足立恒雄の志村五郎についてのツイート。

志村五郎という日本を代表する偉大な数学者がいる。フィールド賞というのは40歳までの若手に与えられる賞だから、志村さんはもらっていないが、これがノーベル賞のように年齢に関係ないなら二つほどもらってもよいほど偉い人である。


これから書くのは学者として偉いということと人格的に問題があるということとはまったく独立であるという証拠のつもりである。ただし私は志村さんとは何の面識もないし、何かお世話になったというような関係ではないことを断わっておく。もし関係があったら恐ろしくて書けない。


志村さんはヴェイユ=志村=谷山予想といわれていた問題にヴェイユの名前が入っているのがけしからんとあらゆる新聞社に電話する位活動的(つまり攻撃的)だから、みなさん遠慮して何も言わない。


話だけなら文章になっていないので文句の言いようもないが、志村さんの著書『記憶の切り絵図』は公刊された書物なので、証拠のない陰口ではない。


志村さんの書いていることは二度読みたくないほど誹謗中傷、独善に満ちているが、中でも許されないのは、死者を鞭打っていることであり、それも何の根拠も示さずにやっていることである。


(その1)多くの人が自分にアイデアを負いながら、そのことを論文に記していないと実名を挙げながら非難している。実際はどうなのか? 他のことと照らし合わせると極めて怪しい。数学界はそんなに恩知らずに満ちているとは思えない。


(その2)高木貞治に2度しか会っていない、それも遠くから話し声を聞いたことがあるだけだと書きながら、「高木貞治は下らぬ小人である。」、「自分は士である。」と何度も書いているが、根拠が何も記されていない。


(その3)ヘッケという(志村さんよりはずっと偉い)歴史的大数学者がいるが、ヘッケにはできなかったことを自分がやったというだけのことで「ヘッケに死に恥をかかせてやった」と書いているが、死に恥とは何だ!


(その4)志村さんが数学は問題解きの学問だと心得ているのは結構だが、ヒルベルトについて「趣味も悪く、程度も低く、人の目をつまらない方向にむけさせるという意味で反動的であった」と断じている。あまりに偏狭な数学観を振りかざすのは他に対する影響を考えない行動だ。


(その5)「マッカーサーは小人以下であった」と書いているが、当否はともかくとして、何の根拠も示していないで、こういうことを書くのは、いくら数学者であってプロの文章家ではないとは言え許されることではない。


「衆人の一致した意見は、人柄のよしあしに関する限りつねに正しいものである」と書いてあるのは、正にその通り!志村さんにこそ、この言葉が一番適切に当てはまる。「君子は泰にして驕らず、小人は驕りて泰ならず」と論語を引用しているが、自分が一番適切な例である。


中にKとGという学生時代の知人の話が出てくる。学生時代の行動を口をきわめて罵っているが、KとGは私の知人で、志村さんよりは尊敬に値する人たちである。「彼らはまともな倫理観に欠けている」というが、そんな激しい言葉を使うような内容だとはとても思えない。


数学の世界は問題解きに熱中していてこうした傍若無人に対していちいち反応しないのが通例であること、そして自分が数学の世界で地位があること、を利用し、ナイコトないことを好き放題書くのはともかく、たいていがすでに亡くなった方々で、文句が言えないというのが許せない。


谷山豊さんは若くして亡くなった志村さんの東大での同僚だが、谷山さんのオリジナリティ等に関し陰湿な嫌がらせを繰り返し書くというのはとても普通の神経では考えられないことである。何が「士」だ。葉隠ボットをやったために志村さんのことを思い出してしまった。


自分が教祖ぶっていると必ず信者ができるもので、志村さんにも信者が二人ばかりいる。京都で弥永先生と岩沢健吉さんのお祝いの会があったとき、あいさつに立った信者がお二人については一言もふれず最初から最後まで志村経を上げていた。


そのとき信者いわく、「志村先生はこの論文をお書きになったとき、ヴェイユに引導を渡した、とおっしゃいました。かくしてヴェイユは葬り去られたのであります。」バーカ言ってんじゃないよ。


その信者はアメリカにはじめて行った時のことをトクトクと話していた。プリンストンの志村先生のお屋敷をはるかに遙拝いたしまして、次の日にお宅にお伺いいたしました。」 ケッ! 「遙拝」だって。 だれのための祝賀会か忘れている、のではなくわざと無視したんだね。


『記憶の切り絵図』は若い人には読んでほしくない本である。内容の正確さは図書館で確認してほしい。買われると販売促進の協力をしたような結果になる。飯高さんは、提灯持ちをしたんだろう、怖いあまりに。


基礎論に対する態度をA,B,C,D,Eで分類するということが昔言われた。Aは専門家で少数。Bは専門家はだしでごく少数。当時は岩村さんのことを意味していたが、まあ論文を書かなくなったベテラン基礎論屋としてもよい。Cは基礎論ファンでこれも少数。私はこの分類に入る。Dは基礎論にまったく無関心な人。多くの数学者がこれに入る。Eは基礎論に反感をもつ数学者。これがDと同じくらいに多い(多かった)。志村さんが新しいことは何も出ないとして基礎論を見下し、ヒルベルトを罵ったのが代表的な例である。


数学は実力の世界だから、というかある程度研究職が得られるので、そうした卑しい争いは見られない。世の中、とは言わないが、大学の、とりわけ文系の世界は先の事件と大差のないことが日常茶飯事として見られる。志村さん程度の人は文系ではごく普通なのかもしれない。しかし数学ではまずめったに見られないので、反撃もせず皆さん黙り込んで黙殺したつもりでいるから私が取り上げたまでである。数学の人は純粋すぎてまったく無菌室の生物みたいである。それを良いことに言いたい放題誹謗中傷してはいけない。しかし、志村さんの場合は、自分がいかに偉い世界史的大数学者であるかということを売り込みたいだけなので、たいした害がない。早稲田の政経で起きているようなことはまったくの村社会の出来事で、どうしようもない。またそのうち。


