行方不明の象を探して。その222。

彼は賑やかな空港で神経質にそわそわし、答えのない疑問で頭がいっぱいになった。文字通りの意味でも比喩的な意味でも、荷物が彼女の肩に重くのしかかった。事態の切迫感が彼女を苦しめ、彼女があえて明かさない暗黙の理由に煽られた。

 

ああ、すべてが思い出される。あの表情!あの疲れたような空虚な眼差し!あの男がやってきた!後ろも、中も、長い暗い道が、頭の中にも、脇腹にも、手にも足にも、そして彼は赤い暗がりの中に座って、鼻をつまみながら夜明けを待っている。

 

夜明けだ!太陽だ!光だ!これはいつも書くことなのだが、誰もが読んでも楽しめるぐらいの小説を書けない限り小説家になどなれない。なのにも関わらず小説家がやたら美化され、素晴らしい編集者に見出された作家がジャンボな作家になっていく、というような幻想を与えるフィクションが多すぎるが故に小説家志望が後を絶たない。かつて俺は数学者になろうと思っていたのだが、小説家になるというのは数学者になるのと同じようなもので、数学者の周りにいるのは中学生ぐらいからもう大学レベルの数学をやっていたような猛者ばかりである。

 

そんな世界に「俺も小説家になりたい!」なんていう憧れだけで小説家の世界に入れるわけがないのである。俺の頭と脇腹に、そして彼の足には小さな小道が、そしてすべての輝きが、触れ、集う。草むらを抜けると、古い根で骨ばった苔むした小道があり、木が生い茂り、花が咲き、実が垂れ下がり、白い蝶が飛び交い、同じ鳥は一日中隠れている。そしてすべての音は何の意味もなさない。こういうのもダメだな。飽きてきた。

 

ポエム形式の小説というかなんというか、今は相当泥酔しているから何でも書いてやる。小説を書き始めた10年前はそりゃー俺も小説家になりたかったさ。なんたら賞を取ってちやほやされたかったし、敏腕編集者と出版編集者御用達の神田のランチョンなんかで打ち合わせをしたりなんかして作家気分を味わいたかったさ。でも無理だったね。企画会議に上がったことはあったけど無理だった。でも書くことはやめられなかった。だから俺は書き続けている。

 

小説家を志したのは20年前ぐらいで真剣に取り組み始めたのが10年前だからもう30年以上小説を書いていることになる。志してから真剣に取り組むまでは何にも書いていなかったし、ぶっちゃけオナニーばっかりしているニートだったのだが、一応、書いているってことにしてキャリアを30年ということにしている。

 

俺がそんなとりとめもない話をする中、俺はその場に座り、内容は気にせず、声の心地よさに浸っていた。ガソリン、ストーブ、懐かしい光景と音。飲み物を待つ時間、自分の番が来るのを待つ時間。部屋の向かいの男が、まるで仲間意識の一部であるかのように、彼と目を合わせて話した。彼の番が回ってきた。彼とか男って言葉は便利だ。適当なロシア人の名前とかナターシャとかって書いても頭が悪いから誰がナターシャで誰がゴンチャーノフだったかを忘れるので彼、彼女、男、女、ぐらいでしか書けない。元がわけがわからないから名前を与えたりなんかしたらもっと分からなくなる。

 

今日も誰も読まない小説を書き続けて一日が終わろうとしている。こんなのを続けて一体何になるのだろうか?でも恐ろしいことに虚しさは一切ない。強がっているのではなくて書き続けていないと精神がおかしくなるので、とにかく書き続けていなければいけないのだ。ハイパーグラフィアという概念を知ったのが50年前ぐらいだったか?俺はそうなのだと思った。


その男は、旅の話、別の場所で過ごした日々の話、そしてまた戻ってきた話をした。ストーブの暖かさ、飲み込むたびに喉を滑り落ちていく油、それが慰めをもたらした。会話は移り変わり、言葉は盤上の駒のように変化した。もう一杯飲むと、俺は語り手の長い灰色の巻き毛を見つめながら耳を傾けた。

