読書と現実逃避。

読書依存症ってのがあるのにびっくりしたね。ようは現実逃避による読書中毒ということである意味でのドラッグ中毒と同じような感じらしい。


http://www.readingaddiction.com/20/beating-addiction/learn-more-about-reading-addiction


ポイントはそのプライマリーな理由が現実逃避であるってところらしいんだよね。逆に知識欲とかで中毒みたいになってればいいらしいんだけど、まぁ恣意的だわな。んでもこれって中毒全般に言えることだよね。ネット中毒なんて最たるもんなんじゃないか?って思うんだよね。別に特にそこまでやりたいわけじゃないんだけどやることがないからとかさ、あとはまぁ現実逃避だよね。ネットの世界に逃げ込むとかそれで言えば二次元の世界に逃げ込むってこともようはプライマリーな理由が現実逃避だったらアウトってことになるよね。でもその線引きってどうなんだろうな?


俺で言えば現実逃避としての読書ってのもあるよね。普通にしててもつまらないし生きてる理由が分からなくなるんで鬱になるから鬱にならないことをやるっていうさ、それと快楽もあるけど、あとはもう習慣で読書をせずにはいられないってのがあるけどさ、まぁその日のメンタルコンディションに拠るよね。現実逃避に比率の多くがいってる時もあるし単純に知的刺激の場合もあるし。でも結果的にそれは読書であるのでどちらにせよ変わらないんだよね。


でも映画とかにせよエンタメとかにせよ少なからずそういう現実逃避の要素ってあるよね。酒なんて最たるもんだよね。最たるもんがネットと並んで二つになってしまったが。まぁ楽しむ酒もあるけどさ、いや、楽しむ読書も映画鑑賞もあると同時に現実逃避ってのもあるじゃん?んでも行為としてはどちらも同じでさ、マニアなら度を越すわけだからさ、その度を越す感じの何が悪いのか?ってことになるよね。さっき貼ったページでさ、解決方法として他のアクティビティにも目を向けるようにするとかって書いてあるけどさ、そもそもそんなのあったらとっくにやってると思うんだよね。何もないから読書に行くんじゃないか?っていう。俺はそういう部分はあるよ。結局まぁ読書が一番楽しいことであるし、ネガティブに言えばそれぐらいしかやることがないしやろうと思うこともないっていうことだよね。


そうなってくると本当にやっぱいつもの疑問になるんだけどさ、社会性を欠くようになるから現実逃避はいけないっていうけどさ、そもそもなんで社会的じゃなきゃいけないのか?ってことになるじゃん?なんで社会性があることがデフォじゃなきゃいけないのか?ていうさ、まぁあるに超した事はないけど経験的に社会が嫌になる人もいるし、あとは社会でやっていける理由として二次元なりエロゲなりなんでもいいんだけど仕事の後に現実逃避があるからっていうさ、現実逃避を否定したら何が残るのか?って思うんだよね。


そう思うとそもそも現実って何なの?ってことになるよね。俺にとっては哲学とか数学の方がよっぽどリアリティがあるんだよね。現実は虚構な部分が多すぎるからリアリティがない。もちろん物質的なリアリズムはあるよ。それと対面せざるを得ないという現実はまさしくリアリズムだけど、でも押し付けてくるそのものとしての社会とか現実がリアリズムなのか?っていうとそれは分からないじゃん?


俺としてはやっぱり押し付けられる現実がクソなら自分で楽しいと思う現実を作るしかないと思うんだよね。だから「これが現実だ」みたいな言い方は凄く嫌いだし負け犬が言うせりふだと思ってるんだよね。大抵そういうことを言うやつは「そこそこやってりゃいいじゃん」っていうタイプの大志がないやつでつまらないやつばっかだから接しないんだけどさ、まぁ好きじゃないよね。


現実を作るという事はどういうことか?ってそれはやっぱり主観の切り替えとかさ、ベタな話になるけど悟りとかだってまぁそういうことだよね。でも悟りは無理だということが凄く最近分かってきたって前にも書いたよね。やっぱりムカつくことにはムカつくし、むしろそのムカつきとか感情の高ぶりこそが俺を人間らしくしてくれるんじゃないか?っていうさ、全てがかりそめとかさ、怒ることに意味はないっていうのは言えてるけど、なんかそこをコントロールしすぎたらっていうか抑制しすぎたら動物としてのなんともいえない何かが失われれる気がするんだよね。