http://d.hatena.ne.jp/q_n_adachi/20110517


足立恒雄って人は「フェルマーの大定理」っていう本の中で哲学のことを唐人の戯言だなんて書いていたんですげー嫌いだったんだけど、この一連のツイートを見てみなおしたんだよねーっつーのがさ、志村五郎って相当権威なんだよねって素人が言うのもなんだけどさ、バッドなエピソードに事欠かない人でさ、これは聞いた話なんだけど、志村五郎が誰かに貸してた数学の本があって、その持ち主の家が空襲で焼けてしまったんだけど、その人に対して志村五郎は「本を弁償しろ!」だとかなんだとか、「どうやって返すんだ?」みたいなことを言っただとかね、丸山真男の家で政治論を話していたときにね、なんかの本の内容を丸まるあたかも自分が考えたかのように丸山に語ってさ、んで「それは何々の本に書いてあったことですね」って言われて赤っ恥をかいたとかね、志村の丸山批判もこの恨みがあってのことなんじゃないか?とか勝手に思っちゃうんだけど、足立さんの一連のツイートを見てると強ち噓じゃなさそうだなっつーかconsistancyがあるから多分本当なんだろうなって思っちゃうよね。


あと高木貞治に関して言えば「老害だからとっとと引退したほうがいい」とかって志村が言ってたっつーのをこれまたどっかで見たな。で、そこで俺は「高木貞治ってそんなにどうしようもないやつだったのか!」って思ったんだけど、志村五郎がどうしようもないやつなんで全然それは信用できないなと思って。人格破綻者の主観なんてあてにならないからね。


天才タイプで人格破綻者で言うとヴェイユが思いつくけど志村五郎は度が過ぎているよね。彼らの才能は凄いと思うけど人格的にクソ過ぎてさっぱり羨ましくないんだよね。人間としての徳が無さ過ぎるっつーか、数学の能力っつーパラメーターに値が行き過ぎているのか分からんけどさ、なんかすげーイヤなんだよね。学問的な成果と人徳とかって関係性はないにしてもやっぱここまで破綻してるとガッカリするよね。あとノイマンなんかも相当ダメなやつだよね。さっぱり羨ましくない天才の一人だよね。なんでこうもバランスが悪いのか。アンバランスだからこそ天才でいられるってタイプもいるかもしれないね。それで言うとニュートンが思いつくな。偉人扱いされてるけど相当なサイコっつーか人間的に本当にクズなんだよね。ニュートンチャイティンニュートンのクソっぷりが学術的に検証されている本としてこれをあげていたけど読もうと思って読んでないんだよねぇ。



いや、でも足立さん凄いな!と思って。所謂業界にいる人でここまではっきりとイニシャルとかじゃなくて書くって凄いよなぁーと思って関心してしまったんだよね。権力に迎合しないっつーかなんつーかさ、こういう人が日本の大学にもいるんだーとか思ったら結構気が晴れる気がしたよね。科学ってなんか人格とかって関係無い気がするじゃん?でもそれって盲点だと思うんだよねぇ。人徳の欠如とかがさ、科学による暴走を生んだりもするわけじゃん?だからこれってまぁすげー重要なことだと思うんだよね。



この本で物理学者のほうの人がさ、すげー憧れを持って一流が集まる学会に行ったら、それこそ超有名な科学者とか物理学者が人間的にはクソみたいなやつばっかですんげー失望したみたいなことを言ってたんだけどさ、なんかすげーシンパシー覚えるんだよね。まぁ別に科学とか数学に限らず学問全般そうなのかもしれないけどさ、特に俺がムカつくのは社会科学とか哲学の分野だよね。


平等だの民主主義だのって語ってるくせに本人はすげーsmall personみたいなさ、それってどうなのかな?って思うんだよね。言論も学問も人格と切り離し過ぎるのはどうかと思うんだよね。まぁ学術的な結果は内容で判断されるべきでその人の人格とか関係ないんだけどさ、でもそういう人が業界に居て権力を持つだとかさ、みんなから恐れられるとかさ、それこそ俺みたいなやつが学部にいたら「お前なんて才能ないからとっととやめろよ」とかって平気で言ったりさ、そういう人が学術的な業績だけで教育者として大学にいることの問題性だよね。研究者ならいいけど先生だったらやっぱそれはマズいと思うんだよね。特に哲学なんてその人の徳がなくて何を教えられるんだ?って感じじゃん?


なんかこれって俺がいつも思う秀才の問題なんだよなぁー。すげー頭良いやつってどこかで人格破綻してるっつーかさ、無駄にプライドが高いとかさ、悪い意味で人を見下してるとかさ、挫折とか経験してないから人間的な深みとかないしさ、そういう秀才が評価する生徒ってのは似たような秀才だからさ、人材育成が偏ったり滞る可能性もあるよね。


あとはすげー問題なのがさ、そのただ学術的な偉大さだけで自伝書けちゃうっていうことだよね。学者としては全然お手本にならない人間なわけで、そこで足立さんが「『記憶の切り絵図』は若い人には読んでほしくない本である。」って言ってるのが凄く示唆的だなと思ったわけね。こういうことを言える人はエライじゃん?みんなが「先生!」っていう人に対して数学者としては凄いけど人間としてはどうかと思うっていうことを率直に言っているってのがさ、普通は特にああいう業界じゃみんな言わなそうじゃん?そこを言ってるってのが凄いっていうか偉いよね。それは教育者として偉いってことだよね。って思ってたんだけど、どうやら退職をして言いたいことがようやく言えるようになったらしい。


ってことでした。


で、このエントリーに対してそれからさんコメントをいただいたので、以下が続きです。

それから 2012/08/18 11:25


志村さんの本をよんでも、ここで語られるような印象はもたなかった。数学でなくてもプロの研究者には志村さんの本は読んでもらいたいと思う。その結果、どのような印象をもつかは読者の判断であると思う。日本語version でなく、英文で書かれたものも一部はweb で見つかるので、それらも一読されるといいと思う。


で、それに対する俺の返信。

mimisemi 2012/08/18 15:43 



どのような印象を持つかは読者の判断であるのは当然ですよね。その上で足立先生は志村五郎の本を批判しているわけです。あと志村五郎に限らず僕は日本のああいった村社会的な体質が大嫌いなんです。大先生を崇める感じとか日本特有ですよね。ああいう体質が残っているから日本のアカデミアはダメなんだと思います。そういう本の内容以外のことも含めて足立先生は批判されているわけです。それは一連のツイートを見れば明らかですよね。



