行方不明の象を探して。その155。

夜の街、人が無言で行き交うにも関わらず無数の喋り声が錯綜している。ビルとビルの間には無数の電線。1920年代までのニューヨークがまさにこうだった。地下埋没工事が行われるまでは。この中で漏れ聞こえる声。

 

「あのままテーブルの上に置いてゆくんですか?」

 

と彼は聞く。

 

「ここへは誰も来やしませんよ」

 

「彼女のために置いておくわけですか?」

 

「ああ、彼女のためかもしれない、そうだな」

 

と彼は言う。彼は彼女が座る場所、テーブルを示す。

 

「彼女は一週間前から同じ本を読んでいるんです。大きさも表紙も変わらない。読みだして読んだ内容を忘れ、また読み始める、堂々巡りですよ。そのことは気がついてましたか?」

 

「ええ」

 

「あの本はなんなんだろうな_」

 

「お望みなら僕が見てあげてもいいですよ。僕はあなたがやりかねるようなことだって、お構いなしにやれるんです。ご存じでしょうけど」

 

「あなたの言う通りです。お願いします」

 

彼は彼女のテーブルのほうへ行き本の見返しの部分を開けまた戻ってくる。

 

「くだらない本だ。電車の中で読むような小説ですよ。くだらない」

 

「思ってた通りだ」

 

まばゆい日差し。今朝雨が降った。限りなく空虚な空間だけが、その響きを持つ。この無言の主人を迎えに来なければ、この部屋はなかったことになっていただろう。

 

深夜で店は殆ど閉まっているものの人の通りは未だ多い。ふらふらとした足取りで少女が歩いている。雑居ビルの屋上。ラブホテルのネオンが眼下にひしめく様に光っている。ブラブラとカップルが歩いている。朝の早い時間。人の歩く姿も殆ど見られない。しかし喋り声の空虚な響きはここでも起こっている。路地と路地、屋根と屋根、電柱と電柱。空には常に鈍色に光るワイヤー。

 

「僕らは退屈していません」

 

それ自体、思考される限りにおいて、それ自身の存在から引き離され、壮大なシステムに依存することになる。このように考えると、そうである前に賢明である人は、狂っていることになる。文字になる前に。しかし、もう一つの狂気、それは、それを包む名前を持たない狂気である。それを包む名前を持たない狂気は、無限の多重関係である。

 

「何を探しているのかということ自体を知りたい」

 

「僕も知りたいと思うよ」

 

「この "知らない "というのは、かなり適当な話じゃない?」

 

「おこがましいかもしれないけど、我々は、知ることよりももっと親密な、もっと重要な関係によって、自分が求めているものを手に入れる運命にあると信じようとしているわけだよね。でも知識は知る者を消し去る。無関心な情熱だよ。これらはただ知るだけでは失われる危険性があるんだよ」

 

郊外へ下る電車。さして混んではいないが彼らは立ってドアにもたれている。密かに窓ガラスに映る彼らの姿。姿はない。小首をやや傾けてその奇異さを感じている彼ら。モゴモゴとしたトーンで会話の断片が聞こえてくる。

 

「絶望的に抽象的だね」

 

「なぜだろうね?僕にとっての重要な文学作品はすべてそういうものであるという必然性があるように思える。言語への転換が行われようとする瞬間に作品を奇妙な方向へと向かわせる。例えばこの作品では書くことがないことが中心になっている」

 

「狂気の別称である作為の不在」

 

「言説が停止する作為の不在は、言説の外、言語の外、書くという運動が、外からの引力のもとに来るようになる」

 

この意味において、それは匿名であり、限界においてのみ、それが生まれたであろう源泉を示す。いっぽうびしょ濡れの衣類とふたりの裸体と精液の匂いに海のかおりが混ざり合うのだった。夕闇が訪れてきたが我々は何の警戒心もなくこの異常な姿勢のまま身じろぎもせずにとどまっていた。するとそのとき草むらを踏みしだく足音が聞こえた。

 

「じっとしてるのよ……」

 

