マックレーンの「数学 その形式と機能」とかさ、あとはロシアの数学者達が書いた「Mathematics Its Content, Methods and Meaning」とかさ、結局なんつーかね、いや、俺が言いたいのはさ、社会人のための数学入門とかって流行ってるじゃん?分からん。まぁ去年とかは流行ってるとかって言われてた気がしたけどさ、本屋でそういうの見ても全然再入門になってないっつーかさ、新体系だのなんだのってうたってる割にただの教科書的な記述の組み直しだったりさ、なんかホントダメな本が多いなと思って呆れてるんだよね。
社会人だから時間がないからあんまり長過ぎる本とかにできないとかってのがあるのかもしれないけどさ、それこそ再入門しようとしてる人達なんてやる気があるわけだからさ、長くたっていいっつーかさ、いや、最近思うのはさ、日本の大学で使われてると思われる教科書の類とかもそうなんだけどさ、あまりに記述が不親切なんだよね。こうこうこうだからこうなるのは明らかであるとかさ、それこそウィキとか調べれば普通に出てくるレベルっつーかまぁウィキ自体が最近のもんだから昔の教科書にそういうことを言うのは酷かもしれんけどね、んでもそのね、今読んでる例のロシアのやつとかね、元々三巻あったのを一冊にしたから1000ページ以上あるんだけどさ、色々と読んでると分かるけど良い数学書の特徴ってのは数式よりも文字が多いってところね。
日本のやつなんてスカスカじゃん?あえて人間が書かなくてもいいようなもんばっかっつーかさ、あんな定理と証明だけ並べたやつなんて読む価値あるのかな?って思うんだよね。専門書なら分かるけど社会人向けの再入学本とかってうたってるやつで定理と証明の流れしかないやつとかバカなんじゃないか?って思うよね。あんなんで「やってみよう!」と思う人のモチベーションを下げるのはどうかと思うよね。いや、マックレーンのやつとかは多分、俺が生涯で「好きな本は?」と言われて必ず入ってるだろうと思われるぐらい好きなんだけどさ、いや、意外と無いんだよね。そういう本。色々と読んでるけど「これは凄くいい!」とか「大好きだ!」って本は意外と無いと思うよね。んでもマックレーンのやつは絶対入るっつーのはさ、序文にも書いてあるようにマックレーン自体が数学の哲学を記述するのにどう述べればいいか?ってのをずーっと考えてたって時期に書かれたんだけど、別にね、オントロジーとか人間がどうのとかってことじゃなくてさ、数学をようは文章で記述するという感じなんだよね。
ようは何々で何々だからこれは明らかである・・・とかさ、はっきりいって説明になってないじゃん?数学が分かる人ならいいけど、分からない人にはさっぱりっていうか「明らかに」とか言われても何が明らかなんだか分からないじゃん?だからこそ「代数とは何か?」とか「数とは?」とか「実数とは?」とか「集合とは?」とかから入らなきゃいけないんだよね。いきなり代数の基本定理だとかなんだとかって言われてもさ、逆にそれが分かってるなら入門書なんていらないじゃん?本当にイライラするね。ああいうやつは。何のために誰に書かれてるのかさっぱり分からないんだよね。で、妙にアマゾンとかで評価が高かったりして。実際はクソですよ。あんなもん。あとレビュワーも気をつけなきゃ。
ゼータ函数の本でさ、「こんな本に高校生の時に出会いたかった!」とかさ「ゼータの歴史が分かる!」とかって書いてあるやつがあってね、で、実際中身見てみると最初の数章ぐらいは理解できるけど中盤から後半になると大学数学知らないと全然分からないようなのばっかでさ、こんなのを一般書みたいな扱いするなよ!っていうかさ、いや、これは実際、アマゾンのレビュワーが他のレビュワーに文句言ってたりするんだけどね、ようは普通の人には分かるわけないのに高校生の時に出会いたかったとか無責任なこと書くなよ!っつってるんだけど本当にそうだよね。なんで日本の数学の本って配慮とか愛がないんだろうな?って思うのね。前に散々批判したブルーバックスのガロアの群論のやつとか本当に酷いよね。あれもレビュワーがボロカス書いてるけどなぜか星5個とかつけてるやつもいてレビューってちゃんと機能してんのかな?って思うよね。アメリカのアマゾンに比べてレビューのレベルが低過ぎるんだよな。アメリカのやつなんて学術書に対して学校で出すようなエッセイ並の文章とかがレビューに載ってたりするからね。
