行方不明の象を探して。その126。

「さて、どこかに行きますか?」

 

「動物園を襲撃しに行こう」

 

「いいね」

 

と言った。内容的にはキリンさんと一緒に行く時の話と重複したり、大体園長が同じような態度なので省略する。またレコードを渡されたけど面倒なので省略する。問題は一週間ばかり象の調子がひどく悪かったということだ。例の女の子のせいなんだと思う。でも象はそれについては一言も喋らなかった。象の姿が見えない時、厄介な願い事をしてくるマスターを捕まえて探りを入れてみた。

 

「ねえ、象はどうしたんだと思う?」

 

「さあ、分かりかねますね」

 

マスターはため口っぽい時とコンシェルジュっぽい時がある。今回は後者だったようだ。象はまだ創作を諦めていないことを知ると象の心は少しずつ落ち込んでいった。ただそこには大きなギャップがあるのではないか。表現しようとしているものは小説であって小説じゃないのかもしれないし、それはイメージはできていて宇宙が見た夢が虚体に近づくというものだ。しかしその結果だけではなくプロセスを全て記述するというものだ。

 

象の反小説運動はまだ小説で色々とやれることがあると勘違いしてしまう人を止めるための善意の行いで、それは当てはまらない。それは特別なのではなく、所謂、一般的に言われる小説というものを書こうとしているわけではないからだ。

 

象はカウンターに座ってぼんやりと本を眺め、何を話しかけても気のなさそうなとおりいっぺんの答えを返すだけだった。

 

「多分、自分の存在意義に悩んでいるんだよ。その気持ちは分かるね」

 

とマスターは言った。象にもポコチンはあるはずなので、女と寝たときに「あなたのポコチンがレーゾンデートルね」って言われれば一時的にも存在論問題が解決できそうな気がする。でもそういう表面的な雰囲気ではないのはよく分かる。

 

文学の行き詰まりや表現の行き詰まりのようなポストポストポストモダンな息苦しさを感じる。全てが相対化されてデータベース化される情報化社会。何も「でも文学ってそういうことじゃないんだよ」なんて大げさなことを言いたいわけではない。ただやりたいからやるだけで、それが上手く行こうが失敗しようがあまり関係ない。

 

それ言い出したら何も意味がない。意味がないというところから始めようといっても、では仮にだ、全てが内部だと思って見よう。おしっこしたいとか腹が減るとかがいちいちバカバカしくて面白い現象のように思えてくるとしたら、外部は存在しなくなるだろう。内部で完結すればそれはクレイジーだが、かといっても外部もかなりクレイジーだ。

 

その間に居て、俺は狂いそうになる、といっても発狂という類のものではなくて、何もかもは無感覚になるような感じだ。何回も繰り返し同じことを書いている気がする。でもそうなんだからしょうがない。

 

彼女はやさしく、そして力強く話す。僕たちは見ているし、彼らも見ている。あなたは僕の話を聞いていない。無感覚だって?贅沢なぐらい暇だからそうなるんだろうとでも言いたいのだろう?それでも僕はあなたに伝えようとするのに、あなたは聞いていない。

 

でも状況は変わってきますよってアイコンタクトでそう言う人がいますよね。そもそもそんなに悪いわけがない。変化とは、進歩に気づいてもらえることに感謝することだ。なんて白々しい。ほら、時間を見てください。

 

アルコールが気づきを支配するその瞬間の喜び。俺は明らかに悩んでいる、一緒に帰ろうと無言で手招きする。ああ、僕たちはなんと誤解しているのだろう。こうして二人は、無常のものと永久のものとに大別するようになった。この無常の中にあるものすべてが、僕たちの存在の特殊性であることがわかり、それらはでもないものに分けられたのである。 

 

その物理的でも精神的でもないものの中に、「達成」、「老化」、「厄災」がある。 その中で、「達成」「老化」「偶然性」が挙げられている。この現実の大きな区分の永久的な側には、彼らが空間と呼んだ概念があった。 

 