それは足立先生のツイートを鵜呑みにするということではなく、僕自身が似たような話を読んだり聞いたりしているから「ああそんな感じなんだろうな」と察しがつくわけですね。日本のアカデミアの権威主義はどうにかならないものか?って心の底から思いますね。あと志村五郎本人で言うとアメリカでも恐れられているそうで、ようは僕の印象としてはただの偉そうなジジイって感じなんですよね。良い仕事をしているのは確かなんですが、人間性の部分がグズグズなので非常に残念な人だなって思うんですね。それはここのエントリーでも書いてますけどね。


なので本がどうこうという話ではないですし、しつこいようですが印象が読者に依存するのは当然です。それを言い出したら何も意見が言えなくなります。でもせっかく書き込みをいただいたのでこれを機に読んでみようと思っています。「鳥のように」も読んでみようと思いました。 



で、それからさんからのお返事。

それから 2012/08/20 18:24


mimisemiさん、わたしのコメントに返事を頂きましてありがとうございます。少しだけ書かせてください。断っておきますが、私は数学の研究者ではありません。志村さんに対する足立さんの批判の中で「志村さんは問題を解くタイプの数学者である」と述べていますが、「切絵」の中では「私(志村さん)は有名な問題を解くタイプの数学者でないので、自分の仕事が長い間評価されなかった。」ということが書いてあります。あと、丸山さんへの評価(批判)は、もともと批判をかくつもりはなかったが、丸山さんが先に、志村さんを批判する文章を書いたので、このような文章(批判が大分でするが、そうでない部分もあります)を書く権利が生じ、実際なにが起こったかを書いたと述べてあります。丸山さんへの批判の確信は、「朝鮮戦争北朝鮮が開始したことを認めようとしなかった」ことにあると思います。それ以外は「小さなこと」であると思います。


あと、死んだ人への批判があるのはけしからんと、足立さんがいっていますが、「ヘッケに死後の恥をかかせようとという意図は全くなかったことを読者に保証する」と論文中に書いたことがそれほどひどいとはおもわれません。志村さんは、研究をせずに偉いぶっている人が極めて嫌いであったのは確かですね。そのいみでは、年をとっているだけの元研究者には批判的であったと思います。IBM の広報誌に「∞」というのがありました。そのNo.78,昭和63 年、夏号に「少年は大志を抱いたか」という大変長い(29ページ程度)エッセイを志村さんは書いています。これも示唆に富むものと、私は評価しています。


で、また俺の返信。

mimisemi 2012/08/21 16:38


今日、切り絵と鳥のようにが届きました。で、鳥のようにが先に届いたので半分位読んで、切り絵をそれから読んで現在半分位読みました。ちゃんと全部読んでからエントリーを書こうと思っていますが、取り急ぎ返信をしたかったので色々と書かせてもらいますと、正直なところ、ほぼすべての批判の辛辣さに妥当性があり、自分と比較するのはおこがましいのですが、批判の部分に関してはそれこそ普段僕がここで辛辣に色々と批判しているようなもんなんだなって思いました。ようは悪口ではなく「本当のことを辛辣に言う」という感じでしょうか。それで言えば僕のほうがよっぽど辛辣ですね(笑)


志村五郎のダメ教授やダメ人間への批判などは「ああそうなんだろうなー」というか、僕が普段から批判しているダメ教授などへの批判と同じもので、むしろシンパシーすら覚えました。あと「人格を疑う」とされている部分はそれからさんもおっしゃっているような誤読と言いますか、実際の切り絵を読んでみると些細なことなんですが、そこを見逃すとえらい誤解が生じるというようなことが多いですね。


僕がここで書いた志村五郎が知人に本を貸していてそれが空襲で焼けてしまってその知人を恫喝したみたいなことなんですが、実際はかなり違いますね・・・というか違いに閉口してしまったぐらいで、僕が勘違いしていた部分や誤解の部分はちゃんとまとめて書かないとダメだなと思いました。この知人に貸した当時の割にはマシだった教科書は当時はお金が仮にあっても買うような本が無い中で割と良い部類の本であったので凄く大事にしていたということなんですよね。


なのでそれを知人に貸して空襲で焼けてしまった時に「そんな大事なものを持って逃げないとは何事だ!」と思ったぐらいであったが、そんなことを言うわけにもいかないし、なにしろそんな自分にとって貴重なものを人に貸してしまったのが失敗であったというようなことだったみたいですね。それを言ったのと思ったのとでは雲泥の差があるし、この「思った」というのもそう思って殴り掛かってやろうかと思ったという類いのものではなく、そういう考えがよぎるぐらい自分にとっては大事な本だったということですよね。


正直、凄いマズいことをしたと思っています。まさかここまでの違いがあるとは思っていなかったので・・・。それからさんに指摘されなければこの本を読むこともなかったでしょうし、誤解も生じたまま、このエントリーもそのままにしておいたでしょう。


アマゾンのレビューにもあるような「鼻につく辛辣さ」というのは凡人が頭が良さ過ぎる人の意見や文章を読んだときに鼻につくというような類いのものなんだなというのは本を読んでいて感じたことです。ある意味、志村先生は凄く天然な人でものをはっきりと言う人なので、他人にどう思われようが関係ないという感じなんでしょうね。それが誤解を生じさせる原因でもあるわけですが、でもその原因は志村先生にあるわけではなく、誤解や誤読をする読者の側にあるわけで、志村先生を責めることはできないわけですよね。


特に教えるメリットが無い射影幾何学の講義を細かく永遠とやり続けるダメ教授の講義に唖然とした・・・とかいうのも凄くシンパシーを感じる部分でした。これって僕が感じている大学の授業の大半はろくでもない教師によるどうでもいい講義というのと同じことですし、そんなものに時間を割いているのは無駄なので、数学は自分で考え自分でやっていたという意味で大学への皮肉も含めて「いかに学ばなかったか」なんですよね。レベルは雲泥の差ですが、僕が通っていたニューヨークのコミュニティカレッジで「いかに学ばなかったか」と全く同じことです(笑)ちなみにそこそこの大学でも学問を自分でできる人にとっては「いかに学ばなかったか現象」というのが必ず起こると思っています。