結局まぁ俺は最近っつーか先月とか親父とのやり取りの中で数回キレたし、キレる理由は別に馬鹿馬鹿しいことじゃないからなんつーか人間として普通の反応をしたなって思うんだよね。やっぱあと攻撃性ってなくしちゃダメだなって思ったね。別にクラクション鳴らさなくていいのに鳴らされたら「なんだよ!鳴らしやがって!」ってムカついて車のやつを睨んだりアメリカ風にファックユーしたりとかさ、まぁやくざとかにやったらダメだから気をつけなきゃいけないんだけど、でもそういう考えもなしに出てくる動物性って凄く重要だなって思うのね。最近は。それはやっぱり犬と接しているからかな。


彼らも常に考えていてこっちが思っているほど動物的じゃなくてかなり人間的なんだけどさ、例えば勝手に人の格付けをしたりね、「あいつはたいしたことない」とかって自動的に格付けしてんのよね。だからカリスマドッグトレーナーのシーザーとかはよく「自分がパックリーダーにならなければいけない」って言ってるけどさ、それはボスとかお山の大将ということではなくて率いる人になるってことなんだよね。リードする人って意味でのリーダーね。犬は常にそのリードを求めているしリードがない場合、ボスがいないんで全部自分でやんなきゃいけないから色々と大変だから犬的にはリーダーがいたほうが楽っていうさ、だからまぁ愛犬家としていたいなら自分がリーダーにならなきゃいけないんだよね。


あ、んで話を戻すとさ、結局まぁなんつーか意識だよね。意識によって客観的な現実が変わるということではなく世界の見え方が変わるって意味でやっぱまぁ自己意識なんだよね。そこで心頭滅却すればいいって俺は思ってたけど、今は全く逆で人間くさければくさいほどいいと思ってるんだよね。まぁそれこそ喜怒哀楽だわ。楽しいときにはアホみたいに楽しんでムカつくときにはアホみたいに怒る。悲しいときには泣いてうれしいときには喜ぶ。なんかベタなカルチャーセンターとかでやる公演の内容みたいになっちゃってるけどさ、こういう自己意識こそが生きることを許す装置なんだよね。何かに定まっちゃったらそれは終わりでさ、あとは死を待つのみじゃん?でもそういうわけにはいかないという現実があるし、あとはまぁ人生長いわけだ。


その人生を結局はやっぱ楽しむしかないっつーかそういうとベタだけど、自分がやはりそこは人間だから人間らしく生きるしかないんだよね。それが俺はベタな喜怒哀楽だと思ったのね。で、それは例えば怒るということは下世話で知的なものに反応するのが高尚とかさ、そう考えがちだけど感情としてはレベルの差なんてないと思うんだよね。それこそ俺は色々なものを直感的に理解するしっていうかいわゆる動物的勘みたいなのばっかでむしろそれがなくなったら本当にたいしたことなくなるなって思うんだけど、そういう直感とかさ、動物的な感じってやっぱ動物的に生きることから生まれてくると思うんだよね。


で、それは書物の世界だけに埋没していればいいということではなくて、現実のことにも大いに腹を立てて政治には狂ったように怒ったりとか社会の不正をアホほど批判したりとかね、その熱さだよね。それはなんつーかニーチェ的な強度なんだと思うんだよね。落ち着きというのはそれと正反対で俺は落ち着いているけどそれが凄く最近はつまらなくなってきてやっぱり欲望したいんだよね。そうじゃないとあまりにも人生つまらんからね。


結局必要ないものばかりってことになると何も買わなくなるしネットで済むならなんでもネットでってことになるけどでもそこは金銭的には非合理的でも本屋で買うのが楽しいならそれでいいんだよね。その非合理的な楽しさこそが俺なんであってさ、そういうところをつぶしちゃいけないんだよね。スニーカー何足買えば気が済むんだ?とかさ、メガネ然りだけど、でも好きなものがあったらもうそれだけで素敵なことだよね。だから買えばいいし集めればいいんだよね。それ自体が楽しいわけでさ、何もかもに機能性を持たせるっていうか機能性から全てを見渡すと相当ドライなんだよね。現実って。それこそ生きる道を見失うぐらいのナンセンスの連続じゃん?そもそも自分が生きていること自体が矛盾になっちゃうんだよね。そういう自己矛盾を俺はずーっと抱えてきたように思うんだよね。