この言葉によって、彼らは概念的な空間でも、感覚によって与えられる空間でもないことを意味した。彼らは繋がりを意味した。このような基盤は、一過性ではなく、還元可能なものであり、人が生きている限り存在すると彼らは判断した。 

 

そして、それがどうなるかは、当然ながら考えているつもりだが、この行き詰まりは、まったく救いようがない。例えば、彼の立場を考えてみよう。彼は朝食について、積極的で役に立つことを期待しているのに、物事の順序としては、彼女がプルーンのことを知ることの方が、人生のディレクションを変えることよりも重要なのだ。 

 

そして、我々が見てきた彼の問題はどうだろう?彼はまだベッドの上に座って、両足を床につけている。小さな飲み物とねるねるねーるねのヴィンテージが置かれている。中身は腐ってないのか。そのせいもあるのか、氷にはほとんど触れていない。彼の頭の中では電話が鳴り止んでいるところだ。 

 

二人はベンチの上で固まっている。象は馬鹿にしたような顔をしている。戦士の顎は固い。 信じられないほどゆっくりと、僕たちの視界は滑り始める。彼の考えは、死は常に人を不安にするということだ。いつもだ。 準備のしようがない。 

 

奥さんはどこですか?なぜ彼女はここにいないのですか?結婚してないからだよ!奥さんっつーか彼女すら居たことがないよ。性欲も減衰してきてるから女自体に興味が無くなって来てるよ。悪いか。荷物はありますか?大したもん入ってないよ。ペットボトルと本数冊とウォークマンぐらいかな。

 
どう見ても、俺は自己満足で無関心だ。つまり、そういう風に見えるってわけだ。俺はよく着飾ってるけど、あらゆる意味で相殺されている。外見のマニフェステーション。俺たちの共通の経験は、精神的あるいは知的な退化の現れによってしか感じることができないのだ。だから俺の無関心は狂人のものとは違う。これはただの自己満足だ。

 

俺は相殺されている。あと俺はよく着飾っている。その割にさっきママにぎっくり腰になったところにバンテリン的なものを塗ってもらった。母の愛に満ち溢れている。愛情たっぷりに育った。だから愛情を知らないフリをしたくない。

 

でもそれと知的幸福は別でしょう?俺はNつんばいになってママにバンテリンを塗ってもらったさ。イタチを飼っていたこともある。ソウルメイトだった。魂が不滅なら今でも彼女はソウルメイトだ。だからさっきのさ、奥さんがいないだの、そもそも彼女がいないだの、宇宙規模で考えてみれば些細なことであろう?ソウルメイトのイタチがいるほうが、もっと壮大だろう?

 

問題は明日の行動さ。何しろ瘋癲院に行かなきゃならない。寝るためのお薬と、自殺を止めるお薬をもらわなきゃならない。その時に問題なのは腰の痛みだ。自転車で行くのか、杖を突いて歩いていくのか、痛み止めマックスにすればいけるに違いない。そしてまた女に興味はないとか言いながらJCやJKの生足を見て欲情するのだろう?

 

書いて読んで寝る。それだけの生活をしてる惨めなやつだからな。外に出るといったら瘋癲院に行くぐらいしか用事がないと来たもんだ。我々は皆、自分自身の模倣に嫌になっているんだろう。やれまた瘋癲院だ、執筆なんてほどでもないこの書くっていうことか、それ以外のほとんど死んだ時間と言えるプライベートな時間とか。やりたくない仕事をしてないだけ幸福だと思え。というか大抵の人間はやりたくない仕事をしているのだぞ?

 

やりたくない仕事をしている生活を考えて見たまえ。あれだ、昔、瘋癲院の前で泡吹いて倒れただろう。ストレスが行き過ぎると倒れるようになってるらしいんだ。俺のボディ。というかブレイン。だからすぐぶっ倒れて瘋癲院行きさ。何しろこんなもん正常だったら書くわけないもの。でも世界の他の地域とか他の民族の間では自分自身の模倣が嫌われないという話を聞いたことがある。