の付け根、こめかみなどが、次第に高まる震動で蠢いた。それにしても常闇。

 

この年にあったこと。年始に父と墓参りに行った後、というか行く前の腹ごしらえで食べたステーキが美味しくて、今は夏、また父と墓参りに行って腹ごなしで何かを食べていくのだろう。ここまで一年のうちに何も起こらないと人生の安定期という気がしてくる。嫌なハプニングがあってもそれを「あった」としないことが大事だ。実際に大したことは起こっていない。

 

そこまで歳でもないのに年始に父とお墓参りにいって、夏になるまで何も起こらずに、またお墓参りに行くなんて、それの繰り返しになるんじゃないかと思った。人生が。こう書くと本当に寂しい人生を送っているように見えるかもしれない。でも内面は充実しているのだ。

 

文学への没入をしていると思い込む生活。小説の乱読をしていると毎日パーティーやってるやつよりパーティーが起こっているんじゃないか?というぐらい毎日何かが起こる。凄いことだ!だからみんな小説を読むべきだ。特に俺みたいに人生に飽きている人間はなおさらその「飽き」を原動力にして虚構の世界に没入するべきだ。意外とこれでやっていけるどころか人生に飽きていなくても虚構の世界の魅力はすさまじい。

 

でも脳を使う生活だからなのか、没入してばかりの生活をしていると普段の不眠症気味な自分が嘘のように眠くなって、しかも眠くなり方が尋常じゃなくて、一日12時間も起きていられなくなる。恐らくアストラル体が虚構の世界に旅立っているから時間の感覚がリアル時間と異なるのだろう。