眠いから適当に書こうと思って書いてなかったことを書くね。
あ、でも前に書いたっけな?ドッグヴィルっつー映画の話。あーでもやめようかな。日本にいるとさ、家族もそうだけど、友達とも会ったりなんかして、まぁ喋る機会があるじゃない?ウォール伝って原動力が溜まっているものの放出みたいなオナニーだからさ、他で出せているとあえてウォール伝で書かなくてもいいみたいな感じになるんだよね。いや、そのトピックが溜まっているものであっても、言語という形で他のトピックでもなんでも放出できていると、とりあえずそれでスッキリなんだよね。膿むことはない。だからなんつーかウォール伝を書くためには膿む必要があるんで、やっぱ引き篭もったりする必要があるわけで、ニューヨークの地下生活って何かを書いたり思索するにはピッタリの場所なんだと思うよね。本当に。家に帰っても誰もいなくてさ、それを無意識に寂しいと感じていなくても、やっぱりまぁ寂しいと感じているのかな?いや、寂しくはないか。寂しいっつーか一人で時間を持て余すからやることがあるじゃない?で、そのやることの大半が読書だったりするわけでさ、自ずと隠匿読書生活みたいになるような傾向性が生活の中にあるのよね。今はまぁホント、時間が限られてるっつーのもあるんだけど、やっぱり家族と話したりさ、テレビも見るわけよね。じっくりではないけど、まぁ適当に見てると時間が経ったりしちゃってさ、まぁある意味でまともな健全な生活を送れているわけだよね。でもニューヨークでは喋る人はいないし、友達がいないってわけじゃないんだけど、まぁ普段からよく会ったりする人ってのはあんまいないわけでさ、大半の日々は学校と家の往復と部屋での生活じゃない?で、その部屋の生活ってのが誰もいないアパートの一室なわけで、まぁ読書にはピッタリの環境なんだよね。かといって暗いわけではないんだよ。引き篭もりなんじゃなくて、学校では全然喋るし、たまに友達とも会ったりするんだけど、ただまぁ読書向きの生活とか環境ってことなのね。それは自分でデザインした環境であると同時にそういうライフサークルなわけだけど、それにしてもまぁデザインが成功しすぎだなっていう。今もまぁ本は読むけど、ニューヨークで生活しているときみたいなオブセッシヴな感じではないんだよね。あくまで生活の一環としてある感じね。
そういう意味だと、かつて俺にとっての音楽がそうであったように、今の読書っつーか知識欲っつーのはまぁ生活に必要な逃げ道というか、欲望を満たしつつ現実を忘れられるある意味での装置というかツールなのかもしれないんだよね。まぁこれはいつも書いていることなんだけど、でもまぁ改めて感じたっつーかさ、今って家にいるだけだったら現実を忘れる必要は無いんだよね。普通に幸せだから。だから何かにオブセッシヴになるってことが無い気がするんだけど、あっちでの生活は人とコミュニケーションする時間が少ない分、主観的になる割合が高くなるんだよね。主観的というか内省的に何かを考える率が高くなるっていうね。それは一見すると暗いんだけど、でもまぁ読書だとか何かを考えるっていうことに関しては抜群にワークするのね。だからあれかもね、下手に幸せだと緩むなって思ったよね。妙なルサンチマンを抱えつつ、「俺は頭が悪いんだからこの欠落を埋めなきゃいけない・・・!!」みたいな強迫観念が無いと、その実存の欠落を埋めるための何かにオブセッシヴになる行為というのは生まれてこないのかもしれない。ラカンで言うところの対象Aを半ば人工的に作り上げている感じだからね。
なんつーかね、こないだまぁホント、久しぶりに会った友人と話したんだけど、まぁこの人ってのがその辺の学者より頭が良くて知識も半端じゃない人なんだけどっつーかまぁ昔、Tinqっつーユニットを一緒にやってた人なんだけどね、まぁTinqでぶつかったりしつつ、南京大虐殺の話かなんかで意見の相違があって、んでまぁ俺が一方的に関係を断ち切っちゃったっていう元相方みたいな人なんだけど、まぁこないだやった俺の歓迎会というか送別会というかに来てくれててさ、まぁ来るとは思ってなくて意外だったんだけど、でもまぁ昔のように何事もなかったかのように普通に話したりしたんだけどね、居酒屋で。やっぱね、この人ほど色々と思想関係だとか哲学関係のことを話せる人っていないんだよね。あと政治とか。あーやっぱ元相方は凄いやつだなって改めて思ったと共に、まぁまた話せて良かったなって思ったのは言うまでもないんだけど、別になんつーか邂逅について書きたかった
わけじゃなくて、ちょっと危ない自信というのを感じた俺がいたのね。というのはこの知識が半端じゃないこの元相方と俺は昔から付き合いがあって、まぁ3年近くのブランクがあったとは言え元相方だったわけだ。で、音楽の話とかさ、思想の話とかも昔からしてたんだけど、こんなその辺の学者より頭が良いこの人とずーっと話してたってことは俺って絶対馬鹿じゃないよなって思っちゃったのね。いつも書くように、俺はコンプレックスの塊みたいなやつで、登校拒否以来、学校で普通の勉強をしているやつに復讐してやるみたいなネガティヴな理由が3割ぐらいで科学雑誌のニュートンとか読んでたからさ、基本がまぁドロップアウターのルサンチマンの過剰な欠落の補完なのね。