 

必要な短い夜はすぐに終わり、誰も来ることのない秘密の場所の上に、また青空が広がる。秘密の場所は決して同じではなく、いつもシンプルで淡々としていて、いつも単なる場所にすぎない。もう飽きた?ごめんな。こんなのしか書けないんだ。

 

久しぶりに、ここで、ここで、俺の手の中で、俺の目の中で、顔を上げ、差し出された顔のように、すべての信頼と無邪気さと素直さ、すべての古い土と恐れと弱さが、スポンジで拭い去られ、赦されるために差し出された!それともその快楽を今まで感じなかったのだろうか?

 

あなたじゃないと書けないものがあるんです!執筆頑張ってください!と俺を励まし続けてくれた編集者は俺の本に出版の見込みがないことが分かったら一気に連絡がつかなくなった。電話は着信拒否。メールも受信拒否だった。その日はいつもより激しいマスターベーションをしたのを覚えている。

 

不毛な小説を書いた。すでに夜になっていた。私はゴールデン横丁の賑やかな通路を横切りった。雨はしとしとと降り、石畳の道に神秘的な光を放ち、空気は期待に満ちていた。雨が降っていると女性のブーツ率が高くなるのでテンションが上がってくる。今日も死ぬほど酒を飲んだ後、ブーツの女性を口説く勇気はない俺は、何しろ俺はどうしようもない童貞だから、その女性が雨だからレインブーツのつもりでブーツを履いているのか?それともファッションとして、晴れの日でも冬ならブーツを履く女性なのか?とりあえず雨の日にストッキングにブーツなんて組み合わせは普段、足が臭くならない女性ですらも臭くなりやすく、ブーツ研究をしている俺にとってはっていうか、確か男の普通の靴の10倍ぐらい雑菌が繁殖しやすい雑菌の温床になるということを聞いて、その雑菌の繁殖の解説を聞いているときに欲情してしまい、説明しているのは初老の医者だったのだが、そのYoutubeの解説を見ながら抜いてしまった。客観的に見ると初老の医者が喋っている姿を見てオナニーしていたということになる。

 

ドラム缶で作られた大釜の周りに身を寄せ合い、魔法の酒を準備する魔女の一団がいたときも、初老の医者のYoutubeは連続再生され続けていた。透明人間から現れたかのような女性が、魔法をかけた新聞紙を操り、魔法使いにしか理解できないリズムで踊る火に点火した。そして、謎めいた人物、古代の魔法のような雰囲気を漂わせた男が私たちに向かって歩いてきた。ボロボロのセーターの下には裸の胴体があり、つまりは露出狂だったのだが、レンガや石といった古代のアーティファクトを恭しく持っていた。彼は座ると、魔法のかかった2枚の木片で十字架を作り、未知の力を呼び出した。

 

その背後では、謎めいた女性が魔法の車らしきものから出てきた。その雰囲気は、語られることのない呪文と語られることのない秘密でざわめいていた。先ほど悪態をいろいろついてしまったが、俺は小説の神様、のような、甘ったるいダーティーな出版業界やSan値を削って小説を書いている小説家のことなどが全く無視されている作品が大好きだ。ああいうのを見るたびに現実でも小説というものがあのぐらいのものだったらなーとかって思うだけど、「あのぐらいのものだったら」とかしか書けないからこそ俺に小説を書くことはできないわけだし、原因は他にも色々あるだろう。

 

小説の神様が、魔法の装置を操作し、スイッチを入れたり切ったりしている。LGとNCTVのタイトルが謎に包まれたまま残っている。LGってのは何のことか分からない。NCTVはケーブルテレビか何かだろう。でもよく分からない。カセット・プレーヤーからテレビまで、不思議な工芸品の数々が周囲を飾り、超現実的な雰囲気を醸し出していた。「超現実的な雰囲気を醸し出す」ということをもっと文学的に書けば文学的価値があがるのだろうか?語彙力や表現力を増やしても俺以上のものが俺から出るとは思えないので、そういうのは諦めた。