小室直樹先生も大学なんて3日で終わることを永遠と1年とかかけてやっているとかって言っていましたが、ようは頭が良さ過ぎる人たちの共通認識という感じですね。僕もレベルは違えど少なくともそのへんのボンクラよりは良い頭脳を持っているので、その共通認識を感じています。


あと志村先生が問題を解くタイプの数学者ではないのは明確ですね。志村先生は最初に数学にであったときにこれは創造の学なんだって思ったわけですし、その後も数学は基礎的なところさえ押さえておけば後は自分でやるのが一番だというか、知行合一的なやり方をその合理性によって貫いていたというのも凄く本を読んで感じたことです。論理や道理よりも感覚のほうがよっぽど大事だということも書いていますが、ようは志村先生はポアンカレ型の超直感型の天才数学者タイプなわけですよね。


そんな感じで「志村五郎」という呼び捨てから「志村先生」に変わったわけですが(笑)足立さんの一連のツイートと見比べつつ読後の感想をエントリーにすると思うので、そのときはそれを是非読んでください。ただ足立さんの志村先生の取り巻きに関する批判とかは基本的に志村先生が本書で批判している程度の低い数学者や学者への批判と基本的には同等ですよね。読んでて痛快なぐらいです。学者に無知なバカが多いというのは志村先生も足立先生もお感じになっているところかと思います。


ヒルベルトを罵っているとされているあたりはまだ読んでいないのですが、少なくとも鳥のようにで語られているようなジグムント的な感じなんだろうなぁーって予想がつきます。実際、ヒルベルトが権威的なのもジグムントのように色々なものをオーガナイズしたという意味での権威だと僕個人は思うので、ヒルベルトがfirst class mathematicianではなかったのは明確なんですよね。まぁfirst classをガウスオイラーガロアやアーベルやリーマンとした場合ですけどね。まぁそりゃその辺の連中よりかはよっぽど凄い人ではあるけど、今名前を挙げた人たちに比べれば全然たいしたことないというのは少なくとも僕にとっては明白です。


あ、あんまりまた色々と書くのはやめますね(笑)まず読んでからにします。あと「少年は大志を抱いたか」は是非読んでみたいのでなんとか探して読んでみます。


というわけで本を読んでニューヨークからの帰国が決まった時のように態度が急変した俺がこれの続きを書くわけだ。ようは志村五郎の本を両方読んだからねっていうかほぼ読んだんでもう書けると思うのでっていうか早く書きたいので書くんだけどね、まず何からはじめようかな。足立先生のツイートからいくか。

話だけなら文章になっていないので文句の言いようもないが、志村さんの著書『記憶の切り絵図』は公刊された書物なので、証拠のない陰口ではない。


志村さんの書いていることは二度読みたくないほど誹謗中傷、独善に満ちているが、中でも許されないのは、死者を鞭打っていることであり、それも何の根拠も示さずにやっていることである。


(その1)多くの人が自分にアイデアを負いながら、そのことを論文に記していないと実名を挙げながら非難している。実際はどうなのか? 他のことと照らし合わせると極めて怪しい。数学界はそんなに恩知らずに満ちているとは思えない。


(その2)高木貞治に2度しか会っていない、それも遠くから話し声を聞いたことがあるだけだと書きながら、「高木貞治は下らぬ小人である。」、「自分は士である。」と何度も書いているが、根拠が何も記されていない。


(その3)ヘッケという(志村さんよりはずっと偉い)歴史的大数学者がいるが、ヘッケにはできなかったことを自分がやったというだけのことで「ヘッケに死に恥をかかせてやった」と書いているが、死に恥とは何だ!


(その4)志村さんが数学は問題解きの学問だと心得ているのは結構だが、ヒルベルトについて「趣味も悪く、程度も低く、人の目をつまらない方向にむけさせるという意味で反動的であった」と断じている。あまりに偏狭な数学観を振りかざすのは他に対する影響を考えない行動だ。


(その5)「マッカーサーは小人以下であった」と書いているが、当否はともかくとして、何の根拠も示していないで、こういうことを書くのは、いくら数学者であってプロの文章家ではないとは言え許されることではない。


その1に関しては確かにその通りだけど、でもそれを言い出すとどうにもならないと「記憶の切り絵図」を読んで思ったわけだ。ようは志村五郎がエピソードとして語っていることで、例えばそれを言い出すと志村五郎本人の回想にもそれがすべて言えることになってしまう。ようは何の証拠も無い思い出を永遠と語っているということになっちゃうんだよね。でも自伝ってのはそういうもんじゃん?証拠云々ではなく「誰かに自分の仕事をパクられた」っていうエピソードがあるなら証拠を示してそれを書くというよりかは「パクられました」としか書きようがないでしょ?


そのパクられ系のエピソードについてちょっと書くと実名が挙げられた数学者達の名前はまぁ本書よ読む醍醐味でもあるのでここで挙げるのは避けるとして、名の通っているそこそこの数学者達が知的に不誠実なことをやっていたということの言わば暴露なんだよね。例えばある高名な数学者とセミナーだかなんだかで会ったときに部屋に呼び出されたんだがなんだか、とりあえず数学の質問を受けたそうなんだよね。で、それについて色々と説明したらその数学者は何も言わずに志村五郎が言っていることをメモっている。


で、後になって志村五郎の名前を出さずにそれをあたかも自分が発見したかのように論文を出した的なことがいくつかあるんだよね。そういう「がっかりした」系のエピソードが満載で非難というよりかはただの「そういう事実」にしか過ぎないという印象を得たね。ようは志村五郎本人はカンカンなのではなく「よくもまぁこんなことをするもんだな」という感じなんだよね。で、ようは俺が前に志村五郎本人を批判していたような、学術的なものと人間的なもののバランスがとれていないっていうね、今は完全に意見が変わったけど、ようは志村五郎本人は色々とそういう経験をしてきた人間で、その例として著名な数学者のパクりエピソードを述べているわけだ。


