人通りがないわけではないのだが、誰もこの中で若いサラリーマン風の男が死んでいるとは思ってもいないだろう。渋谷の監視カメラの位置はすべて把握しているので、トレスされる心配もない。銃器とCQBの免許皆伝の際にオツベルさんから頂いた懐刀にも血はついていなかった。
いつもこういうCQBならいいのになと優美はしみじみと思った。銃器が好きなのは相手の肉感が懐刀やナイフを通じて感じることがないからだ。しかしオツベルさんの懐刀のようにとんでもない切れ味がある場合、喉笛を切るというよりも撫でるだけで相手を絶命させることができる。それは優美が「車」というキーワードを男から聞いたときに想定済みのことだった。あのくらいの距離感なら気持ち悪さに我慢しなくても簡単に殺れると。
動きを消すというのはマスターするのに本当に時間がかかった。人間が何か行動を起こそうとするときは意識せずに予備動作が表れてしまい、例えば腕を動かそうと思うと先に肩が動いてしまう。そういう世界にいる人間には一瞬でそういうのがバレてしまい命とりになる。気配としては身体がダルいときに適当に手の届く範囲にある本を手に取って読むぐらいの泥のような動作感が必要だ。それを素早く動きを消しながら行う。
ダルそうにしている人間が手元の本を手繰り寄せている動作に殺気を感じる人間はいない。これを素の状態でやるのはまだ簡単と言えるかもしれない。難しいのは銃や刃物を突き付けられている時に殺気と気配を消して一瞬で相手を絶命させる時だ。一瞬のミスが命とりになる。これは日々の稽古で鍛錬できるものではなく場数が必要だ。オツベルさんはいつも真剣で僕を本気で殺しにかかってきてくれていた。そのおかげで殺気慣れした。心の迷いや動揺が無駄な体の動作を生み出してしまう。そういうものに慣れないといけない。
こういうものは日々、レンガを一つ一つ積み重ねていく作業のようなもので、短期間に訓練してマスターできるようなものでもなければ、マスターするという概念が存在しない、常にwork in progress状態にある技術と言っていい。上限が無い世界だ。だから気乗りしないときでも優美は積極的に練習だと思ってゴミ掃除をする。
それはオツベル流の教えでもあった。外出時に大好きなスニーカーコレクションやアウターを着ていくのも、万が一そういうことになっても無駄な返り血を浴びないようにする自分へのプレッシャーだった。雨合羽を着て殺れるなら相当楽だと思う。そんなもの大した練習を必要としないだろう。伸ばしたいスキルはこういった市街での暗殺だ。
全く何もなかったかのように相手を絶命させ、それがCQBでも銃器によるCQBでも返り血を浴びないということが重要だ。返り血を浴びても着ていたものを処分すればいい。でもそういう心の余裕を持っておきたくない優美は常に自分を追い詰め、リミテッドモデルのジョーダンやハイ・ストリートブランドのアウターを着てゴミ掃除をするのだった。それが優美にとってのゴミ掃除の正装なのかもしれない。
前の殺しは不可避的だった。それは三か月ほど前、制服で新宿のアルタ前を歩いていたときのことだった。その時の男はやはりサラリーマン風で横に並んで歩きながら優美の腕をピシャピシャと叩いて、ねえ、時間ある?とうるさく話しかけてきた。無言で立ち止まると男は耳元で
「人の話はちゃんと聞けよバカ野郎」
と怒鳴った。優美がジッとしていると男は
「てめえが昼間っからウリやってんのなんかみんなわかってんだよ」
と大きな声で説教のようなことを始めた。
「俺はヤクザの友達も多いんだよ、お前の住所調べて家に乗り込んで家族の腕の骨折ってやろうか?偉そうにすんじゃないよ、お前みたいなカスが偉そうにすんじゃないよ、わかってんのか、この野郎」
周りを歩く人が振り向くような大声で数分間男はわめき続け腕を引っ張ってどこかへ連れて行こうとしたので優美は腰をかがめて二人はすれ違った。男は不意に膝を折り前にのめった。オツベルの懐刀は男の胸を刺し、すれ違った時には懐の鞘にすべりこんでいる。刃の上に一滴の結婚も残さないのがオツベル流秘剣の作法だった。男が倒れたときにはそこに優美の姿はなかった。通行人が倒れた男に向かって
「大丈夫ですか?」
と声をかけている。目を開けたまま動かないので通行人がザワザワし始めた。何人かの人たちが男の元にやってきて
「大丈夫ですか?救急車!」
と叫んでいる。男の元にやって来た人の一人がスマホで病院に連絡をしているようだった。そのうち駆けつけた警官が目を開けたまま倒れている男に向かって頬を軽くたたきながら
「大丈夫ですか?」
声をかけている。外傷は全く見当たらない。その後、救急車で駆け付けた医者によって蘇生処置が行われたものの、男は微動だにしなかった。その時、医者はギョッとした。蘇生措置をし始めた途端、男の胸から噴き出すように血が飛び出してきたからだ。辺りは騒然となった。
