行方不明の象を探して。その135。

30分かけて彼女のアパートまで歩いた。

 

ちくちくする灌木の枝に頭をもたせかけたまま、息を吸い込んでみる。夜の植物の匂いがする。彼女の声を聞いた途端、僕は暗い淵に引きずり込まれそうな虚脱感を覚えた。さっきまで見ていた夢の情景が甦る。海辺で不意の高波に飲み込まれ、上下左右の方向感覚を失って海底深く沈み込み、なす術もなく波に翻弄される夢……、海の匂いがする。犬の糞のような匂いもかすかにそこに交じっている。樹木の枝の間から夜の空が見える。

 

彼女から意外な言葉が出た。彼女から「相談に乗る」と言われるとは思わなかった。岡本先生?聞いたことが無い名前だ。いい男が親身になって彼女の話を聞く。ああ、その役、僕が代わりたい。素敵な人か……一体、どんな男なのだろう。また新しい悩みの種が増えそうだ。

 

サッシ戸を開けると、部屋の中に潮の香りが流れ込んできた。風はほとんどなく、湿気を含んだ夜の空気が、黒々とした湾からそのまま上昇してきて、風呂上がりの身体にまとわりついてくる。僕は苦労して左手を上に持ち上げ腕時計を顔の前に持ってくる。目をこらす。腕時計などしていなかった。ふと、目が開く。天井。部屋、朝。ひとり。東京。そうか。夢を見ていたんだ。僕はベッドから身を起こす。

 

朝食後はバルコニーに出て、星の動きや月の満ち欠けを観察することにしていた。月の表情は微妙に移り変わり、見ているだけで神秘的な気持ちになってくる。インスピレーションを受けることも多かった。でも何も浮かばなかった。月を見るだけで何か書けるようになったらどんなに楽だろうと思った。夜空を眺めるのは、毎日の日課である。サッシ戸を開け放ち、暗い足下を探ってサンダルをつっかけた。夜空に張り出した、超高層マンション二十九階のバルコニー。

 

月も星もないけれどそれでも空は妙に明るい。空を覆った雲がスクリーンのようになって、地上の明かりを反映しているのだ。救急車のサイレンの音が聞こえる。それは少しづつ近づき、そして遠ざかっていく。耳を澄ませると通りを行き来する自動車のタイヤの音もかすかに聞こえる。どうやら都会の一角に僕はいるようだ。見ていたはずの夢はいつも思い出せない。

 

九月も半ばを過ぎて、残暑はことのほか厳しかった。六月から熱帯夜が続き、秋になっても炎暑が衰える気配はない。いつからか、夏という季節がどんどん延び始めたようである。

毎晩こうやってバルコニーに出るのだが、涼しさを得るどころか、余計に暑さを実感するだけだ。

 

手を伸ばせば届きそうなほど、星空は間近に迫っていて、眺めているうちに、暑さなど忘れてしまう。本当にこういう主観的な出来事がつまらない。蚊がいた。実際、lこの季節にバルコニーに出る利点など一つもない。キンキンに冷やした部屋でダラダラ過ごすのが一番いい。夏に外に出るなんて死ににいくようなものだ。

 

「ねえ、車は置いたままでしょ?」

 

「後で取りにいくさ」

 

「明日の朝じゃまずい?」

 

「かまわないよ」

 

「あなたの本だけど納得できないことだらけっていうか納得できないところしかないのね。ほとんど」

 

「僕もそう思う」

 

「いやあね」

 

と彼女は言った。

 

「あなたはあたしの批判にいつでも賛成する。我慢できないわ」

 

「でも心からそう思ってるんだよ。なんなんだ?これは?って。君の写真に似たようなことかもしれない。引き延ばすとコンテキストが本物でなくなる。何事も距離をおいて見なくてはいけない」

 

それから僕たちは残りの道をゆっくり歩いた。安定剤が効いてくる前のような感覚があった。でも安定剤は飲んでいない。彼女をタクシーに乗せた後で僕は深夜のアーケード街を歩いた。仕事が順調に進みそうな手ごたえを感じていたからか足取りは軽い。もともと僕の仕事は気楽なものだった。

 

「今夜は一人でいたくないのよ」

 

彼女は歩道に向かってそう言った。彼女は10ヤード15ヤードと離れて歩き、顔を上げ、僕を見て確かにそう言った。僕は何かを答えなければいけなかった。彼女の黙した現前に応えながら話すということが求める要請を認めながら、モダニズム的味覚の世俗化を認めつつ、全ては記憶の世俗化であるということも認める。なんだかもう認めてばかりね。

 

ところで、僕たちが知っている演劇や物語は、そういった経験の世俗化である。他にも例はありますが、おわかりいただけたでしょうか?例はあるといっても思いつかないものでね。つまり、僕たちは、技術の言語を除いて、西洋と東洋に共通する言語をまだ見つけられていないことを忘れないでください。英語で言うとドンフォゲット。

 

では、第4の世界に対して、地理とは無関係な差異をもって異なる者たちの世界を語ることの難しさを考えてみよう。たとえば、精神的に異なる世俗化は、精神的に異なる者を排除しなければならないのだろうか?定義上、精神的差異は我々のイメージを共有しないし、我々と歴史を共有することもない。精神的に異質なものは、近代的でありえない。精神薄弱者は、科学の世界でひねくれることはできない。精神的に異質な者は、われわれが知っているような演劇や物語を鑑賞することはできない。

 

他の違い、それから精神的な違いが、第4の世界を、そのような困難なコミュニケーションをとる3つの世界から分離していると仮定することができるとすれば、さて、たとえば、感情はどうなのだろうか。一瞬、この瞬間の始まりでよく、あなたの中の変化が精神的に顕在化されていると仮定する。

 

あなたは、想像の草原に立って、生身の人間から距離のあいまいさなしに名前で話しかけられたり、高い位置にあるビッグブラザーを知ることによって、イメージを構造的に変えることなく大幅に簡略化し、同じように激しく、イメージの重荷なしに感じた喜びよりも、たぶん激しくない永遠の歓喜の状態に入るだろう。端的に言えばオナニーだ。

 

これが、イメージのない純粋な至福の感覚ということなのでしょう。あなたは現代人ではないはずです。我々は科学に信頼を置くことはできない。僕たちが知っているような演劇や物語を評価することもできない。あなたはこの中にいることになるのです。

 

現実の世界とはまるで精神的に違う関係で、それらの世界には、永遠の歓喜の状態を意図しながら、自分は精神的にオッケーだということを伝えることはできないでしょう。いや、夢を参照すればできるかもしれません。しかし、あなたは夢を見ていないでしょうし、夢が何であるかも知らないかもしれませんし、夢のイメージを通してコミュニケーションを図ろうとすると、あなたの歓喜が一過性のものであることが明らかになることを忘れないでください。

 

第4の世界は、他の3つの世界とは異なっています。そうでなければ言葉は全く必要ないし、言葉の中にも違いがあるので、そこで、あなたが夢を人生の基準として扱う際に問題となるのは、夢が色あせてしまうことです。