行方不明の象を探して。その157。

夜の街、人が無言で行き交うにも関わらず無数の喋り声が交錯している。ビルとビルの間には無数の電線。その中から漏れ聞こえる声。グライムが無機質な低周波で暗い穴蔵の中を揺さぶる。ひしめく人の顔すらも判然としないほど暗い。夜行性の生き物たち。着飾るもの、そうでないもの。

 

催眠状態へと誘うような明滅するライティング。ガスマスクをかぶりPVCヴィニルのメイド衣装を着たハウス・ミストレスがドリンク・ボトルをトレイに載せて、踊るでもなく立って話している客の間を巧みにすり抜けて歩く。隣のテーブルに座っていた中学生ぐらいの少年の前にドリンク瓶を置くハウス・ミストレス。少年、防毒ガスの顔を見上げる。と、女、ボトル底に小さく畳んだ紙片をそっと差し入れる。少年はポケットからくしゃくしゃになった一万円札をその脇に放る。ハウス・ミストレス、それを胸元に仕舞い、再び雑踏の中へ消えていく。

 

少年、紙片を広げる。その中には一錠のカプセル。少年、脇に置いていたショルダーバッグからルーペを取り出し、ライトを点灯して錠剤に見入る。そっと二つに割る少年。カプセルの中身は極めて精密なサーキット、極小LEDがチカチカと青い光を明滅させていた。初めて微笑む少年。それを嚥下しボトルの液体を飲み干す。少年の瞳孔が開く。

 

「僕は加速したのを感じた」

 

ふっと音がかき消え少年は自分が加速を始めたことを知る。人々の動きが緩慢に見える。その人々の中に談笑している女の子のグループが見えた。空間は逃れゆき狡猾で恐れおののいていた。多分それには中心がなく、だからこそそれは逃れゆき、狡猾さと誘惑とによって少年を彼方に迷わせていたのだ。それは姿をくらませていた、絶えることなく姿をくらませていたが、とはいえいつもいつもというわけではなかった。

 

だしぬけに彼の前には飢えた象が、ぎりぎり最後の貪欲さがあり、それは彼としては免れねばならぬものだった、あたかもその空間が彼のなかにおいてそれの持っていないあの中心、あるいは彼を持っているあの静寂によって惹きつけられたかのように。恐るべき印象であってそこは彼をただちに尻込みさせた。ただ少年のほうも狡猾になっていてそれに満足しないこと、彼に回帰しないことを学び取っていた。

 

彼は決して絶望せず、飽くことなく徘徊していた。彼はあらゆる習慣を、あらゆる道をなくしてしまっていた。彼が持っている堅固なものとてはただ、我々を包み込み、多分、我々を保護している動かない思考だけだった。だがそれでいて少年はもろもろの可能性を垣間見ていたし、すべてがそこではより濃密、より現実的になる諸地点を認めていた。断片的とは、全体の一部である断片でもなく、それ自体でもないことを意味する。ことわざ、格言、引用、思考。

 

「攻撃し続けろ」

 

「我々を挫けさせよ」

 

彼はそれらを不用意な言葉に例える。

 

「そんな言葉を使ったことはない」

 

「だが、この言葉は何だろう?」

 

「知ってるくせに」

 

「それなら今回は使わない」

 

「象から来たんだ」

 

「あるいは 象が それを使ってくる」

 

「どこから来るんだ?」

 

「我々は存在しないのです」

 

「しかし、この形を与えるのは会話だ」

 

「象は現在がないことへの執着を表している。その再出現は我々自身のものである」

 

「象は我々の言葉を重視するだろうか?」

 

「答えは我々の力の及ばないところだ」

 

「だが何の答えになる?

 

「我々の力を超えたものでなくて 何に対する答えなのか」

 

「暴力は言葉の中に、そしてよりはっきりと、書くという言葉の中に働いている」

 

「書くという行為には、言語が自らを隠蔽するのと同じように、暴力が働いている」

 

この自らを隠すという行為もまた暴力に属する。書く者には、たとえ乞食の杖に姿を変えても、笏はない。托鉢の棒に見せかけても、笏はない。書くという行為に込められた分離。それを尊重するために、どれだけの受動性、無作業が必要なのか。

 

人たちの雑踏。楽しそうに砂遊びをするスズメの群れのよう。わが家にいるのを感じて恐れもなく人を見る好奇のまなざし。用心深くこの人の群れの中を滑るように進んでいく彼の背後にはまだあの部屋があった。眠りの上をさざ波のようにさらさらと渡ってゆく深い目覚めがまだ尾を引いていた。

 

何事に対しても無防備な倦怠の状態。だが果てしなく屈折させる耳の通路を通して弱まった喧騒で聞くかのようにして、四のことを遥か彼方に聞く聖らかな倦怠の状態がなお続いていた。彼は神のたくらみのどこに位置しているのか?神の不在、それもまたひとつの神である。

 

実を言うと俺たちはみんなすっかり酔っぱらい自分たちのしでかした行為に興奮しきっていた。件の裸の少年は一人の女の子に吸われ続けていた。その少年がイキそうになったら俺が口で受け止めようと思った。少年の精液ほど美味しいものはないのだから。

 

彼は超常現象研究のためにイギリスに行くと言っていた。一年の予定でロンドンの下宿したのだが、彼はほとんどの時間を無駄な考え事に費やし、超常現象研究も全く進むことなく彼の留学擬きは終わったのだった。彼は超常現象研究をしようと物事を進めようとすると強烈な倦怠感に包まれるのだった。勉強に集中できない。超常現象を科学的に検証するのか、オカルト的に研究するのか、そのあたりの方針もグダグダで何も決まってはいなかった。

 

彼は何かやった気になってすぐ酒を飲むのだった。彼は一度だけ留学中に超常現象らしきものに遭遇したらしいのだが、泥酔していたようで記憶が定かではなく、もしかしたら夢の可能性もあったみたいで、超常現象に出くわすなんていう滅多にないことを、それを研究する当事者が泥酔していて記憶が定かではないというのはどういうことなのか。

 

彼は道楽で留学したわけではなかった。学資ローンらしき借金をしてまでロンドンに来たのだ。なのに何で毎日泥酔するまで酒を飲むのか。イギリスは飯がまずいとよく聞くが実際に常軌を逸した不味さだったので日本食が恋しくなっていた。彼が感知していないところでのストレスが大きかったのだろうか。そうだとしても留学の目的を果たさずに酒を飲んでばかりでいいということにはならない。

 

彼は投げ売りされているDVDを酒を飲みながら下宿で見ることを楽しみにしていた。というより全く主体性のない映画の鑑賞で、見ても見なくてもどの道、どうにもならなそうな映画ばかり見ていた。英語が堪能なわけではなかったので字幕なしで見るのは大変だったらしく、映画の雰囲気だけを掴んでいる気になっているだけだった。

 

留学擬きをする人間がやりがちな行先の名所を撮影してSNSにアップロードするというようなことも一切やっていなかった。何のためにロンドンに行ったのかが誰にも理解できなかった。結果的に彼は借金だけを背負うことになった。帰ったら就職すると言っていたようだが、彼の年齢や長い空白の期間を考えても就職先が無いことは決まり切っているのに彼は就職する気でいた。就職して働いて金を返せばいいという動機だった。

 

しかし彼を擁護するなら、口だけのワナビーよりかはよっぽどマシだと思った。何かをやるといってやるつもりでいて何もやらないかやる寸前までの準備をして何もやらない人間。そういうのに比べたら彼のやらなさは徹底していた。だから彼のことを嫌いにはなれなかった。似非留学中に買ったDVDは帰国時に全部処分したらしい。