なんかさ、薄い本がいいっつーか活字離れがどうとかでページ数があり過ぎると売れないとかさ、こういうのってそもそも読書って行為と矛盾してるよね。何かを理解しようと思ったら新書とかじゃダメじゃん?かといっても分厚ければいいとは限らないけどさ、数学書に限って言えばさ、分厚さが分かりやすさに繋がってる場合もあるってことねっつーか俺はそう思ってるよね。それはそもそも微積分とは何なのか?とかね、これは物理で例えるならスピードの変化がどうで空間がどうで・・・って詳しく説明すればするほど記述は長くなるじゃん?でもそれだけ説明されてるってことなわけだから理解しやすいはずなんだよね。時間はかかるけど。一番分かり辛いのがようは俺がさっきから批判してるような誰が読むの?こんなの?って思うような数学入門書なんだよね。入門向けに書かれてるなら数学知識があるってことが前提になり過ぎててさっぱり分からないのと分かってる人はあんなの読む必要ないってことでマジで意味分からんのよね。なんのためにあんなのがあるのか?っていう。
あとはさっきも書いたけど社会人ならやる気があって読みたいわけだから活字が多くても大丈夫だと思うんだよね。数式しか載ってない本ほど分かり辛いものはないわけで。親切な図とか説明とか例が載れば載るほど本は分厚くなっちゃうよね。でもそれは良い分厚さなのよ。記述が細かいから理解しやすいという意味での長さなわけだから。だから数学書に関して言えば活字が多ければ多いほどいいような気がするね。まぁ活字が多くてダメなのもあるけどね。有名で偉大な数学者が書いたのにも関わらず凄まじく分かり辛いってのはあったりするから。
なんつーかあれだよね、活字8割で数式2割なのがいいね。でもそれは数式が少ないということじゃなくて数式の説明が細かくて長いという意味で活字が多いってことなわけね。あとまぁ図とかもいれれば活字が7割ぐらいになるのかな。ブルーバックスとか色々最近再入門系出てるけど絶対こんな割合じゃないじゃん?数式ばっかだよね。例の明らかである論法っつーかさ、著者をぶん殴りたくなるんだよね。ああいう本見ると。どういうつもりで書いてんのか?っていうさ、あとはまぁあんま理解してないから証明と定理を述べるぐらいしか出来ないってのはあるかもね。教えるのが上手いっつーのはそれに関して普通の理解している人より10倍ぐらいもっと理解してるってことなわけでさ、だからこそちょっとした数式のことでも永遠とそれについて説明できるんだよね。こうこうこうなります・・・じゃなくてなんでこうでこうなるのか?という理由とか例を永遠と説明できるわけだ。あとは可能であれば卑近なことに例えたりね、離散と連続の違いってのは芋とマッシュポテトの違いですみたいなさ、こういう感覚で理解するっていうか概念で理解するっつーのかな?
そうすれば理解できることって多いよね。そういうのが通用しない分野とか高度になってくるとさすがに無理なのも多いけどさ、基礎だったら理解できないはずが無いんだよね。なのにも関わらず再入門書が出まくってるのは一時期の自己啓発本と一緒でさ、「お金持ちになる!」とか「勝ち組になる!」とかって書いてある割に実践できないことばっか書いてあったりさ、読んでも効果がないようなのばっかとかね、だからこそ何冊も買っちゃうみたいなさ、でも自己啓発だって数学だって決定版みたいなのがあればそれで事足りるはずなんだよね。でもあんなに色々出てるってことは個々がほぼ雑ってことでしょ。
結局一番の近道は急がば回れっつーか学問に王道なしっつーかさ、そもそも薄い本で理解しようなんて考え方がダメなわけ。楽して理解するなんつーには数学では無理ですってはっきり言えますですね。計算の方法ならドリルとかやればいいけど本質的なことを理解しよう思ったら短期間じゃ無理だしまず自分の頭で考えなきゃダメなわけだ。変化ってそもそも何なのかな?っていうさ、そこがまぁようは哲学的なんだよね。ディレクションを守ってそれ通りにやれば解けるとかじゃなくて自分で考えるんだよね。で、その自分で考えた変化の雰囲気と数式で表されている変化の定義が一致したときに「なるほど!」っていうアハ体験が起こって理解になるわけだ。そうなったらもう忘れようと思っても忘れられないよね。学校の勉強的に覚えてもすぐ忘れるけど粘り強い思索の末に「そうだったのか!」ってなれば絶対忘れないわけよ。