でも最近は色々と分かったことであえてアホになれるっていうさ、それはまぁ前にあえてマクドナルドに行くみたいな非合理性について書いたことがあったでしょ?って誰も覚えてないだろうけど。で、「馬鹿じゃねーの」ってコメントがついたんだけどさ、それはともかくなんつーかその非合理性なんだよね。生きる衝動性というかさ、それ自体がアクションなり自分というものを構成するものになるんだよね。すげー簡単に言えばさ、まぁ俺は年齢の割に前に書いた観念時間が長いおかげで多分若い割に達観したような感じだったと思うんだよね。それは今じゃなくてもう5年前ぐらいからね。


んでもこれでいいんだろうか?って思うようになったんだよね。いつからかは分からんけどさ、んでもまぁ欲望の肯定は前にも書いたと思うけどさ、それこそがまさしく俺に恋愛をさせないことでもあるしさ、そういう自分が勝手に考える合理性なりなんなりから考えたもので行動を選ぶとかって実はすんげーいろんな可能性を狭めてるかもしれないんだよね。視野も当然狭めてると思う。


達観することで見えることもあるけど、それと同時に凄まじく欲望することで見えることもあるんだよね。だからどっちがいいか?ということではなく両方あるのがいいんだよね。それはバランスではなく相反するように見えるアンビバレントなものを両方持つってことなんだよね。常に内部矛盾を抱えるっていうかさ、んでもそれ自体が人間であるということっていうかまぁ人間らしく生きられることなのかな?って思うのね。


で、俺にとっての知っていうのもようは古典的な崇高な対象としての知とか真理ではなくて単純に知りたいし興味があるから知るということをやってみたいというさ、そういう欲なんだよね。それは性欲とかと同じレベルの欲でさ、愛知じゃなくて愛欲知なんだよね。俺はフィロソフィーと言えるほどのストイックさは無いしさ、そういう暗さが凄く嫌だというのがあるんだよね。いや、凄く暗い事を知ることにはなるけどそもそも知ることが快楽なわけだからそれでいいんだよね。不幸にはならないわけ。むしろそれができないということが不幸なんであってさ、だからまぁ本当に性欲と同じだよね。俺が普段読書とオナニーのレベルを分けないって書いてたのはようはこういうことなんだよね。それは愛とかじゃなくてプリミティブなムラムラするようなレベルでの欲なんだよね。


本当は吉田松陰みたいに国家のための知識欲であるって言いたいけどやっぱ俺はそういう器じゃないよね。まぁ結果的にそうなればいいけどやっぱり身近に普段からやる理由というのは国家のためとか真実のためとかそんなことじゃなくて単純な欲なんだということね。その結果博学になったりすることもあるかもしれないけどでもそれはただの欲の結果なんであって博学になるためにやるわけじゃないんだよね。好きな事をやっていたらそうなっていましたっていう結果でしかない。


なんとなく俺のイメージだと成功してる人とかビジネスって大抵そんな感じがするんだよね。仕事として成立させました!みたいな人はいないっつーか大成功してる人は好きでしょうがないことをやってたからっていうさ、やりたくてしょうがなかったっていうそういう欲から来てるような気がするんだよね。もちろんそこでただの欲だけじゃなくて知性が必要なんだけど、でもその欲を発生させているものがすでに知性なんだよね。もしくは才能とか素質だとか。だから何かを好きになれるというのは一種の才能なんだというのが最近凄く分かったんだよね。


そういうような好きというか愛欲を追うことは仏教的に言えばイリュージョンに飲み込まれるってことだと思うんだけど、んでも最近俺はこういう仏教の考え方に凄く疑問が出てきたんだよね。出家とかも分かるけどそれでいいのか?っていうさ、それで楽しいわけ?っていうさ、出家したチベット僧だかの話で家族からの手紙が家族と離れてから何十年も経った後に届いたらしいんだけどその僧はその手紙を見ないですぐに燃やしたらしいんだよね。