 

小説の神様の映画をまた見る。ヒロイン役の女の子が可愛くて恋愛対象なのに実際は親と子供ぐらい歳が離れていて、俺が小説を書くだけの人生を30年も送ってきてしまったがために、あんなかわいい子との出会いもなければ恋愛をすることもなく、ただ年老いてしまった。といっても30年の9割ぐらいはオナニーかゲームをしていたので、無益に過ごしてきた結果だから、まぁそれはしょうがないだろう。自業自得というやつさ。

 

そして魔女が立ち止まると同時に、古代の呪文の言葉が魔法のアーチに響き渡った

 

「いつも、夜も昼も、墓も山も、いつも、昼も夜も、墓も山も、彼は叫びながら、石で自分自身を引き裂いている」

 

古代の呪文の冷たい響きが空中に残り、私の背筋を震わせた。

 

「夜と昼、世界は融合する、この神聖な空間に、過去が現れるだろう。墓と山よ、この儀式を目撃せよ、神秘の夜に石が叫ぶように」

 

古代の呪文だとなぜ分かる?こういうことが問題だ。なぜ語り手というか書き手は全知全能という立場なのだろうか?実際に魔女の集会でそんな呪文らしきものが唱えられてもそれが古代のものかどうかなど知る術はないはずだ。もしかしたら19世紀イギリスのモダンマジックとか黄金の夜明け団系列の近年発明された呪文かもしれないのに。もう無理だな。ここ変だよねってことを言い出したらキリないよ。もうやめだ!やめ。顔のない作家も「物語だけはやめてくれ!」って銃口を突き付けた俺に懇願していたじゃないか。顔のない作家を殺したのは俺だ。

 

今のように書いても書いても尽きない時は脳の性欲の部分も反応するのだろう。性欲がとんでもないことになる。だからオナニーしては書き、オナニーしては書き、かくってこともオナニーって意味だから一日中かいているということになる。マスを。でもそれがマスに届くことはなく、全てはトイレットペーパーを覆いつくす大量のザーメンの染みと紙を覆いつくすインクの染みがトイレのブラックホールに吸い込まれていくのだった。誰も原稿用紙で書くことなんてきょうびないのに「400枚分」とかって言う言い方をする。ティッシュ400枚分オナニーしてくださいって言われたら、そりゃティッシュの枚数の定義にもよるけど、限界までオナニーをすると赤魂が出るとかって言うけども、「プスッ」とか言う音がして何も出ないまでオナニーしたことがある男は大体9割ぐらいチンポを触られたら身震いすることだろう。

 

そんな何物にもなれないオナニスト達の視線はザーメンで満たされた彼女の口元に注がれた。村上春樹じゃなくてむらかみてるあきの作品では非現実的なザーメンを口に含んだ女の子がザーメンを口でぐちゃぐちゃとこね回すというモチーフが定番で、村上春樹で言うところの、どうでもいいクラシックやジャズの蘊蓄や、この世でそんな会話をしている男女は絶対いないと断言できるようなどうでもいい男女のやり取りの後、春樹さんはどこへ行くつもりだったのだろう。めまいがして疲れ、俺はトイレにいってまた一発抜いた。ヘルレイザーの1か2か3か忘れたけどブーツ履きっぱーの姉ちゃんをマッチョな兄さんが犯すシーンがある。その時にマッチョな兄さんはイク時にハルクホーガンの

 

「イチバーン。睾丸二バーン。バーンって言い過ぎて金玉燃やすなよ。どうせディオが刈りにくるさ」

 

俺はそんなことを一人で考え、暗い蛾が壁の穴のように待っていた。やけに最近、蛾を見るようになっている。俺も堕ちた王になるのか?Coopでやれば死んでもソウルはロスしないからCoop気分で人生をやればいいんじゃないか?Coopにはボス前の蛾が見えるはずだから。何の解決にもなってない気がする。

 