で、数学って基礎概念からもう難しいんだよね。オペレーションで当たり前とされているものでも「何でそうなるのか?」とかっていう数式の意味とかね、それこそよく言われることだと-1と-1をかけるとなんでプラスになるのか?とかね、分数の割り算はなんで後者の分母と分子を入れ替えてかけ算するのか?とかさ、学校ではただのオペレーションとして教わっていることでも考えだしたら意味分からなくなるんだよね。んでもまぁ理由があるわけだ。「公式だからです」なんていう数学は恐らくないだろうね。量子論とかだと理解できないけど数式だとそうでてくるからそうとされているとしか言いようが無いってのがあるみたいだけど、少なくとも大学の数学とかのレベルだったら背後に絶対意味とかさ、あ、それは深遠な意味ということではなくてなんでそうなるのか?という理由があるんだよね。で、それは幾何的な発想とか代数的な発想とか解析的な発想とか色々なものを必要とする場合があるんだよね。だから数学は広く精通しているに超した事はないわけよ。
ドラゴン桜でさ、-1と-1をかけるとなんでプラスになるのか?なんて考えてたら頭がおかしくなるからそういうもんだと思って計算しろ!って主人公がアジってたけどさ、ようは教育課程でやらされる数学って全部これだよね。意味とか由来とか数学史的なこととかやらないわけでしょ?あとは教師がクソで教えられないとかさ、あんなもんで数学好きになるわけないし意味も分からずに計算だけやらされるとか苦痛だよね。だからみんな数学嫌いになるわけだ。で、たまに才能あるやつとか頭が良いやつが「結構面白そうだな」とか思って数学の本とか図書館とかでディグるんだよね。で、目覚めるっていうさ、でもそれは稀だよね。
それはそいつが元々数学に向いてるとか頭が良いってだけなわけでさ、普通の人はまず無理だよね。前にここで貼ったMathematiciansっつー数学者の写真とインタビュー集なんかを読んでるとまぁ大抵あのぐらいの数学者になると子供の頃に良い家庭環境にあって父のエンジニア関係の数学の本を読んで面白くてたまらなかったとかさ、おじさんがくれた数学の本がどうとかっていうのが多くて、まぁ元々の地頭と数学力が半端じゃないわけだけど、学校の数学の授業が面白くてって言うのは無い気がしたね。覚えてる限りだとそんなのなかった気がする。
ホフスタッターなんかは逆に数学面白い!と思って大学の学部に入学したはいいけど学校でやる数学とかがドライ過ぎてすんげー失望したって言ってたよね。で、なんかないかな?と思って大学院は物理学にしたっていうさ、まぁ天才みたいな人の話だから参考にはならんのだけど、でも数学的センスとか能力があればあるほど学校の授業なんてつまらなく感じて当然ってことなんだよね。むしろそうじゃないとセンスがあるなんて言えないだろうっつーか学校で永遠とJ-POP聞かされるようなもんなわけよ。それで喜んでいられるのか?っていうさ、本当にセンスがあればまずそれは違うじゃん?まぁ良い先生に出会えば違うんだけどね。
んだからまぁ学校とかには期待できないけど本には期待できるっつーか良書があればそれに食らいつけばいいんだよね。まぁでもそんな大著は読めぬって人が多いのは分かるけどさ、でも数学なんて高校レベルのもんだって理解しようと思ったら新書並の薄い本でなんて無理だよね。計算ができるようになればいいだけならいいかもしれんけど理解しようと思ったらまぁ無理だわ。ドリルとかやっててそこで何が起こっているのか?ってのが理解できるようになるとは到底思えないからね。
ドーバーとかのテキストですら必ずペンと紙を用意して練習問題を必ずやるように!とかって書いてあったりするやつもあるんだけどなんかやっぱ違うだろって思うんだよね。概念と計算は違うだろっていうさ、微積分だって別に計算方法覚えれば計算できるようになるじゃん?でもなんでああなるのか?ってのは計算だけしてても分からないと思うんだよね。導関数とかにしたってさ、定義と出し方を見て「そうなんですか」で終わる事ぐらい誰にでもできるし、だからまぁ誰にでも計算できるんだけど、それが一体なんなのか?とかってのを考えだしたらなかなかすぐに分かるものではないと思うんだよね。だからそれこそ自分で数学史をなぞるようなさ、自分が数学史シミュレーターみたいになるしかないんだよね。
