行方不明の象を探して。その134。

彼女は黙っていた。そう彼女が僕に話すとき彼女は僕と同じようにして僕に話すのではない。彼女が僕に訴える時、いかなる場所からも彼女に離さない何かに彼女は答えており、その際にはある区切りによって、つまり僕と彼女の二重性も一体性も形成しないような区切りによって彼女は僕から切り離されている。

 

「冬にはまた帰ってくるさ。クリスマスのころまでにはね。12月24日が誕生日なんだ」

 

彼女は頷いたが何か別のことを考えているようだった。


「山羊座ね?」

 

「そう、君は?」

 

「同じよ。1月10日」

 

「なんとなく損な星まわりらしいな。イエス・キリストと同じだ」

 

「そうね」

 

彼女はそう言って僕の手を握りなおした。

 

「あなたがいなくなると寂しくなりそうな気がするわ」

 

「きっとまた会えるさ」

 

彼女は何も言わなかった。

 

「みんな大嫌いよ」

 

彼女はぽつんとそう言った。人生ではじめて身近にひとりの女の息遣いを聞く、その感動を僕は今思う。


「僕も?」


「ごめんなさい」

 

彼女は顔を赤らめて気を取り直したように手を膝の上に戻した。

 

「小説の話をしてよ」

 

「あれは、小説でもないんだ。あっちこっちがばらばらで話らしい話もなくて。話の断片にすぎない。それに現在それを書いているわけじゃない。強いて言えば本を一冊書いているぐらいなところだよ」

 

「そうなの。なんかね、やっぱりね、あなたは嫌な人じゃないわ」

 

「それほどはね?」

 

「一人でじっとしてるとね、いろんな人があたしに話しかけてくるのが聞こえるの。……知ってる人や知らない人、お父さん、お母さん、学校の先生、いろんな人よ」


僕は頷いた。


「大抵は嫌なことばかりよ。お前なんか死んでしまえとか、後は汚らしいこと……」

 

「どんな?」

 

「うんこを中年男に食べさせて恍惚としている変態女とか、その変態女のうんこを身体中に塗りたくってお互いのゲロを啜り合っている中年の男同士とか」


「ハードコアだね」

 

「そうね。頭がおかしくなりそう。病気だと思う?」

 

「どうかな」

 

僕はわからない、という風に首を振った。語り手の声というのは、あくまでも内側にあるのであって、自分自身を具現化することはできない。むしろそれは個人の声を崩壊させる無関心だ。それは幽霊のようなものだろう。

 

「心配なら医者に診てもらった方がいいよ」

 

「いいのよ。気にしないで。こんなこと話したのはあなたが初めてよ」


「凄くハードコアだもんね」

 

文学を肯定する者は、それ自体では何も肯定しない。求める者は文学を越えたものしか見いだせない。彼女のイメージには超えた文学がある。所詮、それぞれの本が本質として追求できるのは非文学なのだから。


「そう。凄くハードコア。凄く……。あなたの本もそんなところなんでしょう?」

 

僕は彼女の手を握った。手はいつまでも小刻みに震え、指と指の間には冷えた汗がじっとりとにじんでいた。そして僕は少し考えた。どんな本だと言えばいいのか。本の概念について話すのは難しい。彼女は執拗に僕を見つめていた。強情な女だ。


「例えば、だ。この本の中では象が失踪したということになっている。これが概念」

 

「ダメよ。そんなの」

 

「わかってるよ」

 

僕たちは黙り込み空堤にぶつかる小さな波の音を聴きながらずっと黙っていた。こうしている間にも物事が勝手に進む。それが人生の最初の兆候。僕は引用し引用し引用する。片手では不可能だから両手を使う。

 

彼女も上の空だし僕の上の空だ。会話しているようでしていない。お互いが冷めているわけではない。物事に対して冷め切っているのだ。そういった意味では僕と彼女には接点がある。究極の無関心という接点が。

 

「ハードコア。いいじゃないか」

 

