行方不明の象を探して。その159。

広大な畳の部屋。そこに和服の人が座っている。しかし彼らの顔には口があるだけ。それぞれが読経のように勝手な言葉を呟いている。無表情に彼らに向かい合って立つ彼。それらはSNS、ネットといったものの象徴。口だけの人の間を歩く彼。すれ違いざまに聞こえてくる会話の断片。

 

期待、一つの顔への期待。奇怪なことだ、空間がいまだにこの期待を宿すことができるとは。およそもっとも暗鬱なものが一つの顔を見つめると言うこの大いなる要望を持っているとは。ここには口だけの顔がたくさんある。それは確かだ。ある種の顔はとても美しいし、どれもがある市の美しさをそなえてさえおり、そしていくつかなどは、彼が廊下で理解しえた限りにおいて、素晴らしい魅力を持っている。

 

多分それら自身が静寂と沈黙の中で本質的な魅力をこうむっているのに応じて、だが彼が欲しいのはまさにそれというわけではない。多分たくさんの姿があるだろう。だがたった一つの顔、美しくもなく友好的でもなく敵対的でもなくただ単に見える口だけの顔があるのだ。

 

零は「小説を書いている」と言った。彼はなんでそんなことを今、言ったのかよくわからず、もう一度聞き直した。零はまた「小説を書いている」と言った。唐突だったが彼は「小説を書いたことがない」とだけ返事をした。彼は「小説ではないが、なにかよくわからない、なにかわからないけど自分の中になにかある」という曖昧過ぎてよくわからないことを言った。

 

伝記が書かれたり自伝を書いたりする人々が羨ましい。いや、本当に羨ましく思っているのかどうかは確かではない。脈略の無い印象や相互に関係もなく、関係をつけようともしない印象を書き連ねながら、彼は無関心に、事実の無い彼の自伝を、生のない彼の物語を書こうと思っていた。これは実は告白なのだが、そこで何も明らかになることがないのだとすれば、それは彼にいうことなどないからに他ならない。

 

目を覚まして隣に彼女の体があるのを感じた瞬間から君は何一つ逃さない、隣にある何もかもを、彼女の腕、彼女の脚、彼女の顔、あのなめらかな肌、彼は地の肌にも触れたことはあるけれどもこの肌はもっと別に物の先触れで、だから一からまた始まる、どれほどお互いをまさぐり合っても満ち足りることはない。こうして毎日過ぎていくが、全く記憶することができていない。経験したことが体に染み込んでいかない。しかし書くことはできているのだから全く記憶喪失になっているというわけでもないのだろう。

 

机に向かって情熱もないのに見直さなければならない幸福をめぐる空虚な言葉の余白に書き込んでいると、何を待っているのか分からないまま何年も待ち続けていることに気づき、そのうちもう待つのをやめ、ついには後ろ指をさされるようになり、酒を飲んでは泥酔する合間に回想録を執筆していた、あてにならない情報源、都会で過ごした時期、それに並木道での幾度もの逢引、どの春もなんと短いことか、なにを探し求めているのか分からないまま際限なく引っ越しを繰り返して、今や襲われるのは夜の恐怖だった、囁かれる呼び声、ランプの光なんておかまいなしにあらわれる幻影、底なしの苦悶。

 

暗い室内のそこここにLEDの明滅。蒸気。ハムノイズ、コンプレッサーの音、ファン音が低く垂れこめる。虚ろな目で仮想ウィンドウを見つめる彼。抽象的な形状のウィンドウが高速に開いては閉じ、文字化けしたスクロール、絶えず変容し続けるグラフィックを描き出している。パルスがメイズを駆け抜ける。底なしの情報の蓄積から凄まじい勢いで抽出されていくデータ。

 

テレビ再撮のような荒れた画面の中に映像、音声の断片が浮かんでは消えていく。影は未来の闇の中に消え、彼が自分の感覚を持ち始めると息も絶え絶えな彼の知覚と共にそこに棲みついた。が影は彼が影の中に沈み込むや影が己にそこからたった一度で今また過去の自分自身に無駄に落ちているこの音のイデーがそこから来ていた己に帰るや、窒息して息も絶え絶えに依然として輝いているものに気がついた。

 

僕はこれから本当に消えてしまうのです。まず、僕は人間であることをやめます。僕はまた小さく、冷たく、住処のない猫になって、地面に横たわっている。僕はもう一度唸る。この閉塞感を最後に一瞥する。最後にもう一度、この閉塞感を覗き込むと、そこには男の人がいて、つまりは彼は先輩猫でもある。彼が地面を掻く音がする。

 

僕は彼が地面を引っ掻くのを聞く。おそらく爪で。もう言い訳は終わりだ。膝をつき、体を曲げ、それぞれの指には爪の代わりに小さな鋤があった。僕は地面を掘ろうとしていた。

 

先輩猫の周りには、浅い穴がいくつも開いていて、その端に陽の光が漏れている。景色はというと.いくつかのブナの木が混在しており、その景色は、いくつかの混じったブナの木と茂みが地平線を隔て、まるで一本のニレの木に取り残されたような状態であった。

 

木々は、何層にも重なった土でまとめられ、その土が木々に栄養を与えていた。時にそれらは樹木の姿をとどめず、巨大化し、見分けがつかなくなる。もはや、木としてではなく、オブジェとして植えられているのだ。それは結晶の形をしたまま世界の外に咲いていた。それは、この植物の足元にあった。僕が立っていたのは、この植物の足元だった。僕はゆっくりとそっと地面に手の跡を残しながら、何かの穴に足を踏み入れた。

 

手から腕へ、そして最後に部屋の中で動いている体全体が、僕の体で埋め尽くされたようだった。僕は自分自身の存在の完全な形を見つけたのである。死なずに死ぬそのニヒリズムの中に、もう一人の死者がいて、その死者のための墓である。

                                              

僕の生と死の曖昧さを極限まで突き詰めた作品。猫たちと、猫たちが見るさまざまな夢とともに、僕が降り立ったこの地底の夜には、包帯に包まれた僕の片割れが、七つの封印によって感覚を閉じられ、不在としてその肉体がこの場所を占め、この僕の断片が存在としての唯一の折り合いをつけることができる。

 

しかし……最も恐ろしく、最も強烈な不在感に関しては手の付けようがない。頭が回らない。結局、絶対的な虚無の中で実現したことはなんだったのか。

 

低く垂れこめた雲。鈍色の高圧電線が覆う坂の上。千切れた電線は未だアスファルトの上に朽ちた蛇の死骸のように這っている。周囲の建物には元々人など住んでいなかったのだろうか。人が生活している気配が消えている。そういなくなること、なにかが壊れている、まるで彼の語ったばかりのことが別の時に起こっていたか、あるいは語っているそのとき彼が彼でなかったかのようで、おお神よ!なんとややこしい、あるいは長い道のりのせいかもしれなくて、その際に必要な注意を払わない。