外は嵐の気配。木箱入りのビールが届き、俺は瓶を手に取り、その中に世界が形成されるのを感じながら飲んだ。あまりの重さにビールを落とし、幻想は砕け散った。しかし今のところ、俺以外はすべてその場にとどまっている。俺はサンドイッチをひとさじ味わいながら、平行するレール、濡れた庭、また見えてしまった蛾に思いを馳せた。俺の内側には、悲しみの息吹の下にとらえどころのない何か、音楽の気配が漂っていた。立ち上がったとき、俺は頭の中に一筋の光が差し込んだことを思い出した。

 

その光とはまた小説の神様の映画を見直して小説を書くモチベーションを維持させるためのアストラル界からのメッセージだった。小説を書くために書く文章とは何なのか?これは小説の練習でもないし小説でもないしジャンルなんてないわけだし、そういえムドラ手淫というカードを買ってきた。手札だった。手淫ばかりしているので「手札」というキーワードに何か小説のアイデアになるようなものが隠されていると直感的に思ったからだ。しかしそこからは何も得られなかった。カード自体は良かった。仮にアイデアを得られたとしても小説が書けない俺にとっては無用のもので、いや、無用ではないけどそのアイデアをどうやって具現化させればいいのかが全く分からなかった。

 

俺が書けないのは村上春樹のような、というか小説の全般にあるような、誰でも書けそうな陳腐な風景描写やカンヴァゼーションズ、だ。小説の全てが書けないといっても過言ではない。過言ではないって言い方もこれだけ書いていると言い過ぎている気がするから過言ではないに変わる何かを発見しなければいけないのだろう。

 

今日も何万字書いたか分からないが、結局、小説らしい小説は寸分も書けなかった俺は首をもたげ、ナイフをぶら下げた動物のように夜が明けるのを待っていた。眠かったのになんで夜が明けるのを待ったのか。エーテルの暗闇の中のギャラリー、痕跡のない捜索。電圧は下がり、スクリーンの信号は途絶え、窓ガラスは揺れ、照明が明滅した。雨だ。俺はまた酒を飲み、ツイッターで呟いた。

 

「ツイッターなんてやらなくてよかった」

 

明け方の暗闇の中で呟きながら、朝日が覆いかぶさる。雨だ。カラスが確認に向かったが、留まる場所を見つけた。帰ってこない。カラスにとっても居場所はなく、俺はカラスと一緒に休んだ。色々と話し忘れ、できる限り彼女の顔にしがみついた。

 

「もし彼女が俺にキスをしたら」

 

と俺は考え、胃を締め付けた。音楽が流れ、胸は締め付けられ、身体はより多くを渇望した。ほとんどすべての人を愛し、人々は最大の楽しみである。酒を飲み続けながらそう思い、周囲の雑音に言葉を混ぜた。そして朝、静かな家の中で休息することにした。もう道も通りもない。避難所に面した窓のそばに横になると、何も要求せず、何も指示せず、何も説明せず、何も提唱しない小さな音が聞こえてくる。

 

こんな風に書けなくなるまで書くよりも書けそうだけど色々と温存して他の時間はオナニーに回した方が建設的だ。何もかもを出し尽くしたら次の日に何も浮かばなくなって何も書けなくなって自己嫌悪に陥りながらするオナニーはまたそれはそれでいいのだけど、やっぱりオナニーもかくということでゲン担ぎで書くという行為をしながらマスをかきたい。そして俺の文章がマスに届くとき俺の絶望は無に変わるだろう。マスに届いたところで何の承認欲求も得られなかった!と。

 

マルセルの野郎を見返すために1000万字の小説を書くことが当初の目的だったのだが、ネット検索してみると1000万字書いている作家なんて普通にいて、まぁ大抵はアマチュア作家なのだが、中国では5000万文字ぐらい書いている作家もいるんだそうで、それはまぁもちろん生涯に書いた文字数で換算すればそんなものは余裕かもしれないが、一作にそこまで費やせるのはもうキチガイとしか言いようがない。

 

俺は世界で一番のキチガイだと思っていたのに胃の中のキチガイだった。ピロリ菌の一部程度のもんだろう。