行方不明の象を探して。その156。

「したいことをすればいいのだ」

 

彼は肩をすくめながら独り言を言った。

 

「こんなに色々な力がもつれていては人のすることなんてまるで問題にならないからな」

 

彼はまるであきらめを知った人間のように、いやほとんど強い刺激を常に避けようとしている病人でもあるかのように顔をそむけた。

 

言語への信頼は言語への不信であり、それは言語の中に位置づけられる。言語を否定し自らの空間に批評のゆるぎない原理を見出すことができる。言語の未知は未知のままであり、言語への信頼、不信はフェティシズムであり、所詮は特定の言葉を恣意的に選ぶ言葉のゲームでしかない。しかし書くことはあらゆる言語に対する権利を剥奪する回り道であり定義の回り道である。書くこと、それは明らかにすることができず、あらゆる可能な発言から逃れられる現実のための、同じく虚構のための未知のものへの親和性である。

 

彼が食事をしている。誰も見ていないテレビが無意味な情報を垂れ流し続けている。音は消されており食器の触れる音、食物を飲み込む音ばかりが肥大して聞こえる。彼は自分の前の皿に盛ったものがとても食べ物に見えず困っている。

 

開いたドアをうまく通り抜けようと思うのならドアには堅い枠があるという事実に注意を払わなければいけない。老教授が常に信奉しているこの生活信条はまさしく現実感覚の要求である。しかし現実感覚というものがあるのなら、可能感覚と名付けて然るべき別の何かがあってもよいはずだ。

 

可能感覚の所有者は例えばここでしかじかのことが起こった、将来起こる、起こるに違いないなどとは言わずに接続法第二式を用いてここではあるいはしかじかのことが起こり得るかもしれないなどという言い方をする。そして誰かが彼に向かってある事柄をこれこれしかじかであると説明すると、いや待て、別の場合もあるのではなかろうか、と考えるのである。だから可能感覚とはあり得るべき一切のことを考える能力、あるいはあるものを無いものよりも重大視せぬ能力と規定しても良いだろう。

 

彼は本をめくっては古ぼけたイメージを眺めて喜びに耽っていた。奇妙な男、愛着の理由は説明できない。消え入りそうなささやき声が陽気な華やかさの無い日々の記憶を何度も繰り返していた、例えば医者との会話、食料品を買いに行くこと、孤独。彼は想像するしかなかった。しかし昨日も寝ていない。もう数日寝ていない。正確に言うと寝ていないことはなかった。

 

ところが寝ていても夢の中では全く同じ場所が現れ、そこで彼は小さい灰色の亡霊たちの振る舞いを傍観者として見ているだけだった。崩壊はまだ続いていた。建てても建てても定期的に揺れ崩れ落ちていく。彼はベッドに寄りかかり一人ぼーっとしている。と、外で車が止まる音。彼は窓に近づく。タクシーから男が降りるとことが見える。

 

「書くことは幸運を求めることだ」と書くとき、人はまずこれを書き、書くと言う固定によって開かれた命題を確立しなければならない。書くと言う肯定によって開かれた命題によってすでに隠されていた運命との関係を確立しなければならないのである。過去は書かれ、未来は読まれる。過去に書かれたものは未来に読まれる。こうして書くことと読むことの間に存在することができるのである。

 

また同じようにドアにもたれぼんやりと外を流れる景色を見つめている。キキキキキキ。急ブレーキ。どよめく車内。彼は手すりに掴まろうとして届かず床に転げる。空虚な会話の交錯が高まる。膝の痛みを堪えながら彼は立ち上がった。と、車内アナウンスの声。

 

「皆様お急ぎのところ申し訳ございません。只今この車両は事故のため停車中です」

 

スマホを手にしていた男。

 

「人刎ねたんじゃないのか?」

 