彼女が狂っているのなら、仕方がない。彼女が狂っていても、僕はどうすることもできないし、誰もどうすることもできないだろう。僕は彼女を理解した。したように思えただけかもしれない。そんなことより僕のほうが彼女より色々な声を聞く。


イメージがダイレクトに頭に突き刺さることもある。彼女のようなハードコアなイメージからソフトコアなイメージまで。ハードとソフトの二極のような単純な話じゃない。そのイメージを追うとまた寝られなくなる。

 

「色々な人間が象を探している。だけど象は絶対に見つかりたくない。ところが人々は象についてはほとんど何もしらない。ぼんやりとした手掛かりは持っている。支離滅裂な話、曖昧なエピソード。人々は苦労してそんな記号や断片を貼り合わせようとする」


「それじゃあなたは誰なの。本の中のあなたは」

 

「それは最後まで書かない」

 

「どうして人々はそんなに執拗に象を探すの?」

 

「さあ、どうしてかな。よく説明できないよ。これは本を書いている僕にもよくわからない。ある過去を、もしくはなにかの答えを探しているのかもしれない。ずっと前にわからなかったことを理解しようとしているのかもしれない。象を探すことで、自分自身を探していると言えばいいのかな。本というものはよくそんなふうにして書かれる。それが文学だろう」


「ひどいわ。酷くつまらなさそう。そんなもの読みたくないし知りたくもない。この本にとってはすべてが枠外じゃない。枠の中にあるものを言ってよ」

 

「さっき言った通りだよ。人々が象を探している。本は人々がどのように象を探すかについてだ」

 

「意味が分からない。本当にそれってつまらなそう」

 

「じゃあシナリオにはこれも入れよう。僕らの今の会話と状況。僕らの状況と同じような、暑い空気の薫ると恵右、海に面した優雅なホテル、キャンドルを置いた小さいテーブルの並んだ広々としたテラス、くぐもった響きの音楽、控えめにテーブルを縫ってまわるよく気の利くフロアスタッフ達、選り抜かれた料理。僕は美女とテーブルについている。するとある瞬間……」


「ある瞬間?」

 

彼女は聞いた。

 

「するとある瞬間、僕がその男を見る。そいつは奥のテラスの向こう側のテーブルに居る。僕のほうを向いていて僕たちは顔をあわせる。僕も女の人と一緒にいる。ただ彼女は僕に背をむけているので、誰なのか僕には分からない。知っている人からも知れない、というのか、僕はその人を知ってるつもりだ。誰かに似ている。というのは二人の人に似ている。その二人のうち一人かもしれない。だけどこちらと向こうでは離れすぎていてキャンドルのあかりではとても断定できない。それにテラスは広い。ここと同じくらいに広い。彼が多分、女の人に振り向かないようにと言ったのだろう。彼は僕とずっと見ている。まったく動かないで。彼が満足しているのがわかる。ほとんど笑っている。彼も僕と一緒にいる女が誰か分かっていると思っているに違いない。誰かに似ている。いや一人でなくて二人の人に似ている。その二人のうち一人かもしれないと」

 

「つまり象を探していた男が象を見つけたのね?」

 


「そのとおりではないけれど」


僕は言った。自分で喋っていてもわけがわからなくなっていた。でもそういうものを書いているのだからしょうがない。彼女はなぜ混乱しなかったのだろう?いつもこれに似た感覚がある。彼女ではない他の誰かが目に入ったときに彼女の残像のようなものを感じる。彼女もこちらを見ているような感じがする。その時に自分は彼女の視線こそが自分なのだと感じる。

 

「それから?そのあとなにが起こるの?」

 

「何も起こらない」

 

腑に落ちない顔をして彼女が僕を見てコーヒー・カップを置きながら言った。

 

「意味がわからない」

 

「そうだ。僕もそう思う。でもあるんだよ。そういうことが」

 

「話の終わりが食事の終わり」

 

彼女が言った。