で、こないだの飲み会でお互い昔よりもっと色々な知識を携えつつ、また色々な話をしていると、まぁ井の中の蛙って言われるかもしれないんだけど、やっぱレベル高いんだよね。会話のレベルが。とてつもなく。そんな会話を出来ている俺はすでに頭は悪くないなって認めざるを得ないってことはさ、どういうことかと言うと、まぁ何も俺はこんな凄い友達がいるんだぜっていう自慢がしたいのではなくて、俺の負のパワーが無くなっちゃうってことなんだよね。やっぱ俺は馬鹿ではなかった・・・という気付きが驕りになっていくような恐怖を感じたんだよね。だから知識って怖いんだよ。その友達と高度な会話をすることは良いことなんだけど、でもそこで「俺らやっぱ物知りでレベル高いよねぇー」って思っちゃうと終わりなんだよね。で、正直言うと、この飲み会の後に「すんげーレベルの高い話だったな」なんて思い返したりしている自分がいてさ、これってちょっと予兆あるんだよね。「俺は物知りだ」みたいに思ってしまう予兆がね。俺のオブセッシヴな読書は欠落から来ているわけで、まぁ今の段階でその欠落が埋められたとは到底思えないんだけど、ただ自分の持っている知識で高度な会話が3年越しに出来たという満足感が諸刃の剣だということを言いたいわけね。いや、久しぶりに喋れて楽しかったとかっていう満足感とか、色々な友達に久々に会えたっていう満足感もあるんだけど、でもやっぱ自分の知識への満足感もあったりしたわけ。これが危険なんだよな。もちろん俺も元相方も「俺らレベル高いよねぇー」なんてつもりで喋ったりはしていないんだが、ただ話のレベルが高ければ高いほど、なんというかその高さの中にいる自分の満足度というのを感じてしまい、一瞬、知的スノビズムのようなものが自分の中で明らかに見え隠れしていたりしたわけで、ちょっとあれなんだよね、馬鹿凡人学者の気持ちが分かったんだよね。
「あー馬鹿な学者はこういう風な感覚で自己満足して自分の言説に酔ったりするんだろうな」って凄く分かった。会話がアカデミックで高度であればあるほどその「アカデミック」とか「高度」というアイコンを背負って話している自分とかいうのに酔ってしまうような傾向性というのがその会話の状況で生まれやすいんだなっていうのをリアルに感じたわけね。思索している分にはそれがどんだけ高尚なものだろうがいいんだけど、それを言葉にすると、やはりついつい俗っぽい「俺は物知りだぜ」とかっていうのを見せ付けるような自分の傲慢な態度であるとか、ジャーゴンを使ったりして自己陶酔しているナルシスティックな態度であるとかが出やすいんだよね。それは誰かを相手に喋っているということで、その相手に何かを見せ付けるということで満足しているような要素があるんだよね。俺はそういうのが嫌いなはずなんだけど、でも自分の中にそういう欲求が無いわけじゃないんだなというのを凄く感じたのね。だから恐怖だったわけ。
やっぱり俺は無知なままでいないとダメだな。下手に博学になるよりかは一生アマチュアでいたい。そうじゃないと新しいものを吸収できなくなるような気がするんだよね。物事を知っている人が知らないように振舞う態度は傲慢以上の傲慢だから、博学だろうが博学でなかろうが、それはただのデータベースの蓄積なのであって、褒められるものでも立派なものでもなんでもないという自明の認識が必要ね。これは謙虚でいるとかっていうことでもなんでもなく、ただのデータの蓄積だと思うことで、その博学とかいうようなよい響きを自分の中で抹殺するんだよね。知識に対して他者からの承認があるというような馬鹿げた考え方は変えなきゃいけないね。俺は自分のために必要なのと単純に知りたいという理由から本を読むのであって、それをひけらかしたり、ジャーゴンを使いまくったり高度な話をすることで自己陶酔することを目的とするわけではないわけだよね。それは分かっていても喋っていると色々とひけらかしたくなるような愚鈍な自分がいたりするのに本当に恐怖を感じましたよ。本当に。ペダンティックな態度というのは自己権威欲みたいなもんで、まぁある意味で人間が本来的に持っている下等な感情の一つなのかもしれないなって思いましたよね。本当に。
まぁだから本当に気をつけたいなって思ったわけですよ。見せびらかしって本当にみっともないよね。そんな下等な感情が自分にも普通にあるわけだよね。人間って超越したり滅却しないといけないような煩悩やら欲望やらが多すぎて、実存的には人生単位でやること多すぎだよね。そういうのがやれている人間って本当に少ないんだろうな。これだけは物凄くよく分かる。俺は馬鹿になりたくないから滅却を頑張るわけね。ってことで今日はこの辺で。っつーかドッグヴィルの話をするつもりが全然違う話題になったね。あとまぁ一応最後に書いておくけど、俺も元相方もペダンティストではありませんからね。今回の話はその元相方との会話の中で衒学的になりそうになる自分というのを感じたことによる恐怖っつーのを書きたかっただけなので。
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