冴子が言いつけた。足音は立ち止まった、が近づいてくるのが何者かは見分けられなかった。俺は冴子に自分が金儲けをすることはできないことを信じてくれと頼んだ。そのために俺はすでにわずかばかりの遺産をなくしてしまったのではないか?自分が生まれながらの淫じゃであることを信じてくれと彼女に頼んだ。

 

そうして我々は息を殺していた。こんなふうに持ち上げられた冴子の尻は俺の目にまさしくこの飢えなく力強い訴えのように映るのだった。深々と抉られた、滑らかに引き締まった左右の尻たぶは一点非の打ちどころもなかった。来合わせた人間は男にしろ女にしろたちまち降伏して自分も全裸になってそれを見つめながらいつまでもオナニーを続けずにいられないことは確実だ。

 

俺の場合、冴子の尻よりブーツが好きだ。どれだけ俺の精液を塗りたくっても自分の欲望が消え去ることはない。制圧しきれない冴子の脚。客間の肘掛け椅子の上で座部に頭をささえ背中を背持たせにくっつけるような姿勢で逆立ちし、両足を折り曲げて俺の方へ突き出し、そして俺は俺で彼女の顔面にぶっかける目的で自慰行為を続けるのだった。冴子はゲラゲラ笑いながら梁の上で四つん這いになって俺の目の前で尻をむき出し、俺のほうはおまんこを押し広げそれを見つめながら自慰にふけるのだった。

 

「さあ、だれか賭ける人はいなくて?みんなの前であたし、このテーブル・クロスのなかにおしっこしてみせるわ」

 

無論、冴子は一瞬のためらいも見せずにクロスを水浸しにしてしまった。それにつられてその場の輩も欲情していた。冴子は輩達のズボンを脱がすと野獣のようなフェラを始めた。冴子は360度、そそり立ったペニスに囲まれて恍惚としながらこう言った。

 

「おしっこかけて……おまんこにひっかけて……」

 

彼女は壊れたテープレコーダーのようにそれを繰り返した。酔っぱらった輩達は冴子めがけて放尿をした。冴子の身体はびちゃびちゃになった。俺は遠くからそれを見ながらペニスをしごいていた。

 

「いいですか、奥さん、預言者というものは必ずペテン師です。預言者が比喩を用意ていうことを人々は願望本来の意味に解します。ですからペテン師が言うことを比喩的に信じなければペテン師は預言者になりますよ」

 

吊革に掴まる音、座ってスマホを見ている者、誰も口を開いていない。しかしモゴモゴとしたトーンの喋り声は周辺に聞こえ続けている。ゆるやかに動いて見える、隣の線路の銅電線。パンタグラフが送電線を擦りながら電車が高架上を走り抜けていく。送電線は無数の電線と繋がっている。

 

象は勝利や栄光がその反対語ではなく、また頂上ですでに衰退を予見しているのにも関わらず、決してその一部でもないようなもので、それは反対語を持たず、単純でもない。象は我々に質問する。我々は何をしているのか、どのように生きているのか、象は慎重でまるで質問が質問でないかのようにふるまう。そして我々の番が来て象が何をしているのかと尋ねると象は微笑み立ち上がりまるで象が存在しなかったようになる。

 

物事は成り行きに任せる。象は我々を煩わせることはない。死ぬことの未熟さ。これは死の際のぎこちなさ、死に方を学んでいない人のことである。歴史にない出来事に対して、まるでそれが不可能なもの、目に見えないもの、つまりずっと以前に廃墟の下に消えてしまったものであるかのように、我々は答えを求められている。

 

もう崩壊しそうになっていて崩壊が進んでいる。体が叫んでいる。体は一人で勝手に叫んでいて、こちらを向いても知らん顔をした。崩壊は至るところで進んでいて、我々は一人で気づいてどうにか崩壊する者に布なんかをかけようと探してみたがなにもない。隣にいる者に声をかけてみたが男は一切喋らず、それ以外にもまだたくさんの人間たちがいた。

 

もし引用がその断片化する力によって、引用されたテキストを事前に破壊し、そのテキストが切断されるだけでなく、そのテキストが引用されるだけの存在になるまで高められるとしたら、テキストも文脈もない断片は、根本的に引用不可能になる。それでいてなぜ彼は書くのだろうか。