行方不明の象を探して。その158。

神が欲し、人が夢見、作品が生まれる。語から切り離されたものがそこで自らを聖別する。解明されない光、光の破裂、聞き取ることのできない言語の砕け散る音の残響。この果てしなさを受け取ることは責任を受け取ることを意味する。意味の不在において謎を形成し、実質的に埋められない空間を作るような仕方で考えることしかできないし、書くこともできないのである。

 

それゆえ文章についての解説は困難である。解説は別な意味を生み出すが、それで何かを語ったと思わないようにしよう。知識を利用し組織化する理論はいらないのである。語ることができるという妄想から解放されたときに暗黙の強度が生まれる。何にも支配されないまま自らを記することを求め続け、知識がもはや真理の知識でなくなったとき、そのときこそ知識が始まる。

 

カフカは自分が書くのはそうしないと気が狂ってしまうのだと言うとき、書くことはすでに狂気であり、彼の狂気はつまり不眠症を意味している。狂気に対する狂気、しかし彼は狂気に身を任せることで書くことをマスターできると信じている。それはあたかも中断されることのない連続性の全ての力を受けなければならないかのようであり、耐えがたいものの端にある緊張を、彼は恐怖とともに、そして栄光の感情なしに語ることはない。栄光とは象のことだからだ。

 

その間、象の中心で来ないものとしてそれを求め続け、それを待ち望むことが待つことの忍耐を意味するとき、誰もがプライベートな狂気を持っていると仮定できる。真理のない知識はこの詩的な狂気を類似した強烈な特異点の力となるだろう。狂うか死ぬかというジレンマがあるならば、その答えは欠けることはなく、狂気はしすべきものであろう。彼の夢の中では何も夢を見たいと言う徳望以外にはない。

 

彼が読むことができるのは本、文章、テキスト全般とは限らないし、それらを失ってでも、書くことと関係ある関係を保つことができるのである。これは書きたいと思わせるものをより喜んで読むという意味ではない。欲望なしに書くことは忍耐、書くことの受動性に属するが、むしろ書くことを煽り、破壊することによってその暴力を燃え上がらせるものをより好んで読む、あるいはもっと簡単に神秘的に人間の弱さと不滅の受動性と関係あるものを読むということである。興味深く読めるものとはこういったものを指すのである。

 

それ以外のものを読むということは既存の陳腐なシステムを持ったありふれた作家を読んでいるということに過ぎない。それは数時間の快楽をもたらすものであったとしても、暴力を燃え上がらせる原動力になることはない。書くと言うことは即、革命を意味する。それは満ちることなく空虚でもない。

 

書くことはそれ自体すでに暴力である。それぞれの断片にある破裂、破れ、断絶、細切れの特異点、鋼鉄のような点の引き裂きがある。断片はより断片化し失われた杭となる。全てを書くことの暴力で転覆すること。転覆の欲望、転覆の押しと引きである欲望、そして落ちるものは一人でなく複数である。

 

河は善くも悪くも流れている。河のオリジナルは存在しない。家を出てしばらく経っていた。そう振り返ろうとするとまた嘘の思い出が登場する。夕食を食べたり風呂に入ったりしていたはずだ。一体、ここはどこなのだろうかと思う自分までいた。どこかなどと考えてどうするのだろうか。ここがどこだろうが関係なかった。

 

寝床の中で寝れないまま彼はカーテンの隙間から漏れてくる街灯のかすかな光を浴び、やらなければならないさまざまなことについて考え、色々なことを思い出し、あるいはただ耳を澄まして音を聴き、光と闇を見つめていた。

 

彼は注意深くまわりを見回した。これは苦痛ともいえる状態だった。まったくはぐれてしまい、自分から離れて遥か彼方に置かれ、彼は自失の状態にいた。彼は光失くして見、音失くして聞いた。彼の魂は力をすべてなくした手のように際限もなく拡げられていた。彼の下は切り取られてしまったようであった。だがこの苦痛は甘美であると同時に生気に満ち溢れた不思議な透明な状態であった。

 

不眠のメカニズム。例えば考えが途中で詰めに変わることがある。すると意識が言う、いや待て、これは現実じゃない、夢に入りかけているんだ。それで目が覚めてしまい、考えることと夢を見ることについて考え始める。あるいは寝床の中で眠れない時間が長く続いた後でやっと睡魔が到来し、全身の力がすっと抜けるのがわかる。すると急に訪れた眠りに意識が興味をかけたてられ、それで目が覚めてしまう。

 

そしてさらに彼は彼の中にあるものを限界づける力はなくなったわけではなく、実は裏返しにされたのだということに気づいた。そしてそれと同時に、あらゆる限界が裏返しにされたのである。彼は自分たちが失語したわけではなく、自分が話していることに気がついた。ただ言葉を選ばずに言葉が彼を選んでいたのだ。

 

