行方不明の象を探して。その140。

「え?あ、うん、その、まぁ、きっと発狂するよ」

 

「どうしてまた」

 

「正直言うと具合が悪いんだ」

 

小説を書くとき、登場人物の職業をなんにするか、いろいろと頭を悩ませる。やっと職業を決めたら、今度は資料となるような本を読まねばならない。ところが、職業を題材にした本って、たいがいすごくおもしろいのだ。資料だということを忘れ、読みふけってしまう。結果として、小説の原稿がなかなか進まず、締め切りに遅れる。

 

「なにかできることはない?」

 

「だめだね」

 

「それにずいぶんと痩せちゃったみたいだけど。何かやってるの」

 

「何かってなんだ」

 

「ドラッグとか」

 

「君はやっぱり医者にはなれないな」

 

自分が狂ってるのか、誰が狂ってるのか、しばらくするともうわからなくなった。嬉しいような、悲しいような、恐ろしいような、悔しいような、過去からも現在からも宇宙からも何からも切り離された幽霊のような気分になって、椅子にふんぞり返って、底もなく終わりもない痒みを感じて、それを一番底までかき回される快感を味わいながら、僕は、その痒みの正体を知った。 なんだかよくわからないけど、これから若い作家になるんだ。

 

「そんなんじゃない」

 

「じゃあ何」

 

彼女は食いついてきたので、僕は席を立ち、片手を曲げて光を当て、暗闇を覗き込んだ。しかし暗黒の中ではっきりしない気配を感じ、そこに駆け寄ったような気がした。そこには誰もいなかった。孤独は完全だった。僕はひどい孤独の中で何かを祓っていた。気がつくと、僕は眠ろうとしていた。

 

まるで寄生虫が覚醒から睡眠に移行しようとするように、すでに廃絶された感覚を破壊するまでもなく、眠ろうとしていたのだ。眠りを求めようとすると、突然、最初の存在に代わって別の存在が現れたような感覚を覚えた。

 

僕は「イノセント」という言葉が、抑えきれない吐き気とともに心の中に降りてくるのを感じていた。その言葉は僕を汚していた。まるでもう一人の僕が自分を貪って、僕を穴に放り投げるようだった。そうされる度に僕は自分の存在の深部まで入り込むような気がしていた。知的には進歩しているのかもしれないが、存在が粉々になるような感覚だった。

 

「ねえ、そんなんじゃないってことは別の何かだってことでしょ」

 

女はいつでも勘がいい。男の弱みを嗅ぎ分ける本能を持っているものだ。本当のことを言うべきだろうか。言えばそれこそ狂人だと思われるだろう。

 

「いや別の何でもないってことさ」

 

彼女はすっかり困惑しきっていた。またしても、僕は心の底から長いため息を吐いた。そして、まだ夢から覚め切っていないような気がして、後ろを振り返った。

 

「こんなままで置き去りにできないわ。ホテルまでお送りします」

 

なにも答えなかった。ちょうどこのときなにもかもわからなくなり始めたのだ。もうすっかりうんざりだ。彼女はホテルまで送ってくれた。もはや一言も発しなかった。

 

ホテルの仕事場へ戻ると留守の間に室内のリメイクは終わっていた。ベッドもトイレも浴槽もきれいになっている。待つこと。期待を中性的に自己に巻き付いた行為、一番内側の円環と一番外側のそれとが一致するような密着した円環群となった行為たらしめるものに注意深くなること、放心して期待となり、寝返って待ち設けぬものになるまでに至る注意力。期待、象を待つということの拒否であることの期待、歩みによって繰り広げられる静かな広がり。

 

「よしこれでいい」

 

真っ新の状態で仕事に向かう気持ちになった。取材メモを漫然とめくり、ちょっと文字を打ち、すべて消し、またメモをめくるという一連の流れを十二回ほど繰り返したところで、僕は作業用の椅子から立ち上がった。肩を回して凝りをほぐし、ぼんやりと天井を見つめてみる。部屋の片隅に置いた紙袋にちらりと視線を投げる。安全な恐怖というものは、虚構世界にしか存在しない。

 

あれからどのくらいだったろうか。静けさ。デスクに向かうなり憑りつかれたようにワープロを叩き続けている。タイプライターではない。言葉は内部から奔流のようにとめどなく流れ放射しディスプレイに連射するように定着していく。原稿だ。原稿だ。今こそ原稿が、作品が出来上がっていくのだ。高揚しいつしか酔っていた。まだこれだけの精神と闘志が残っていることが嬉しかった。

 

著作権云々の問題は大丈夫なのかと言いかけて、僕は言葉を詰まらせた。いや、そういう問題ではない。「本物である」とは、いったいどういうことなんだ。まぁいいや。

 

時間を忘れ己を忘れた。忘れたままでいいのだろう。著作権のことも時間のことも。パソコンと一体化した。これぞ本当に作品。今こそ作品が生まれるのだ。人はかつてない感動を覚えるだろう。何を書こうとしていたかを知るだろう。何を書こうとしていたんだっけ?