ようは昔の家族との想い出とかがよみがえると辛いからやめたんだろうけどそれって全然悟りでもなんでもないしただのやせ我慢じゃん?坊主にしたって本当は上手いもん食いたいのにある意味での仏教イデオロギーによって粗食だの精進料理だのを食べているっていうさ、それってやせ我慢だよね。本当に。で、そのやせ我慢がどこから来てるのか?っていうと結局は欲なんだよね。本当はやりたいこととか食べたい事とか接したい家族とかっていうのを我慢して悟りに近づく自分を作ってるわけだけど、んでもそもそも根っこがすでにやせ我慢だから悟りはありえないと思うんだよね。だから人里離れたところに篭るとかそれは自分が弱いからなんじゃないのか?って思うのね。


本当に凄い人なら出家なんてせずに日常の中で悟りを開いたまま生きられるんじゃないか?っていうさ、それが俺の目指したいところだよね。欲を我慢せずにかといってもどの欲が自分にとって価値のある欲か?というのを見分けるっていうさ、んでもそもそもそこはさ、ある種の悟りを開いていればその選択はむしろ悟りを開いた自分から選択できるんだよね。いわばメタ的に。


だから客観的に無駄なのと自分的には大切な意味があるというのを識別できるんだよね。それが自分と自分の生活を豊かにしてくれる欲なのか?っていうさ、そこは我慢じゃなくて選択なんだよね。で、俺にとってね、そんなにプリミティブな欲を持てるものなんて滅多にないってことなんだよね。だからこそプリミティブな欲を持てることがあるってことがもうすでに人生の至宝なんだよね。それ自体が人生を豊かにする宝なんだよね。だから宝の持ち腐れがないようにその宝を使いまくるっていうか楽しみまくるっていうかさ、だからまぁアンチ我慢だよね。いや、ホントやせ我慢はおかしいよ。マジで。坊さんも我慢でやってなきゃ分かるけど我慢してる坊さんばっかだよね。どうもレベルが高いように思えないんだよね。仏陀とかは違ったんだろうけど。


ようはストイックに学問一筋!とかさ、自分にかせるとか律するみたいなディシプリンみたいな次元でやってるとレベルが低いんだよね。もう好きでやりたくてしょうがないからやってるだけっていうさ、そういう意味でオナニーと一緒なんだよね。エロサイト巡りと本屋巡りは同じっていうさ、両方ズリネタ探しって意味でね。片方は刷りネタだけどね。そもそもストイックに律するやり方なんて続かないと思うし我慢だらけで惨めな人生になりそうだよね。


せいぜいそのストイシズムに美徳を見出してそれ自体を美しいとかって主観的に解釈してれば幸せなんだろうけどでも感情的には絶対そうじゃないはずなんだよね。楽しい事やってればすげー愉快なやつになるよね。だって常に快楽に埋没しているわけだから。もちろんそういうレベルに持っていく努力は必要なんだよね。俺にとって数学はそうだったけど今はもうちょっと前と違ってかなりオナニーレベルになってきてるんだよね。それこそ本能のレベルで求めるようになってる。だからそうなってからの発展が凄いんだよね。


それはここ二ヶ月ぐらいなんだけどちょうど店がオープンするちょい前にさ、「ここが店だよ」みたいな感じで店に居た事があってさ、なんか説明が難しいんだけど車で来てたから父がなんかの作業を終えるまで待ってたんだよね。二階で。そのときに「この空間なんか妙に落ち着くなぁー」とか思いつつその当時はまだ大学に行く予定だったからさ、「受験が今年だ!」とか思って頑張って受験数学の本とか無理やり読んだり解析序説を読みながら絶望的な気分になってたんだよね。


これだ!って決めた数学なのにあんまり面白くないし分からないっていうさ、受験数学はともかく解析序説はいい本なんだけど絶望的に知識が無いしそもそもウォール伝で書いてるほど数学に目覚めてなかったんだよね。知りたいという気分はあったけど本能的なものではなくて本能的なものを感じたので本能のままいけるぐらいのレベルになるために接する時間を増やしてたって感じだったんだけどさ、いつからか分からんけどっつーかそういうのを日常的にやってたから色々と分かるようになるんだよね。当然。


で、それこそここ数ヶ月で数学に対する知識欲が爆発してんでもうすんげー早いわけ。進むのが。この1年なにやってたんだ?って思うぐらいの早さで。もっと早くからこうなってれば良かったって後悔するぐらい早いっていうか開眼してるんだよね。だからdoverとかを読めるようになってるし大量に買う気になってるわけよ。