でもこんなことぐらい普通にあるだろうなぁーという気がしなくもないレベルなんだよね。いや、超卑近な例で言うとですね、ウォール伝に書いてあったことをそのままあたかも自分の意見のように言うって人がいたとしてっていうかいたんだよね。会うと俺のブログの内容をそのまま俺に対して言うんだよね。志村五郎風に書けば「吹き出しそうになるのを我慢するのが大変だった」ということになるかな(笑)誰でもいいんだけど本で読んだことをそのまま自分の意見のように言うという人はいるじゃん?で、まだpublishされていない内容のものを聞いた情報を元に自分が発見したかのように書くなんてことは普通にあるだろうし、一説によればペレルマンはそういうのが嫌になって隠居したということもあるぐらいっつーのは中国人の数学者グループに結果を横取りされそうになったんだとか。まぁあくまで噂にしか過ぎないけどね。


でもそもそも学者の大半はそういうやつらだと俺は思っているし、知的に誠実な人なんて限られていると思うわけだ。ましてや数学なんて業績の世界だからさ、自分の論文を書くためには手段を問わないっていうね、そういうマキャベリアンが高名な数学者にいても別におかしくは無いと思うわけね。まぁ俺は「えー!そうなんだぁー!」って驚いたけどね。かなり有名な人たちだったので。でも言わばこれは暴露なのよ。「こいつはゴミ以下である」みたいなことは一切書いてない。ただこういうことがあって呆れましたってことが書いてあるだけだ。


むしろ足立先生が言う「数学界はそんな恩知らずに満ちていると思えない」と言う意見のほうがナイーヴな気がする。俺は絶対そんなわけないと思ってるし、学者風情はどうしようもない連中の掃き溜めだし、それこそ学問が無ければゴミ以下みたいな人間が大量にいるわけじゃん?そういう中に志村五郎も入っていたわけだけど、まぁ今は本を読んでこの人はそうではなかったっつーかマズい勘違いをしていたなという反省をしていて、だからまずこれを書かなきゃいけないなぁーと思ってあたふたしてたわけですよ。そんなにこのブログが読まれてなくてもああいう誤った情報や極端な解釈を元に書いてしまったのは相当マズかったわけで。なので今は実際読んだらかなり印象が違いましたということを書いているわけね。


その2の高木貞治のエピソードに関しては小人とされる根拠がモロにある。ってのは志村五郎とか他の若手数学者が当時80歳だった高木貞治の家にいった時に、もう耳が遠くなって付き添いの女性を介して話をしたらしいんだけど、とりあえずまぁ話題が無いのでっていうかとりあえず喋ってみようかな?っていう感じで高木貞治が昔書いていた「過渡期の数学」だかなんだか、とりあえずその頃は数学が過渡期であった的なエッセイがあったんでっていうか確か高木貞治の「数学の自由性」に入ってたと思うけど、それを志村五郎は「それはどういう意味なのでしょうか?」ということを女性を介して聞いたらいきなり血相を変えて怒鳴ったそうなんだよね。


で、何を言ったかは分からないけど、とりあえず怒鳴っていて、まぁそのスケールの小ささに失望したということが書いてあってさ、まぁこれは十分な根拠だと思うんだよね。確かに二回しか会ってないけど何ともない質問しただけでこんな怒鳴り方をされたら「クズだなぁー」と思うのは普通だと思うわけで、格別志村五郎の見方が辛辣だとは思えない。あとはまぁ他にも高木貞治類体論の仕事をした後にはたいした論文も書いていなくて、数学界の重鎮としてえらそうに日本の数学界に老害として君臨していた的なことを志村五郎が言っていたみたいな話があるけど、これを言っていたときにすでにプリンストンポアンカレ研究所だったか忘れたけど、ヴェイユとマブタチみたいになってディナーの席なんかで数学の話をしていたっていうそういうレベルの人から見たら高木貞治なんてただの過去の人と見えるのも致し方ないと思うわけ。


高木貞治自身の人格がどうだったかは知る由もないけど、ただ80歳になって耄碌していたというのはあるだろうね。だから中年の頃とかは分からないわけじゃん?あと80歳になった当時は近親者からも嫌われていたらしいんだよね。それだけで小人と決めつけるのはあれだけど、ただたいしたことをしてないくせに偉そうにしているところとか、それプラスこの怒鳴られたエピソードもあって相当印象が悪かったというのは理解できるところでしょう。ようは志村五郎が一番軽蔑するタイプの学者ということになるんだよね。あと俺も前から書いてたけど高木貞治の本で良い本なんて一冊もないわけよ。解析概論然り代数系の本然り、当時はそれを日本語で読めたからありがたかったのは分かるけども、良書がいっぱいある現在でも「高木先生の格調高い本」なんて評価されてるのはどうかと思うわけよ。


それこそ英語が読めれば洋書で良書なんて腐るほどあるわけだ。悪く言えばこれも前から書いてたことだけど数学書の和書はゴミみたいな本が多いわけだ。あととても読者に伝えようと思ってるとは思えないような不親切な本が多いわけね。あと評価されている割に酷い本として伊藤清の確率論があるね。ありゃ本当に酷いよ。ありがたかったのは当時だけだろうっていうさ、なんであんなもんが5000円だかしてさ、しかも今の若い人もありがたがって読んでるのかさっぱり分からないわけで。別にこれは志村五郎云々の話ではなく、俺が前から書いている和書の数学書のレベルの低さの話なので、まぁようは前から書いていることの繰り返しね。これはかなり前から書いてたよね。


俺も権威主義的なのが大嫌いだから、大先生の本がありがたがって読まれているみたいな状況がめちゃめちゃファックだと思うわけで。代数と言えばマックレーンのAlgebraが俺には合ったね。まぁブルバキ後に読んでるんでスラスラ読めたと思うんだけど、ようは圏論的に代数が定義されていて、そういう思考回路を持っている人には凄まじくフィットする本なわけだ。いや、他にもいっぱいあると思うんだよね。洋書なら。


あとその3に関して言えば数学者に偉さなんて無いわけだ。それは仕事の凄さではかられるべきで「志村五郎より全然偉い」という言い方はそれこそ権威主義的な言い方でしかない。ヒルベルトとかそういう系の人を偉大な数学者と見るイデオロギーだよね。それは哲学者然り。「ヘーゲルによれば・・・」って言えば誰も何も言えなくなる的な権威だよね。あ、んでこのヘッケの話で言うと、ヘッケが対して重要ではないと思っていたことが実はヘッケが目標としていたような整数論の問題に非常に重要なことだったというのを志村五郎が示したということなのね。


