行方不明の象を探して。その165。

彼は顔をあげてみたが何も見えなかった。しかし暗闇を見透かすことはできなかったが、その場でこの静かで規則正しい生活の反響に耳を傾けながら、この静寂に満ちた生き方の中には希望がある、彼が全てを放擲して求めた希望、彼の危険を正当化してくれる希望があると感じていた。

 

1時間に500ページ読めるという作家のケツ。言葉を覚えたのでどんどん話し合えるはずなのに我々はそれぞれの方法で屋根裏に籠った。人間はなぜか一人一人の感情にこだわっているように見えた。高岡教授が1961年に出版された ランダムハウス版『ユリシーズ』をジョイスのユリシーズを 1時間33分で読み上げました。

 

1ページたりとも手を抜くことなく。アンビリーバブル!ちなみに筆者は、記憶の許す限り、ここで最善を尽くしている。というのも、作家は記憶力の許す限り、以前の作品に登場した事柄を繰り返さないようにしているからだ。悪い気はしない。自分たちでないものになっている間、少しだけ我々は人間になった気がしたからだ。あなたの最後の小説は大失敗でした。

 

だからね、全部自分で考えるんだ。自分の頭を使うしかここでは生きる道はない。命令なんてものもないかわりに誰か仲間がいるわけでもない。勘違いするなよ。俺は今からお前に話をするが、別にそれは仲間として助けてるわけじゃないからな。どうせ俺の言ったことだってお前のためには何一つ役には立たん。お前は今、正常だと思っているかもしれないが、それはまったくの間違いだ。お前は今、いかれちまっている。そのことに気漬け。そう言ったってお前の視点だからな。

 

つまり人間が行っていることは何も人間だけが考えているわけではないのだ。この先入観が意味するのは、おそらく作家が年をとったということ以外にない。我々と人間の関係性を具体的に知るためには人間を探す必要がある、と誰かが独り言を言った。それに対して絵も会話もない本に何の意味があるのだろう、とアリスは言った。会話もないのに?おしゃべり、外向的、好奇心旺盛、恐ろしく博学、そして鋭い。

 

同じものを見て同じことを考えるというのは自然な行為なのかもしれませんね。情報は一緒ですから、考えることと感じることが同じなら結果も同じことなのかもしれません。結局、同じ人間なんだから。どうして人は調べもしないで噂を流すのでしょうか?噂で傷つく人は、心配する価値もないとか、そういうことですか?あの時、彼女に電話をしていたら、状況は変わっていたのだろうか。Imagoがちゃんと支えてあげるよって言ってたら。Imagoが彼女のことだけを考えてくれていたら。

 

Imagoに献身的に仕えるためにも彼はロマン派的な語彙から人生の倦怠を表す色彩豊かな言葉の全てを削り、古典主義的な語彙から生きる情熱を意味する抽象的な言葉の全てを抹殺した。結果、言葉に酔っているだけの文学は彼の前から消えた。絶望を詩的に語る偽善に彼はうんざりしていたし、倦怠を表すだけに終始している言葉遊びにもうんざりしていたので、言葉の抹殺は彼の心をより殺伐とさせることにはなったが、よりリアルに虚構を生きる知恵を得ることができた。

 

彼はこの知恵をこの瞬間に自分が創造したかのように考えた。止まっている孤独の中で、孤独であるという意識もなく、彼には自分の後をついてくる夜の闇を通して、様々な形、様々な景色が見えた。それらは自分自身だった。自分の家の中にいるのは自分自身の中へ降りていくようなものだった。今や自分の周りに漂う風景の中に身を置いていると彼が眺めているのは一種のイメージであり、それは彼が自分の精神から投げ捨ててしまった全ての形態によって構成される彼自身の外見だった。

 

宇宙の中で体が分解していくイメージと共に虚体に近づいているという実感と、虚構の中で前に進むことができているという存在すること自体への勇気を彼は認識することができた。こうして彼は戸惑うことなく歩き続けることができるようになった。逆にそれに気付けなかったときの自分の運命を考えると恐ろしくなった。彼が保っていた意識は、特に神経を張り詰めたときの意識下においては自分から無限に離れて行きまた自分がそこから無限に離れて行く存在達、物体、諸感覚についての意識だった。彼の意識の旅は段階を辿ってどんどん深淵に近づくのだった。