難しそうなやつもぱっと読んでみると意外といけそうなんだよね。これは哲学で過去に起こっていたことと全く一緒なんだよね。だんだんと分かるようになってんでもうそれを本能的に求めるようになるっていうさ、だから哲学とかなんて数学やってたってそれこそ空気を吸うかのごとく当たり前に読むし読んでないとダメなんだよね。活字欲というのもあるんだけどね、でもやっぱ哲学を読まないと満たされない独特のものってのがあってそれは数学では代替可能ではないし数理哲学でも数学基礎論でも無理なのね。全く違う欲だから。


だからまぁ音楽と一緒で好きという感覚すらもないし当たり前のものとしてやるっていうさ接するっていうかさ、でもまだ数学はそういうレベルにまでいってないんだけど、そのうちなるだろうなって期待してるのね。やっぱもう知りたいんだよね。数論はともかく解析・確率論・幾何・代数・集合論・位相・群論なんかはもう普通に知りたいことだらけなんだよね。


なんで数論だけイマイチダメなのかは分からないんだけどようは俺は無限に関するものとか連続的なものが好きらしいんだよね。離散的なものにはあまり興味がないのか頭が働かないのかんでも別に向いてないと思う必要はないんだけどね。んでもやっぱリーマンゼータ関数とかオイラー系の数論は面白いと思うからそういうアプローチでハマっていくと思うんだよね。ようはリーマンとかオイラーを研究することで数論にハマっていくという、まぁそういう未来が見えてますね。ええ。


だからまぁ最近は一山越えた感があるんだよね。才能どうこうとかもう関係なくて知りたいからやる!っていうそれだけでもういいじゃん!っていうさ、俺でいう哲学とか音楽に非常に近い自然な感じになってきてるんだよね。逆を言えば社会性がなくなるよね。数学それ自体に興味を覚えれば覚えるほどそれで食うとか全然興味なくなるのね。社会で役立つ数学とかポストが狙えそうな切り口とかそういうことが本当にどうでもよくなる。


学んで楽しむ事自体が目的になるからどうでもよくなっちゃうんだよね。まぁそれでいいと思ってるけどね。前の俺の数学に対する考え方がいかにレベルの低いものであったか?ってのをあらわしてる気がするけど。ようは金銭的イニシアチブとかがどうでもよくなるんだよね。好きだからやるって言うそれだけになるわけ。でもそれが結果的にはさっき書いた欲の話でさ、何かをやることに関しては一番それが生産性のあるやり方だと思うのね。ようはdevotionね。doingだとかそういう話ではないってこと。


そうなったらもう残っているのはハッピーライフしかないじゃん?最近気分がいいのは全部数学のおかげなんだよね。凄く数学に救われてるわけ。生活の中で楽しくてしょうがないことがあるということの幸せさね。ようはそれ自体が生きることにつながっているっていうか自分が人間であるということを許してくれるものになっているのね。


だからその生き方なり世界の見え方を規定しているのが自己意識でその中で欲というのは凄く重要な役割を担ってるってことね。まぁドライブだよね。sexual driveとかと同じレベルのintellectual driveね。それは理性が介在している高尚な知識欲みたいな類のものではなくて可愛い子がいたら押し倒したくなるみたいなそういうプリミティブでピュアなドライブね。理性が介在しなければしないほど動物的でプリミティブなわけだ。


だからやることに美徳なんて介在しないのね。女性を押し倒すことに美徳が無いように本をレイプするかのごとく貪り読むのにも美徳はないんだよね。むしろ野性的で下品なんだよね。まぁ前者はモラルに問題があるけど後者は問題ないわけで。だからこそ最初の話につながるんだが社会性って何なの?って思うんだよね。あまりにもそれは自分にとって二次的過ぎてさ、まぁ生活は気にしなきゃいけないんだけどそういうのを気にする前に欲が前に来るんだよね。


で、そういうほうが幸せだから俺は欲にまみれていたいと思うのね。可能な限り。「こんなんでいいんだろうか?」というのがまさしく魔が差すというやつでさ、今は数学を楽しんでいる自分がいるわけだし、もちろん数学だけじゃないけどね、そりゃ哲学の本も相変わらず読んでるしそれは変わりないんだけどさ、まぁそういう生活自体が楽しいわけじゃん?


