知覚を遮断したら身体が浮き始めるのはエーテル体の証明だ。全ては脳が作り出しているかって?そんなに脳は万能じゃないさ。どうやって浮かんでいる自分の目線を知覚する?というか記憶からそれを取り出してきて、あたかも浮いたかのように知覚する?いや、それは浮いているからそう見えるんであって、自分がそう見えているから、というただの現象に過ぎない。そういう意味では不思議でもなんでもない。
見えるものだけを信じるというのはすさまじいメンタルブロックを作り出す。まさに物質界に囚われる囚人のようだ。プラトンの洞窟の比喩は実は物質界からの離脱を示唆するものではなかったのか。3次元に飽きるというのは良いことだ。メンタル体がエーテル界とかもっと上部のものと振動し合いたがっている。
幼少期から青年期にかけて狂い死にしそうなほどの幻覚や幻聴を見てきた、といってもそこまで酷いものではなかったのだが、明らかに日常生活に支障をきたすものだった。
「お前はキチガイだ。脳波を取る」
といって永遠と脳波をとられては
「意味不明だ」
と医者に言われ続けたときの絶望感が無駄ではなかったのだと気づく。あれは別に精神異常ではなくて、まだ体と精神の準備ができていなかっただけで、むしろあの能力を抑える必要なんてなかったんだ。でも完全に自分でも頭がおかしいからとしか思えなかったから抑圧するようにしていたと思う。
今はその解放の時期だ。でも1Wayチケットなのは間違いない。行ったら戻ってこれないけど、そもそも戻る場所がないし、戻る場所でやっていける気がしない。昨日、夢を見た、というか最近は毎晩夢を記憶している。色白のぽっちゃりした初老のマダムがリムジンかなんかに乗っていて、俺はその横にいる。で、そのマダムが
「あなたは62歳になった時に今まで信じていたものとか得たものを全て失って死ぬのよ」
と言っていた。
「62歳なんて早すぎるだろ!」
とかって口答えをしたら両脚が緑の甲冑の義足になっている老人が
「そんなに騒いでも仕方あるまい。だって決まっているのだぞ」
と言っていた。マジなのか。62歳まで生きれることは確定している、と安心するのか、自分の寿命を知ってしまったと恐怖するのか。ただとりあえず以前の俺ではありえない体験をしているのは間違いないし、楽観的に見れば夢占い的には死神に合うのは吉兆なんだそうだ。それもとてつもない吉兆らしい。タロットのDeathみたいなもんだろう。
死神とは言え神様に出会えたんだ。良き出会いに感謝だ。
「いらっしゃいませ。この店ね、雑誌で評判だったのよ。ん。どうしたの?」
「別に?いい雰囲気の店だなあと思って」
「どうして?祐樹君はキャンプに行かなかったの?」
「良いドラッグが無かったから」
「祐樹君、それってその……」
「お待たせしました。あのさぁ、祐樹君」
「いや、ごめん、変なこと言って。本当ごめん。忘れてよ」
「いただきます」
「いただきます」
「あなたは?誰なんだ?」
「どうした?顔色が悪いぞ」
「いや。 なんでもない」
「それ呼んだのか?」
「象」
「結構笑えるから勝手に持ってきた象が見えたとかな?」
「動物園と道路は一緒」
「通路っていうか商店街な」
「デモ隊が常にいるやつね」
「他に好きな人とかできたりしてないよね?何か知ってるの?」
「いや、でも気になるなら直接聞いてみれば?」
「知ってるなら教えてよ」
「いや、何も知らないよ」
「それって直接聞いた方が早いし、話もこじれないだろう」
「そう。そうよね。あたし。チャゲに捨てられたくないの。何があっても絶対に」
「どうしてそんなにチャゲがいいんだ?」
「アナーキスト中のアナーキストだから」
「もしチャゲにフラれたら?」
「チャゲの家に火炎瓶でも投げようかしら?」
「怖いこと言わないでくれよ」
「アナーキズムで講義とかする人が居るでしょう?あの理由ってわかる?それだけの覚悟で訴えてるってことなんじゃない?そう、アナーキズムを実践するには覚悟が必要なの」
「あれだろう、和代さんよ、あなたはある意味、チャゲよりアナーキズムに詳しいのだろう?」
「知らない。それよりさ、何してるのよ?スマホ忘れちゃダメだって。あたしのラブメール受け取れなくなっちゃうし」
「勝手に触るな!」
「ちょっと見てただけだって。はぁーメールが……」
「いいじゃない。別に。それよりあたしのメール全然保存してない」
「何を?」
「うん」
「何ですか?」
「だってさ、聞いてよ、象がそう言うんだよね。絶対にあの何おかしいと思わないか?」
「全くこんなしつこいなんて思いもしなかった。僕は泣きましたよ。診察してどうぞって言われたんで病院にすら言った。ええあ?そうそう、普通はね、どうですか?調子は?」
「あの薬を飲むとすごく楽になります」
「そう。 もうお守りを使ってしまったのね」
「本当に効きました。また出してもらえませんか?なんで出してくれないんですか? 牧田さんは茉奈さんの紹介でしたよね?」
「だったら恭二くんのことは知っている?あのお守りは彼が研究していた物なの。気をつけて」