 

作者は常には迷子だ。そう心の中でささやいた。皆さん、作者は迷子です。迷子の男だ、と、帽子に飛びつきながら、何度も何度も繰り返した。我々は今、人間に向かって書いているのかもしれない。そうだったら作家ではなく、サラリーマンであるという気取りが発生しそうじゃない?サラリーマンであったとしても気取ったものであったろう。この作家は、実は比較的伝統的な小説も書いている。つまりこれを書いた我々は象のことを知らない。なぜ彼はこんなことに時間を費やしているのか?それが理由だ。

 

「いただきます」

 

「そうじゃない」

 

「え?」

 

「マドレーヌはその紅茶に浸して食べるんだ。そうするともっと美味しくなる」

 

「あ。記憶って過去のものだけじゃないのね。今のこと、明日のことまで」

 

言葉、言葉、言葉。作家はまだ頭痛持ちなのだろうか?それとも腰痛?色々と面倒なことが多い。それはそれで楽しいのかもしれないが。最初から、彼の存在をあらためて確認する以上のことはない。そんなことどうだっていい。とにかく我々は何もないこの現実で日々手を伸ばしているが、そもそも手と言うものが何なのかわかっていないというのが現状である。

 

でもそれだって俺の視点だ。俺の視点は他の誰かにとっては間違いだろうがなんだろうが、俺にはそう見えているんだからそれは一つの真実だ。ここはそういう場所なんだ。色んなやつがお前に話しかけてくるだろう。しかしそれはお前がそうさせているってことを忘れるなよ。ここではあらゆることがどんどん砂の城みたいに崩れ落ちていく。お前が気づかないうちにな。忘れてしまうんだ。

 

虚無に埋没して負けていくのがニヒリストで、虚無について考え把握しようとするのが彼なのだ。それができれば誰でも彼足り得る。そういった意味で彼は個別の存在ではない。象を待つものの存在は集合的であって個別的ではない。

 

登場人物のいない本の中で登場人物ではなく、作者である、ここでは。年を取るか取らないか。作家は書いている、それだけだ。それでも。人生は、人が一日中何を考えているかで決まる。同様に、作家の神経衰弱もそうだ。人間が書いた本を読むこと。我々はこのようにして本を書き始めた。それが死ぬこともない我々の終わることのない日課であり、最上のやりがいとなった。我々は常に自分が存在していると思わせるものを探しているんだ、なあ冴子?あたしは本物よ!冴子はそう言って、泣き始めた。

 

登場人物を創り出すのは小説家の仕事である。アルフォンス・ドーデは言った。現代の小説において、行動や筋書きは小さな役割を果たすかもしれないが、それらを完全に排除することはできない。それができれば、自慢にはならない。それとも、作家がどう言おうと、根本的に認識できるジャンルに過ぎないのだろうか。ライターがどう言おうと、根本的に認識できるジャンルに過ぎないのではないか?

 

あたしがどこに行くのかわかりますか?あたしも知らないわ。この後、あたしは生まれてくるのだから。これが人類の進化なのだろうか。そう思いたいのなら、そう思うのが一番だ。肉体のない人間は人間ではないのでしょうか?肉体のある人間でも人間でない人はいるのに。あたしは人間じゃないんですか?

 

ImagoはImagoだ。人間ってなんだろう?体があれば、それで人間なの?人間なのか?

あたしはあたしです。住む場所によって決まるのでしょうか?現実の世界で生きて行くなら、あなたは体が必要自殺するのは本当に馬鹿げてる。死ぬだけの方がマシだ。あたしは必要とされていないのだろうか。いつか必要とされる?

 

うん、そうかもしれない。だけど、虚構で生きるには、身体は必要ない。必要なのは文字。 あたしの体の記録はどこにある?どこにある?あたしの価値観が変わるかもしれない?違うニーズがあるのだろうか?それがあなただという保証はないねえ、Imagoさん、虚構で必要なものは何ですか?

 

読み物以上でも以下でもない。単に型にはまった、概して憂鬱な、しかし時には遊び心さえある、今を生きる読書?遊び心にあふれた、今にも終わりそうな読み物? もし愛が腕の中にあったならそして再びベッドに!そして夜、外に出て星を描く。