どこに行くわけでもなく誰と会うでもなくんでも幸せっていうさ、かといっても別に社会とのつながりとかコミュニケーションを軽視するということじゃないのね。ようは内面的な充足の話をしているわけよ。いわば俺はリア充になってるってことだよね。数学のおかげで。なんでも知りたいと思うことなら理解できそうだっていう見通しがつくことで理解できる自分にも自信がつくしちょっと前みたいに躊躇しなくなるよね。才能とか地頭とかそもそも欲を満たすのに関係ない話だからね。


いや、そのプリミティブな衝動の威力なのよ。三ヶ月前の俺との違いね。客観的に見れば今は何かが突き抜けた感じの時期である程度までいけばまた壁にぶち当たると思うんだけど、またそれも同じように壊していくんだなって思うよね。それを壊すものは何か?というとそれはズバリ欲なんだよね。知りたい!と欲するからこそ得られるものとしての知識ね。


で、それは悟りモードのストイックさとは真逆ってことなのね。もちろん物理的に本しか読めない環境を作るとかそういうのは必要だけどさ、でもそれはまぁようはノイズ遮断ってことなわけで「本だけで独房!」みたいなストイックさではないのね。むしろ独房のほうが集中できて楽しめるからああいう環境を作り出したい!っていうこれも快楽への欲求だよね。


まさしくこれはエロスそのものだと思うのね。性欲と同じという意味でも言葉的にもエロスってぴったりだよね。エロい女をつい見てしまうという男の本能ってあるでしょ?乳好きなら乳で脚好きなら脚でっていうまぁ色々あるけど、俺が言いたいプリミティブなレベルってこれなんだよね。つい乳や脚を見てしまう感じで本を読んじゃうっつーか数式追っちゃうっていうかさ、それがようはオナニーと変わらない次元ってことなんだよね。それがエロスの次元ってことだ。


エロい女の姿を目に焼き付けて帰ってからオナニーするのと同じで興味深い数式を目に焼き付けてあーだこーだ考えるってのはプロセス的にオナニーと一緒なんだよね。だから俺はそんなマス魔手者でありたいと思うわけね。手淫に耽るとか書淫に耽るとか数淫に耽るとか「耽る」という意味での貪るという意味でのdevotionってことでみんなつながってるんだよね。それをドライブするのがようは欲だってことなのね。理性とか崇高な目的とかじゃなくて動物的な本能ってことね。


あとは性欲と似ているところと言えば結局は性欲って種の保存っていう本能なわけだけど、それで言うとさ、別な意味でも例えばこうやって書くということとかさ、数学にしても数学で何かを残したい!とかって思ったらそれも種の保存だよね。まぁこれは自分の記録という意味で種の保存とは違うかもしれないけど、でも書かれたものが解釈されるものとして独立する時にはそれはもう十分種なんじゃないかと思う。自分の名前がついた定理とかがあったらそりゃうれしいわな。そのうれしさは何か?っていうとやっぱ自分の名前がつくからなんじゃないのかな?数学的真実から見ればトリビアルなことだけど、なんとなく人間的にうれしく思えるのはやっぱ種の保存的な本能だと思うんだよね。


自分的な何かを何かに残すということだよね。デリダ風に言えば散種だね。もちろん何かを残したいからオナニーをやるわけじゃないじゃん?まぁ俺は気持ちいいからオナニーをするわけでさ、まぁそれは不毛だよね。子供は生まれないけどでも何でやるか?ってやっぱ俺は気持ちいいからなんだよね。で、それは性的刺激と同じように知的刺激もまた気持ちいいからやるんだよね。でもそれが動物的なレベルになるともしかしたらもう生存本能としての知識欲みたいなのが出てくるのかもしれないなって思ってるんだよね。ようは知によって何かを残すっていうさ、精液で物理的に子供を作るとかではなくてさ、情報としての自分の断片を残すみたいなね、それも種の保存的なものなんじゃないかな?って思うんだよね。


なんでもそうじゃん?音楽でも映画でもやっぱ「自分が作りました」って署名をしたいわけだから。まぁそうじゃない人もいるけどね、でも署名したくなる感じはそういう種の保存的な人間の元来の欲求があるんじゃないかな?って思うのね。作った事によって満たされる充足感ってあるじゃん?別に自分の子供が存在するとかってことが必ずしも満足できることではなくて、んでも人間っつーのは子供を作りたいわけじゃないのに中だししたいみたいな欲求があるんだよね。その矛盾こそが面白い。