男は血まみれのまま救急車に運ばれてそのまま検死にかけられた。しかし検視官は男の傷を見て首をかしげるばかりだった。傷口はただ一か所で測ったように真っすぐ心臓を貫いていたが、それが何による傷かはっきりとしなかったのである。それは人間にではなく何か別のものによって与えられた傷のようにも見えたのであった。
ああいう人間って何のために生まれてくるんだろう?女性を何だと思っているのだろう?ナンパするだけならいいんだけど、こっちが無視したら恫喝してくるとか考えられない。死んで当然というより生まれてきたのが間違いだった人間はやっぱり消えるべき。それは殺すということじゃなくて元の消えるという存在が無い状態に戻してあげることだから躊躇することはない。お父さんだってそれでノーベル平和賞を取ったんだもの。
元々は酒の席の話だった。明治時代の人斬り彦斎は酒の席で一同が誰々はけしからん、天誅せよ!と叫ぶとふらっと席を立ってさっと行ってそいつの首を斬ってさりげなく風呂敷包みにそれを入れてみんなの前に持ってきて「おみやげだ」とスイカを買いに出かけた気楽さで戻る芸を得意としたが、優美もそのような境地に憧れている。悪はいかなる手段を持っても根絶せねばならない。
暴力は素晴らしい手段だ。権力によって人間はいくらでも暴力を行使することができる。ブラック企業の大半がそういう権力構造による暴力の行使だろう。身体的には全く手が出ない人間をパワハラという言葉の暴力でひょろひょろとした維持の悪い奴が屈強な男を自殺に追い込むことができる。しかし社会はこれを暴力とみなさない。ハラスメントとみなすのだ。優美に言わせればこれは立派な暴力だ。フィジカルが伴う伴わない関係なく暴力はただの暴力でしかない。
優美が素晴らしい手段だと思っている暴力は、そういう類の暴力を一瞬で無に帰することができる暴力だ。つまりはハラスメントというのはフィジカルの世界ではないので、それは防弾ガラスに囲まれた状態で対象者を言葉によって追い詰めるようなもので、フィジカルというのはその防弾ガラスを取り除くことである。
つまりは掌底を食らわせて鼻を折ったりすればハラスメントはそこで解決するのだ。でも法律がそれを許していない。法律はハラスメントを推奨しハラスメントによって追い詰められる人間に味方をしない。暴力には暴力で対処するのが一番良いというケースはかなり多い。しかし現代の人間はそれは不可能だと思い込んでいる。
優美が素晴らしい手段だと思っている暴力はその不可能を可能にするものだ。それはただの認識のフレームワークの違いだと言ってもいい。ただ手を出せばいいだけなので非常に楽である。やたら威張ってるやつに「なんだてめぇ」と押しただけで、その「押した」行為が暴力だと言って押された人間はそれで警察だ何だと言い出す。
国家権力の威を借るキツネである。過剰なコンプライアンスによって人々はよりフィジカルな暴力に訴えるという手段を去勢されてしまった。このコンプライアンスの矛盾はコンプラコンプラと言っておきながら法的に微妙に裁けない言葉の暴力に対して全く無力だということだ。フィジカルな暴力に訴えることができないおかげで、口がやたらと回るキツネのようなやつがのさばることになる。
優美は戦前の右翼のような暗殺思想の持主なのかもしれないが、本人には政治的思想はないようである。ということは生まれついての暗殺者ということになる。これも天才の一種だろう。しかし反社会的なので社会はそれを「天才」と評価はしない。
人は段階を経るものなのであって、小学生に戻れたら何がしたい?と言われても強くてニューゲームというわけにはいかない。それは生物学的に例えば35歳の男が子供の頃に戻りたいと思っても、35歳の男が持っている段階を経た意識のまま子供の頃に戻るということは絶対にありえない。
その35歳の男は可もなく不可もないような人生を送ってきた人間で、それは不可が無いだけ恵まれていると言える。大きなトラブルに見舞われることもなく大病を患ったこともない。男が住むアパートは郊外からそこまで遠くない場所にある。とは言っても東京に近いことが男にとってアドバンテージになるようなことは大してなかった。
男は地元の狭い書店に行くと、そこで時間を潰そうとした。膨大な量がある書店より小さい書店で無理やり何か良いのを探すのが楽しいと思っていた男は何となく良さそうだと思った文庫本を買おうと思いレジに持って行った。レジの店員に見覚えがあった。全く中学の頃から変わっていない。あの冴えない部活の先輩だ。冴えない人間は冴えない書店で働くのか。佇まいが恐ろしい。何をもって生きているのかが分からない生態系を持っているような感じで、でも狂った内面があることを男は知っていた。