で、「ヘッケに死後の恥をかかせようという意図は全くなかったことを読者に保証する」とジョーク的に書いたらしいんだよね。まぁそれが人によっては偉そうに見えるんだろう。まぁただ本の後では「死に恥をかかせたわけであるが」と書いてあるので、死に恥とは何だ!という足立先生の意見はごもっともだと思う。ただ俺が思っていたより悪意に満ちたものではないなという印象があるね。実際、その事実と理論を志村五郎自身が完成させたときに「ヘッケが生きてたらなぁー」とかって思ったのは事実なんだそうだ。


なんだろうな。吉本隆明が亡くなった後に宮台真司がラジオで吉本隆明ポストモダン系の思想家達が非常に敏感に考えていたようなことに対して非常に鈍感であったというようなことを言っていてさ、まぁ実際そうなんだよね。コムデギャルソン論争とかの話になるわけだけど、ようは「まぁー別に社会が良くなって若い女の子達が高いブランドものの服を買えるようになっていいじゃん」的な言い方に対してあまりにも素朴で鈍感過ぎるっていう批判をしていたんだよねっていうか別に今批判しているわけではなくて宮台さんは当時からそう思っていたんだろうけど。


ようは俺も普段書いているようなことなんだけどね、いや、もう何もないじゃないか!っていうそれは大きな物語の崩壊でもいいし、生きる意味や原理の不在というよりかは元々無かったんだけど、色々なものが進歩してきて余裕が出てきたんでその虚構が露になったっていうね、フランスでは60年代ぐらいからもうすでにそういう風潮があって、そんな流れで5月革命が起こったっていう見方もあるぐらいなんだけど、こういう「虚構」というか「虚無」に対するセンスが全然なかったってことを言ってたわけね。実際まぁそうでしょうというよりかは俺は吉本隆明は思想家としては見てないんだよね。あくまで評論家という感じだからね。まぁなんつーかこの鈍感さは別に吉本隆明に関わらずナイーヴな左翼全般に言えることでさ、権力にやたら抗うっつっても何が社会とか社会のイメージとか生きる原理とか生きる形みたいなのを生み出しているのか?っていうとそれは結局はシステムだっていうね、まぁ凄く話を広げてしまうとこれはアルチュセールイデオロギー論だとか、苫米地さんが書いているような「洗脳」の話と同じなんだよね。


だから別に権力に抗っても原理とか根拠の不在はどうにもならないし、だからこそ主体が自律しないといけない的なまぁオートノミーじゃないけどさ、まぁでもネグリとか難解な割に全然たいしたこと言ってないんだけど、まぁともかくだな、話を戻すとそういった問題に関して非常に鈍感だったというわけだ。で、こういう批判を吉本隆明の死後にしたらでは死者に鞭を打つということになるのか?って話なんだよね。みんな「彼は偉大な思想家であった」と言わなきゃいけないのか?ってことじゃん?死者はなんでもかんでも英雄として奉られるってことに対して批判をしてたのはニーチェだけどさ、まぁようは哲学者達が権威化するのも彼らがとっくの昔に死んでいるからってのはあるよね。仮にブロガーとか一般人が哲学者達と同じことを言っていても「何言っちゃってんの?」ってことになるわけだ。そのへんの悲しさに関しては本田透が著書で色々と書いてるよね。


まぁそういうことなのよ。だから死者に鞭を打っているという感じはしなくて、ようは「こうだった」ということを言っているだけに過ぎないんだよね。墓をほじくり返して「こいつは本当に愚かなやつだったのだ!」って言ってるのかと思ったら全然そんなことない。ようはその例として宮台さんの話を出したわけよ。ようは批判と言ってもそういう妥当なレベルのものであってけしからん!というような印象は一切受けないんだよね。残念なことに妥当な批判であると言えるほどの数学的知識が今の俺には無いから詳細についての言及は避けるけどね。


「あいつは小人以下であった」と自伝に書くことに根拠なんていらないと思うんだよね。それで言えばウォール伝なんて全部根拠ないじゃん(笑)いや、別に比べているわけではなくて、誰かを批判したり小人だ的な言い方をするときに根拠なんていらないでしょってことなんだよ。だってそれはその人が思っていることなんだからさ、別にそれを書くことがいけないことなのか?って俺はそうは思わないよね。それがその人の印象だったわけでさ、んでもそれは本を読んでて分かることじゃん?この人はこう思っているけど実際は分からないなって思う人もいれば「ひでぇーやつだな」って思う人もいるかもしれないわけでさ、あとまぁマッカーサーが小人以下だったなんてのは考える余地も無いぐらい明白だよね。あんなのただのアメリカの田舎もんだもんね。いや、こういうことを言っちゃいけないのか?って話なのよ。別にブログだろうが著書だろうかそういうのって関係ないんじゃないの?っていう。いや、足立先生が相当ご立腹なんでさ、相当酷く書かれてるのかって思ってたんだけど、全編に渡って全然そんなこと無いんだよね。


あとまぁ衆人に対する意見はまぁこれも言うまでもないっつーかそれは俺が普段ここで言っている俗人批判となんら変わりないですよ。別に普通よりちょっとぐらい頭が良ければ大半の人は愚かに見えるわけで、そんなもんいろんな本を読んでいても明白なわけじゃん?ギフテッドの類だってそういう理由から孤立してしまうというのが実際にケースとして出されてるわけで。まぁ俺は色々と本を読んでるからそれはエビデンスありますよ。まぁ俺の場合はあれだよね、俺はこう思うんだけど・・・っていうことに対しての調査をするって感じだよね。別にいかに衆人が愚かであるかっていうのを示すわけではなくて、ギフテッドについて調べるとか、大衆について書かれたものについて読むとかってことで、まぁ同じような孤独に陥っている人たちとかパンピーに対して劣悪だって思ってる人たちってのが古今東西いるんだなっていうそういう明らかな事実を知るだけなんだよね。