その矛盾もなんというか今回書いている欲を軸として人生を楽しむってことにつながるよね。中だしの快感があるならそれはやったほうがいいし経験した方がいいわけだ。まぁ子供孕ませちゃったらダメだけど、まぁでも中だしせんでもまぁセックス全般いいじゃん!っていう。そういう意味で俺はあえて童貞を守る必要性がなくなってきたんだよね。それこそエピキュリアンというと語弊があるけど通俗的な意味での快楽主義者になるんだったらむしろセックスの快感を拒む必要がないよね。なんでそれを拒む必要があるのか?ってのが俺の快楽原則と激しく対立するよね。


まぁ分からん、近いうちに童貞無くなるかもしれんね。なんでもやってみたほうがいいよね。やらないということがそもそも人生というものがあってもったいないんだよね。どうせ死ぬんだし客観的に見れば前に書いたようにクソゲーなわけだからさ、少しでも楽しくしなきゃいけないと思うんだよね。


そもそも俺は恋愛に関して真面目というか堅物すぎるんだよな。なんか男女の関係が大正ぐらいの浪漫と書かれるロマンスみたいなさ、そういうイメージなんだよね。いや、でもそうじゃないな。意外とそうでもない。やっぱりまぁ知性だな。本当に好きになれるような人がいないというのが現状でリミテーションはかけてないよね。いたら絶対俺は付き合うはずだから。むしろそういう人と会いたいわけだがまぁ期待しない方がいいんだよね。それは。いるわけないぐらいに思ってたほうがいいんだよね。出会えたらまぁそりゃすげーラッキーでさ、んで出会えなかったらまぁそんなもんでしょっていうそんぐらいのもんだよね。だからそういう意味での期待値の低さかな。やっぱ。学問は打てば響くからなぁー。


・・・とまぁこうやって書くことも何かに没頭することも俺にとっての現実なわけで、没頭している自分という自分を作為的に作り出して人生を楽しいものにしようとしているというのはあるわけよ。完全に自然なわけじゃないのね。その辺が悟りと自然との間というか調停というかバランスなんだよね。悟りだけだとあまりにもやることがないし死ぬしかないっつーかネガティブな意味じゃなくて論理的に死ぬしかなくなるんだけど、ようは俺を生に走らせるものとしての楽しいことっつーかさ、生きるための欲だよね。


生きるためのストイシズムなら死んだ方が早いわけだし、やせ我慢じゃ一生欲を抑圧することでしかいられないクソみたいな人生になるわけだ。そんなの俺は嫌だね。だから生きてきたからには徹底的に楽しませてもらうぜ。って感じなわけですよ。ましてやうつ病だのパニック発作だの色々と精神病みたいなやっかいなもんをオプションでもらっちゃって生まれてきたんだからネガティブに見れば最初からもう大損こいてるようなもんなわけよ。人一倍楽しめるのはいいことだけどこれはOE系で言えば諸刃の剣で辛い事もまた人一倍辛く感じるんだよね。ようは普通の人の知覚というか痛点みたいなのが腕ぐらいだったらOEとか持ってたり敏感すぎるやつは全身が弁慶の打ち所ぐらい神経がむき出しってことなんだよね。ちんちんで考えれば分かりやすいよね。気持ちいいときは最高だけど打ったらあんなに痛いところはないわけだ。


ということで俺は現実逃避というネガティブな理由で何かに没頭するんじゃなくてクソゲーをやらされる羽目にならないように何かに没頭してハッピーになることを求めるわけね。その「幸せ」というのはようは認識によって作られるもので、だからこそさっき書いた俺の言う「自分のリアリティを作る」ということなんだよね。現実がクソなのは誰にでも自明だから、んじゃあその上でどうする?ってのを考えなきゃいけない。そんな中でクソゲーを良ゲーなり神ゲーにすることができるのは自分だけだよね。ようは自分の能動性でしかそれは達成されないよね。で、それは必ずしもお金とかでどうにでもなるものではないから、だからこそそこまで絶望しなくてもいいってのはあるよね。お金とか身分でそれが決まっちゃえばアレだけどそうじゃないわけだから。まぁ時間は必要だけどね。


とまぁそんな感じですね。今日は。