行方不明の象を探して。その124。

武術を教わっている師父に

 

「また時間がズレてしまいました。稽古、お休みします」

 

とラインをする度に嫌な気持ちになる。まるで武術と虚構の世界を秤にかけているようで、自分は虚構の世界に没入する道を選ぶから武術は二の次だと言わんばかりのプライオリティをつけてしまっているようで、なんだか武術そのものに申し訳なくなってしまう。

 

しかし身体を動かさないと身体は鈍っていく一方だし、むしろ本当に書きたいと思っているのなら身体を動かすべきなのである。書きたい欲があり過ぎても悪くはないが、熱がこもり過ぎると創造性が刃となって精神を傷つけるようになるから、適度に熱量を運動で発散しないといけないのだ。

 

だから僕の体に触れないでください。あなたはそこにいるのです。そこに踏みとどまり、そこにいるのです。ああ、僕は死んだ。僕は死んだのだ。僕は殺された。忘れていた。そうだ。これは僕の墓だ。開けてはいけない。私の身体は日なたで腐るところだったんだ。過去の音を手のひらで感じる。ようはアストラル体がどっかに行ってるってことだろ。そんな大げさなもんじゃないよ。かっこつけるんじゃないよ。

 

そんな俺が目に浮かぶようだ。心を穏やかに。心を静めるのだ。いや、静める必要はない。荒ぶっているわけではないのだから。両腕が首に、胸に、そして腰と膝に回される。すると、まるで異界の生き物のような深いため息が漏れた。俺はほとんど何も着ないで横になった。

 

まるでそれが合図であるかのように、彼の体内を血の気が引いた。彼は暗闇の中で、肘で上半身を支えながら立ち上がった。ああ、寒い。僕にどうしてほしいの?例えばあなたはは僕にどうしてほしいのですか?もし、僕が間違っていたとおっしゃるなら、謝ります。何か着るものをください。僕の体は地面に凍りついている。本人にとってはそれは純粋な声であった。しかし、それは声でないものとして消えてしまった。声にならない言葉はいつまでも続く。

 

「本当にすみませんでした」

 

斜めに頭を傾げるような感じでお母さんに謝罪をした後、髪の毛が目のあたりにかかるのを気にしながら、僕はハイヤーをピックアップして自宅に帰った。お母さんに今日あったことを説明しようにも内容が意味不明過ぎて説明できない。髪はデップで固めておいたのだけれど、お日様の光を浴びているうちに柔らかくなってしまっていた。

 

12時間というより11時間ぐらい起きてから眠くなる。手足が温かくなってくる。逆に寝れないときはコカインを決めたときのようにギンギンで全く寝られる気配がない。12時間ぐらい寝た次の日は眠くならないことが多いのに、日中起きている生活をしていると、いたるところで俺が書いているように、日中の世界の活動的な磁場にすっかりやられてしまって、なんだか空間に身体が馴染まない感じがして疲れる。誰の気配もない生命の気配すらも感じないぐらいの真夜中が一番身体に合う。

 

「ブルースはストレートのウィスキー、ブルースロックはロックのウィスキー、もっと聴きやすい濃くないブルース的なものはハイボール」

 

そんなことを言っていたやつはエレクトリックブルースと戦前ブルースのレコードの棚を分けることに躊躇はしなかったが、ジョニー・ウィンターやスティーヴィー・レイ・ヴォーンとChicken ShackやSavoy Brownが同じ棚にあるのは大雑把過ぎると思っていた。フランク・ザッパは買おうとはしなかった。

 

国で分けると国粋主義的だ。何で?ようは棚なんだから「あれがここの棚にあって」って分かればいいんじゃないか?そこはインターナショナルでいこう。国技である相撲に外国人力士がいるのと同じことさ。究極的な黒人文化であるブルースに人種的には外人がいても問題ない。コミットする心と魂があればやれるのさ。

 

というか何もかもが黒人のマネだ。モダン音楽は黒人文化から生まれた。基本的に最高にクールを体現するのは黒人ばかりだ。なぜあんなグルーヴィーなベースを弾けるのか、ドラムを叩けるのか、DNAとしか言いようがないものを感じる。声色も真似のしようがない。黒人風に歌うブルースはカッコ悪い。ラップ然り。だから日本人なら日本人らしく、白人なら白人らしい歌い方をすればいい。黒人には敵うわけがないんだから。黒人の声はいいんだけど演奏はイマイチ・・・ということが無いから無敵だろう。凄い声を持っていて演奏技術と知識ではないグルーヴ感やフィーリングやブラック・スピリチュアリズムのような霊性を持っている。

 

改札口を抜けたら大きなあくびが自動的に出て同時に睡魔が消えた。そのままスーパーマーケットに入り冷凍枝豆と缶ビールとパックの卵を買ってアパートに戻りシャワーを軽く浴びた。さてと。冷蔵庫からビールを取り出しタイプライターに向かう。書けなかろうが読めなかろうがとにかく小説を書かねば。

 

そもそも小説とはなんだろうか?

 

「作者の構想を通じて人物や事件、人間社会のあり方や人間の心を描く、ストーリーのある文章」

 

辞書を引けばこのような説明が出てくるだろう。だけど馬鹿でも素人でもないので小説がそれだけではないことを知っている。起承転結のある文字が並んだものだけが小説ではない。登場人物が物語の中を駆け巡り一つの結論にたどり着くものだけが小説ではない。作者の強い思いが全編に出ているものだけが小説ではない。

 

登場人物がいなくて記号表記だけで書かれていても評論形式で書かれていても愚痴しか書かれていなくても文法がめちゃくちゃでもテレビ画面に文字を表示させても誰かの文章のコピーでも写真が貼られていても映像でも漫画で文字が書かれていなくても小説ですと作者が言えばそれは小説になる。どんなものだって小説をいえるしまた実際に小説なのだった。

 

そうした小説がいくつも世に出ているのを知っていたし実際に読んだこともある。その時確かに小説を読み終えたのと同じ種類の感覚を味わった。つまり小説を書くような心で書けばそれは小説なのである。動物園襲撃について書くかどうかについてはまだ悩んでいた。