「ってことはあなたは臨床試験のデータが欲しかったってこと?」
これが話の終わりであるようにそのときの僕には思えたし、しばらくは小説の終わりでもあった。その薬の苦さにははっきりと何かが終わったという感じがあった。その後、あいかわらずそれは話の終わりではあったものの、僕はそれを小説の最初に持ってきた。
このようにコピーに従順なものこそが文学を紡ぐ資格がある者である。この謎はこの書くことが消えていく受動性から生じる。この活動は通常の複製から、あらゆる複製への彼方へと気づかないうちに突然に移行する。つまりあまりにも受動的な生活は究極の逃避先としての死を持たず、死を逃避先にすることもないのである。彼はコピーし、絶え間なく書き続け、支配に似た何かに服従するために長く立ち止まることはできない。
原稿はどちらも未完成だ。一本はドストエフスキーの地下室の手記をリミックスした、つまらないもの。ネガティヴではなくてとてもポジティヴな人間の手記という内容だったのだが、アイデアの凡庸さが退屈さを極めたプロットA。もう一本は見失わないうちにどうしても書き残しておきたかったプロットB。
不調なときの昔からの癖で日本を同時に書き進めていたのだが、そのどちらもうまくいかぬまま明け方を迎えるという最悪のパターンになった。愚劣を極める駄作のプロットA。相反する作家的良心と純文学の叫びプロットB。どちらも気に入らず中断した。Aを引き裂き屑籠に捨てBはそれでもあとでもう一度手直ししようと丸めたシワを伸ばしたのだが。
だからどちらも出来てなかった。それが。倦怠に連れ去られていた間に完成された真新しい二本となって目の前にある。操られるように手に取った。見るまでもなくわかっている。誰も知らない作品。ある朝目覚めたら机の上に見知らぬ原稿があった。タイプライターではなくワープロで打たれた知らない作品。
混乱した僕は目を閉じて頭の中の空虚な空間を見つめていると、僕の魂はいつのまにか小さな小さなものに縮んでしまい、無限の空虚の中をあてもなくさまよう微生物のような気分になってきていた。その空虚の中で僕は、無限の虚空をあてもなく彷徨い続けるのだ。
「あなたが机に向かってゆっくりと苦労しながら何かを書いてらっしゃるのが見えた。あなたの手は長いことキーボードの上に乗っかったままだった。それからまた書いていった。そして突然諦めてしまった。あなたは立ち上がって仕事場を出てった」
「よく眠れないんです。あなたと同じでね」
「ぼくらは眠れないほうなんですな」
「ええ。僕は音を聞くんです。犬の声なんか。壁が軋むこともある。しまいには目がまわってくる。そこで何か書くわけなんです」
「なるほどそうですか。手紙かなんかですか?」
「手紙もあれば小説もあれば……といったところですね。でも相手がいない。相手がね。ここの夜の静けさのうちで、このガランとしたホテルの中で、誰に差し出すかということですよ、そうでしょう?」
「あなたと僕とは夜中に酷い興奮状態に陥ってるわけなんだな。僕は街を歩くんです。時には自分の声を聞いてみることもあります」
「ときどき、あなたの姿を見ました。夜明け間に声を聞いたこともあります」
「おっしゃる通りだ。そりゃ僕の声です。遠くの象と僕の声がするんです」
彼らは黙ってお互いを眺める。
なんとなく室内を見渡してみる。例の誰も知らない作品が消えたのだ。このようなことがあるたびいつもそれを考える。そして明確な答えを恐れていつも意識から外してきた。今日こそはそれをハッキリさせよう。決意した。部屋中探したがやはり原稿はない。では最初から存在しなかったのか。あれは焦りと苛立ちが創り出した白昼夢だったのか、いや、そうではない。
いつのころからか独り言を言うようになっている。これは作家の職業病などという者もいる。声量が大きいとノイズキャンセリングヘッドフォンが音声を認識してノイズキャンセリングがオフになる。独り言を言ったということがより明確に認識されることになる。
男根の大胆さを省みない。プラスゴミ。深遠なる愚かさ。狂気の戯言。純粋なナンセンス。雨のために毎日雨が降る。天才になるには、多くの時間が必要だ。非線型。不連続。コラージュのような。アッサンブラージュ。説明や描写が小説に必要な理由がわからない。ハサミと糊の男として後世に名を残すことに満足している。
良い図書館と美味しいビール。傘のような頭髪。多言語の落書きが散らばっている。天才の性質は、20年後にバカにアイデアを与えることだ。小説家の孤独。年が経つにつれ、その孤独も増していく。例えば、レジの店員や、手紙の配達人、あるいは基本的に匿名性の高い入居者以外、誰とも話さないことを意識する日がある。エレベーターに乗り合わせた、基本的に匿名の住人たち。
「小説を書くなんて狂ったヤツのすることだ」
今度は意識して声に出して言ってみた。また「ピコーン」という音がしてノイズキャンセリング機能がオフになる。声に出したことには何の意味もない。そもそも言語自体にすら何の意味もない。すっきりした頭をさらにすっきりさせようとバスルームに入った。