ちなみにさっき名前が出た宮台さんなんかは昔からパンピー批判してるよね。まぁあの人もありえないぐらい頭が良いからそんな風に見えるのは当たり前だよね。批判というよりかは滑稽にしか見えないわけよ。志村五郎然り。彼にとっては他のただえらそうにしてるだけの日本の大学教授とかがなんで威張れるのか分からないって素で思うぐらいたいしたことなく見えちゃうわけじゃん?で、その根拠はなんだ?って言われるとまぁ俺は志村五郎の仕事に精通しているわけじゃないからなんとも癒えないけど、とりあえず同僚がヴェイユだったりさ、言わばそういうレベルの人たちと対等に語り合って同じ水準の仕事をしてきてたし今もそれは変わらないってことじゃん?アインシュタインに薫陶を受けた!とかではなくアインシュタインと具体的に物理の話をしていたっていうそういうレベルの人なわけで、まぁマブダチだったかはともかくとしてまぁ物理学者で言えば湯川博士とかっていうまぁそういうレベルの人だってことだよね。


あとはまぁこういう人がいてまぁろくでもない感じだった・・・というのをそのときの印象だけで語っているってのはまぁ足立先生が言うようにそうだと思うね。「え?彼らのことについてそう言ってるわけ?いや、全然そんなことないよ!」ってまぁ知り合いが本の中で罵られてたらそりゃ不快な思いをするだろうなと。ただまぁ誹謗中傷に満ちているという感じはしないよね。まぁあくまでイニシャルだし、実名を出しているところはちゃんとしたエピソードがある人たちなんで最低限の配慮は当然あるわけだっつーかそんな根拠の無い誹謗中傷に満ちた本を筑摩書房が出すわけないよね。ただまぁ本を読んだ感じだと志村五郎は教祖ぶってるような人間が大嫌いで、自分が教祖なんだって言ってるとはとても思えないわけね。


仕事の内容と知的誠実さとか人間の器の大きさってのを兼ね備えている人を君子だって呼んでいて、まぁそういう人もいるけど大半は小人ばっかりだって言ってるけどそれはそうでしょう。なにしろ君子なんて滅多にいないわけだから!ただまぁそういうのを書かれるとムカつく人が多いのは事実だよね。「鼻につくなぁー」って思う人はいるだろう。でも本人からしてみたらそうとしか見えないのでそれはしょうがないと思うんだよね。


ちなみにそれからさんへの返信にも書いたけど足立先生の志村信者批判っつーかああいう学会系のレベルの低い衆愚性批判みたいなのはむしろ志村五郎と同等の小人批判だと思うのね。志村五郎の言葉を使えば足立先生のツイートに出てきている志村信者達は小人になるわけで、まぁーそうだろうなぁーって感じじゃん?そんなやつばっかなんだから。でも数学の世界では卑しい争いごとみたいなのは滅多に無いというのは実際そうなんだろうね。でも元々文系の俺に言わせれば文系が地獄のように酷いからだよね。そのコントラストとして数学の世界はマシに見えるわけだ。でも基本的に学者風情は志が低い連中ばかりというのは志村五郎の言う通りだと思う。


特に近年の数学の先生方が書いたやる気のないやっつけ仕事みたいなテキストとか見ると本当にレベル低いなぁーって思っちゃうよね。まず日本の数学業界でやっていこうって思わないもんね。で、まぁ学生も志が低いやつらが多いのは今も昔も変わらないけど、昔よりも今の方が酷いわけですよね。それはまぁ明らかですよね。だから別にこういうことに関しても格別志村五郎が辛辣なことを書いてるとは思えないっていう印象しかありませんよね。読んでてまぁ頭が良さ過ぎる人だから世界がこんな風に見えちゃうんだろうなぁーっていうそういう印象しか受けないよね。なんかでも著名な数学者とかでもハッタリかましたりとかまぁーそりゃー人間だからあるんだろうなぁーとは思いつつさ、著名だからといって人間性hが優れているとは限らないっていうのはまさしく俺が志村五郎に対して誤解していたことなんだけどさ、まぁ別にそれは著名な人たち全員に言えることだよね。


それで言うとまぁ実際に対談したという人のブログでさ、あ、茂木健一郎と対談した時にまぁ酷い態度であんな人だったのか!と失望したみたいなことが書いてあったんだけどさ、まぁそういうことじゃん?それで茂木健一郎が本当にダメかは分からないけど過剰なメディアへの露出とかくだない本をいっぱい出しているからなんかペンローズと一緒に映っている写真を見てもファンが「一緒にいいですか?」って撮ったような写真にしか見えなくなるんだよね。まぁでもそれだけで決めちゃいけないんだけどまぁ印象ってそういうもんじゃん?で、まぁ足立先生の意見を掬うなら志村五郎は限られた印象でしかその人の評価をしないってことになるよね。でもそれは分かるけど俺もようは茂木健一郎に関してそう思ってるわけでさ、まぁ普通そんなもんじゃないの?って思うんだよね。なんか感じ悪いことがあればそれが印象になっちゃうじゃん?良いところもあるかもしれないけどそういうところを見る前にもう嫌な印象でその人の全体がそう見えちゃうっていう。


あと志村五郎の話に戻るけど自信過剰なところがあって他人を卑下する傾向があるけど、でもその自信に根拠があっちゃうからなんとも言えないよね。凡人と非凡人の区別が分かるのは非凡人しかいないっていう逆説的なことがあるわけで。それで言えばヴェイユもそんなタイプの数学者だったわけじゃん?昔は大嫌いだったけどブルバキ以降見方が変わって、んですげー良い仕事してた人なんだなって思ってさ、まぁあと自伝とかも読んでもとにかく頭が良過ぎてしょうがないって感じの印象しか受けなくてさ、そういうもの同士が付き合ってたってすげーmake senseなんだよね。あ、ようは志村五郎とヴェイユとの長い付き合いね。別にでもじゃれ合ってる感じじゃなくて才能あるもの同士が仕事上の関係で付き合ってたって感じだとは思うけどね。親友という印象は受けないよね。それこそアインシュタインゲーデルみたいなああいう温かい印象は受けないんだけど。