 

僕の人生の物語など存在しない。中心がない。道も線もない。ただ広々とした空間がある。しかし、それは真実ではなく、誰もいなかった。まるで大人が子供に語りかけるように軽く、優しい感じで流れ出てくるのだが、それを聞いているうちに、今朝から経験したことのない新しい戦慄が、心の底から湧き上がってくるのを抑えきれなくなった。もう、抑えきれなかった。

 

先ほどから感じていた、「すべてが出鱈目なのではないか」という疑念が、何を書こうとしていたか分からなくなった自分に対して余計に向けられた。ここで倦怠に負けたくなかった。どうしてもダラけたくなかった。ここまで来てこんなところで象に邪魔されたくない。

 

コーヒーをカップに注ぎ、その中にまたインスタント・コーヒーを大量に入れた。誰も僕の名前を教えてはくれなかった。自分さえも忘れていた。長い間、自分自身さえ忘れていたのだ。自分の名前なんてものはそんなものだ。しかし語り継ぐべき言語があるはずだ。しかし、なぜか僕の心は寂しい。虚無感が僕の心を突き刺した。だから、この空っぽの大きな穴が、僕の胸にあるのだ。僕はこの世に存在しなかったかのように、生身の人間から忘れ去られた存在になってしまった。

 

凡庸な作家はいない方がいいし、おそらく彼自身も一流の作家にはなれないと思っていたのだろう。もしかしたら、つまらなかったから出さなかったのかもしれない。自分の為に書いて、出版したいと思う瞬間があって、でも自分のものが最高のものではないと思って諦めた。それだけのことかもしれない。しかしながら彼は何か良いものが書けるのではないか?と周囲に期待されていた。

 

衣類や食器といった必要最低限のものを詰めたダンボールが四箱だけ。「じいちゃんの葬式の仕出し弁当だってもっと多かった」と母に呆れられながら、車のトランクに押し込んだ。

 

まだぼんやりとした顔で部屋の隅々まで見渡す。本は数十項めくれていた。室内を包むしじまの中で悪寒は次第にそのリアリティを失っていく。誰かが腹が減ったと言った。左手が痺れて感覚がなくなっていることに気づいた。その上へうつ伏せで倦怠に包まれていたらしい。よくあることだ。

 

何かがまわりを動き回っている。象だ。全ての人間の声を借りて嘲笑っている。遠くないだけマシに思える。笑い声は続いている。その笑い声は頭の中へ直接ドリルでねじ込むかのように響いては食い込む。響いては響いては響いては食い込んでくる。何かが触れた。象は物理的に存在しているわけではないので象ではないのだろう。

 

床の上で目を覚ました。伸びを途端、身体中が不満そうな軋み音をたてた。ぼんやりと天井を見上げ、現実の虚構であることを確認する。このところ貧血気味のせいか立ち上がると眩暈がした。いつしか朝は終わりかけておりカーテンの隙間から射し込む光に温色が混じり始めている。

 

外の空気を入れようと窓を開ける。待てよ。窓はさっき開けたはずだ。カーテンを思い切り開けて窓を全開にして倦怠から覚めきらぬ街を見たはずだ。正体不明の非人称的存在感だけが胸の中で渦巻いている。せめてその正体でもわかっていれば対応のしようもあろうものだが、恐らく象か象に関係する何かであることには間違いないので、対応するなどということすら考えることが愚かしかった。

 

一文無しのくせしてペニスのはみでた坊さんを買うなんて俺よぉ、一体いつになったら大人になるんだい?

 

床には原稿が散らばっていた。引き裂かれ丸められ投げ捨てられ、それは夢ではなかった。はじめてのことではない。よくあることだ。書いている気がしない。書いているものに近づけない。現前と同時に消えてしまう。書いていることと書かれていたものが違う。何も驚くことはない。明るい光の満ちた部屋でいつものように立ちすくんでいた。