なんの思考も起こらなかったが、全世界が不思議な思考で満ち溢れていた。彼は自分と外界の物たちとはもはやお互いに防ぎ合ったり押しのけ合ったりする閉ざされた身体でも物体でもなく、今は開かれて結びあわされている形体であると認識することができた。

 

象は目覚めを見守ってくれる。眠っている意識が無意識に開かれ夢の光を再生させる時、不眠の無限の延長、目覚めない目覚め、夜間の強度に身を委ねることを教えてくれるのである。それは無力な無限の感触であり夜の暴露である。それは世俗的な明晰さ、つまりは分かりやすさを全面的に放棄することを意味する。

 

もし象が常時トランス状態であるという特徴が無ければ象の中に欠落は生じると言えるかもしれない。つまり外側の動かない落下と飛行である。象はバルーンとして飛行したことがある。到達可能なもの、可能なものの外側に絶え間ない落下を引き起こすのである。

 

システムを越えうるものは、最終的には何も言うことができず、書くことの饒舌な沈黙でシステム自体を停止させ、無為のままの皮肉の奈落に落ち込むのである。言語がその否定の力と肯定の力を使い果たした時、我々は断片的な文章を書くことができるだけである。作者の目的はこれである。それは言語の外にある文章である。それは知識の終わり、神話の終わり、ユートピアの浸食、張り詰めた忍耐の厳しさ以外の何物でもないだろう。

 

象の贈り物。求めることも与えられもしないものの贈り物がある。贈り主も受けてもない贈り物は贈り物を無効にしないが、この存在する世界と物事が起こったり起こらなかったりする虚構の空の下で何も起こらないように働きかけるものである。だからこそ喪失について、象の喪失の中で語ることは、たとえ言葉が決して安全で確実ではないとしても、あまりにも安易と思えるのである。

 

象の欲望はありえないのだ。夢から目覚めること、見ることはそうすることを望むことでなく、そのような望みなく、望ましくない夜間の強度の放棄の道を作るときでさえ、安全な領域内に留まる。

 

象は近似性のないその接近の兆候として存在する。決して目覚めることができないものが見張り続ける夜。この夜は昼と関わらない夜であり、たとえ眠りにさらされ、眠らないととしても、人はこの世に存在する関係であり続け、見つからなかった安息の位置に留まる。放棄への道を作るときであさえ安全な領域内に留まることを許される。この過剰の中に経験は生じないであろう。プレゼンスという現在に関与しない経験はすでに非経験であるのだから。

 

象を究極の体験と理解したとしても、象の体験はありえないと感じるであろう。それは象の特徴の一つである。象はあらゆる経験を貧しくし、あらゆる真正性を経験から引き離す。何も見守ることなく、夜が訪れる時だけ警戒を続ける。

 

それは生きて存在することに満足するとこなく存在することがまさに現在から免除されるものになるまで、存在するもの全てを消費してしまう。生命の迅速さはいかなる例もない中で非存在、非生命の例証であり、その活力における不在は決して訪れることなく常に戻ってくる。

 

暗闇のなか彼は横たわり込み入った角をいくつも曲がって、眠れる場所に行こうとしている。眠るのはいつも難しい。あとから考えればそれほど難しくなかった夜でもきっと難しいだろうと前もって身構えるので、結局難しい夜と変わらなくなる。

 

遠い昔のあの夜はなすすべもなかった。彼は部屋のベッドで泣いていた。体の左側を下にして目は暗い窓の方を向いていた。八歳か九歳、それくらいのころだ。左の頬に当たる小さな枕は古びた柔らかい枕カバーごしに老人の匂いがした。彼のそば、たぶん右腕の下に抱きかかえるようにして布地が擦り切れ、鼻があっちこっち折れ曲がった象のぬいぐるみがあった。

 

その時、彼の自我は己が再び狂気に捕えられるということを通して現れる。行為を認め、しかも自ら進んで再びイデーとしてのイデーのとりこになる。行為は偶然を否定してそれによってイデーが必然だったと彼は結論する。そこで彼は絶対に彼を入れることを許す狂気があるという考えを抱く。が同時にこうした狂気の事実によって偶然は否定され狂気が必然だったと彼は言うことができる。

 

語られたのはみずから微細に想像してきた自分自身の物語で、その物語は歳月と共に膨らんでいき夜の成り行きによって悲劇的なものとなったり無感動なものとなったりした、暖炉の前に置かれた安物のブランデーの瓶のせいで、医者は霊柩車に揺られながら眠ることになり、相方の方は自分の記憶に新たな挿話を混ぜ合わせていて、それが次回の執筆の題材となったり、あるいは眠る直前にその操作を決定版から削除したりしていた、それなのに夢が全てを溶かし込み、順序をめちゃくちゃにしてしまったうえに、語り手自身には物語をもっともらしく仕上げる時間も残されていなかった。