まぁとにかく凡人が口を出せないような世界の話なわけですよ(笑)ヴェイユが嫌味を言ったところであんな人だからまぁしょうがないってなっちゃうよね。それが志村五郎にも言える。まぁ辛辣なことを言うけど本人が実際凄いからまぁしょうがないっていうさ、最悪なのが偉そうにしてる割にたいしたことない連中ってことなわけじゃん?で、その筆頭が志村五郎にとっては高木貞治みたいな人だったんでしょう。多分、評価がヴェイユほどじゃないんだよね。ヴェイユの嫌みな感じとか辛辣さはその偉大さでまぁしゃーないなーってなるけど志村五郎に対してそうはならないのはそういうレベルに見られてないからでしょう。


でもまぁ少なくとも俺はそういうレベルの人なんだなってのが凄く分かったわけでさ、だからヴェイユと同等の「しゃーないな」って感じを受けるんだよね。かといっても別に何を言ってもいいってことじゃなくて「何様だ!」って言えなきゃいけないし、それは足立先生のおっしゃる通りなんだよね。言いたい放題言える中で信者が「先生相変わらずですねぇー」なんて太鼓持ちをしてたりするから余計に本人がつけあがるっていう悪循環は絶対あるでしょう。でもそれは芸人とかミュージシャンとかも同じだよね。特に芸人系だと師匠クラスの人間だよね。さんまとかタモリとかたけしレベルが権威になるのは分かるけど、吉本新喜劇みたいなレベルでの師匠って全然師匠じゃないじゃん?ただ芸歴が長いってだけでおもしろくもなんともないようなのがたら偉そうにしているっていう感じだよね。


ちなみにさんまとかタモリとかたけしは偉そうにはしてないよね。でも実力が無い師匠クラスの人間ほど偉そうにしているという印象があるよね。松っちゃんはビジュアルバムの「都・・・」っていうコントでそれを痛烈にカリカチュアライズしてたよね。でも最近のファンの意見だとそういう師匠側に行ってない?ってのがあるよね。まぁ映画とか見る限りそれは分からなくもないよね。あとMHKも散々だったし。


まぁ話を戻すとだな、そういうわけで足立先生の読解がかなり批判的ではあるにせよ、まぁそういう意見は分からなくもないなっていう感じだよね。で、俺としてはさっきも書いたけど相当辛辣なことが書いてあるんだろうなぁーと思ってたら妥当なことしか書いてなくて肩すかしを食らったし、むしろ自伝としてめちゃめちゃ面白かったので書き込みをくれたそれからさんに凄まじく感謝しているんだよね。で、特に俺が個人的に最近は完全に代数に開眼して、そこから数論にも行きつつあって、方向的にヴェイユとか志村五郎がやってたような仕事とリンクしてきてるからタイミング的にもバッチリだったんだよね。引き寄せの法則かしら?


まぁ大体内容は分かってるけどとりあえずヴェイユのBasic Number TheoryとNumber Theory: An Approach Through History from Hammurapi to Legendreを読んでみようかなって感じになってるよね。ちなみにデュドネが代数/微分トポロジーのこれまた歴史の流れを追いつつ理論を解説していくって本があってこれは購入済みなんだけど積読になっている感じだね。まぁとりあえずあとで貼っておくわ。あといつも言うようだけどアフィリエイトって「やったほうがマシなのかな?」と思ってはじめたんだけど面白い位売り上げがなくて全然意味ないなぁーと思ってるんだけどさ(笑)


でも半年前に1500円分のアマゾンのクーポンをもらえたんでまぁケチな話だけど相変わらず「やらないよりかはマシ」になってるんだけど、ただまぁこんな本をましてやこんなブログ経由で買う人なんていないだろうから意味ないんだけど、そこは別に買う買わないじゃなくてちゃんとした言及した書籍のデータとしてアフィリエイトで載せておくってだけなのね。で、全然儲かってないんでただ貼付けてるってだけなんですよ。あと今は店の手伝いとかして若干小遣いとかもあがってるんでそんなに金には困ってないわけね。


まぁそんな感じかな。まぁ別に俺が勘違いしてたことが完全に勘違いだったというわけではないのでまぁ良かったなぁーって気はしてるんだけどね。でも本を読んだ感じだと痛快なぐらい面白かったってわけで、まさしくそれからさんが書いてくださったような「読み手によって印象は全然違う」ということになったわけだね。だからこそ読んでみては?ってことで早速読んでみたらこういう結果になったわけです。散々「そんなものは当たり前だ」とか言っておきながら、それを認めざるを得なくなってしまったわけだね。まぁそういう意味で薦めていただいたそれからさんにはもう凄まじく感謝してるんだよね。それはさっきも書いたように自伝として凄く面白いというのもあったし、あとは最近の自分の数学の分野とリンクしている話がいっぱい出てきたんで凄く特に楕円曲線と数論に興味がわいたし、その結果、もうヴェイユのさっき挙げた本とか、あといくつかの楕円曲線に関する入門書とかも買う予定になってるからまぁバリバリ引き寄せの法則がワークしたわけですね。


そんな機会を与えてくださったんで本当に感謝してるわけですよ。そこがやっぱ他者とつながるメリットだよね。まぁメリット/デメリットのみで他者と付き合うわけではないんだけど、ウォール伝経由で書き込みをいただいてその人の考え方に凄く影響を受けたってのがいっぱいあるからさ、やっぱりウォール伝やっててよかったなぁーって感じるんだよね。今回のケースは今までにないケースだけど凄くまぁそれからさんに感謝すると共に自分の無知を恥じてよりいっそう天空に舞う鳥のように風を切りながら数学をやっていきたいなぁーなんて思ったわけですよ。「天空を舞う鳥のように風を切りながら」なんて普段は書かないんだけど今回は書いちゃった。これは記憶の切り絵を読んだ人にしか分からないネタなんだけど(笑)


まぁそんな感じで今日はこの辺で。


あと宮台さんの例の吉本隆明のやつを貼っとくね。









このマックレーン先生のAlgebraは恰好の圏論入門になってるんだよね。あんまり圏論入門って見かけないけど、ようはちょっと代数知ってればっつーか高校ぐらいのを知ってれば読めなくもない感じなんだよね。「スラスラ読める」とかって言うと嫌味になるから言わないけどって俺も傲慢になってきてますかね?