ざわめく室内。彼は窓の外を見る。街の中にいる彼。それは建物の中かもしれない。あるいは家の中。どこにいても彼は一人。その周辺にいる者は全てただの他者でしかない。人間ですらないかのような感触。ずっと彼はそれで構わないと思っていた。白く霧がかかったような世界。彼はぽつりと何も持たずに線路の上に立っている。なぜ自分がここにいるのか分からない。ふと見ると前方に人がいる。遥か彼方からライトを点灯させて電車が走ってくるのが見える。

 

彼は長期間外部との接触を絶たないとものが書けない。散歩したり人を訪ねたりすると数日は心が落ち着かず文章は矛盾し無駄が多く酷く変わってしまい先に進まない。ものを書くと言うことは非常に不健康だ。必要な言葉を探したり抑制したりするのは多少生活を享受したいと思う者には地獄だ。

 

芸術がそれに従事するものを苦しめ、孤独に陥らせることになるとすれば、それはその芸術があまりにも古すぎ、要求の詰まり過ぎた網にどうしようもないほど支配されすぎているからだとは彼は考えたくないし、今日ささやかな成功を得るには昨日の傑作以上に多くの犠牲と苦悶が必要だと思いたくない。

 

が、作品は結果的には常に非常に不完全で欠点だらけで、しばしば人に知られることなく、あるいは嫌悪されるようなどんな芸術も真剣に創作することが是非必要だと思う。それは価値のないぼろきれを染めるために自分の血を流すようなものなのだ。もしもネットでもするように書かれた平凡なパロディか作者を半ば破滅させるような何冊かの本しか残らないとしたら、文学はきっとひどく病んでいるのだ。なにはともあれ彼はこの古典的な職業に従事しこの職業が気に入っておりほかの職業に就く気はないようだ。

 

彼は言葉の達人だ。その中に自分を置き去りにして、この静かな限界に向かって 話す前に人が導いてくれるのを待つ。そこでプレゼンスは失われ、欲望がそれを運ぶ。外見上、書くことは保存するためにのみ存在する。書くこと は印をつけ、印を残す。そこに託されたものは残る。しかし、存在そのものを保持しなければならないとき、存在に何が残るのか。その言語によって自らを消し去り、固定化するのであれば、存在には何が残るのだろうか。

 

書くことがプレゼンスと維持する唯一の関係は、意味、光の関係、つまり、書くことを要求することがまさにその関係を維持することであろう。書くという要求は、記号にもはや身を委ねないことで、まさにそれを断ち切る力がある。開かれた作品は、それを通過する書くという行為を、常に通過させている。

 

「彼らの声が聞こえましたか」

 

「自分の声も聞こえないほどです」

 

「自分の声さえ聞こえないのに」

 

「ああ、彼らはいつも我々を驚かせてくれる」

 

無数の針金が空を覆ういつもの街の風景。坂を上っていく彼。誰も他に人はいない。はずだが誰かとすれ違った気がしてふと振り向く彼。とはいえ話の真実は語られた挿話の正確さに由来するものではなく、言葉の活気、創意、おもしろさのなかにあり、その言葉が多くの事柄を現わしてくれるのである。

 

彼女の声は陰険で低かった。いつも穏やかで落ち着きのあるはっきりとした蠱惑的なところのない、口跡が良くて抑揚のあまりない声、常に断固とした調子で分別のある説明的なその声は、ただみずからの心を開いていたにすぎなかった。そして論理だてるというよりはむしろ彼女自身の理屈を持ち込んでみずからの指示に従わせようとしたので、彼女に反論するのは無理だと言う事実が彼の中に植え付けられてしまっていた。

 

彼女の声に彼は服従していた。彼女の声が聞こえた瞬間、少なくとも彼はそれに従った。彼女の声はなんの加減もなく一切の修辞を排することで人をとらえた。あの声は相手に選択肢を与えることなく命じていた。終始同じ個所、同じ誤りというよりむしろおなじ失念に戻りつつ、そうやっていつも相手を待たせながら、同じことを繰り返していることを相手に認識させるように記憶を刺激しながらも、低く穏やかで無関心、そして絶対的なその声そのものは、いつの間にかみずからの魂の中に立ち戻っているのだった。