その発見した人と同じように考えて出し方なりそれが何なのか?ってのを考えるっていうさ、まぁそんなことやるもんじゃないとかって言う人とかも結構いるけど、でもまぁ俺に言わせればそれやらなかったらいつまでも本質に辿り着けないと思うね。それはホント哲学と一緒よ。誰々がこういいました的なさ、ニーチェが神は死んだって言いましたとかさ、ドゥルーズ/ガタリがリゾームって概念を使いましたとかさ、そんなのただのレトリックのゲームっつーかさ、それがどういう文脈なりね、思想から導きだされたのか?ってのを理解することが哲学を理解するということだよね。だからそこはある意味で極めてシュトラウス読み的なところがあるよね。現代からそれを理解するのではなくその思想家が当時考えていたように考えて理解することが大事なんだよね。そう理解した上で現代的な観点からも解釈してみるとか工夫してみるとかね、でもやっぱ原型はシュトラウス読み的なもんにあるわけよ。かといってもまぁ別に哲学原理主義になるというわけではないんだけどね、でも数学にはそもそも原理しかないわけだからfundamentalistになるしかないじゃん?だからこそ数学史的な理解が不可欠なんだよね。それは別に数学史をやるということではなくてね、それが生まれた背景を知ってこういう概念なんだと理解するってことね。
活字が多い数学書なんてのは大抵書かれてるわけよ。ニュートンがどうだとかライプニッツがどうだとかね、彼らが発明しましただけじゃ何にもならんけど発明した理由とかね、応用される例とかね、身近な例とかさ、まぁそういう記述が多くなればなるほど本は分厚くなるってさっき書いたけどんでもこういう分厚さはこれまたさっきも書いたけど親切な分厚さじゃん?親切な長さだよね。だから長くても定理だけ書かれてるのよりよっぽど分かりやすいっていうことなわけだ。
"You do not know anything until you know why you know it"ってのが数学では特に顕著だわ。Clovis Andersonの言葉だけども。そういう意味では数学というのは定理と証明の積み重ねなんではなくて、個人の理解の積み重ねっつーか、こう書くと当たり前なんだけど、ようは個人的な意味論の世界なんだよね。もちろん数学には客観的な意味合いというのは存在しないけど、個人個人にとっての知覚というか、それを理解することで得られる質感とか意味とか理由ってのがあるじゃん?そういうのの積み重ねなんだよね。定理と証明の積み重ねっつーのはただディレクションを守るだけなわけでさ、Paul LockhartのMathematician's Lamentって本に書かれているけどさ、本質への理解への欠如ってのがね、そういう欠如によって教育された人達がまた数学を教えることになったりしてさ、それが受け継がれるわけだけど、その定理と証明の積み重ねだけってのはディレクションを守るだけだし、そのディレクションを守るってことが数学だって勘違いしやすいっつーかさせやすいっつーか少なくとも高校数学なり受験数学とかだといかにディレクションをフォローするか?ってことに尽きるわけでしょ?まぁそこに創造性なんて介在させたらまぁレベルが高くなり過ぎるんだけど、でもこういう本質じゃないところにやたら時間なり労力を注がせるのはいかがなものか?ってところなわけだよね。
で、さっきのロックハートの本に書かれているのはね、「キミは数学が得意だな!」って言われてきた優等生達がね、院まで進んで才能の無さに気がつくのがようはその「俺たちはただディレクションを守るのが上手かっただけなんだ」って気がつくっていうまぁ悲劇がありますよっていうさ、そういう勘違いを起こさせるのがようはカリキュラムなりね、一般的な俗説としての数学というかさ、数学というと精密な機械をハンダづけするみたいな緻密な作業だって思ってたりさ、計算間違えると全部ダメになるとかさ、そんなもんじゃないじゃん?計算ってのはレベルが低いよね。それは数値なわけでさ、数学にとって一番致命的なのは矛盾が生まれることだよね。で、どう逆に矛盾を生むような作業をするのか?ってのがようは新しい理論なり仮説を立てて証明するってことじゃん?そんな中で矛盾が出てきちゃうとアウトになるってことなわけで数値計算で数値のミスが出るなんて計算しなおせばいいことなわけでたいした事無いでしょ?まぁ別に計算を軽蔑するつもりはないけどさ、でも計算だけってイメージが本当にあるじゃん?それじゃダメだよなぁー。マジで。
なんつーか哲学以上に哲学なんだよね。プロセスが。哲学も自分で考えるというのがコアにはなるけど、でもやっぱ文献を読むってことも凄く重要でさ、インプットが大事だけど、数学の場合さ、アラン・コンヌとかも言ってたようにまず本を閉じることから始まるんだよね。で、自分で考えると。それは何かを作るってことじゃなくて微積分でも代数でもなんでも本に素っ気なく「明白である・・・」とかって書かれてるのを「何が明白なわけ?」と思って「は?」って思う事から始まるっていうかさ、「わからねぇー!」っていうそのわからなさが思索を生むっつーのかな?何なんだよ!これ!っつーさ、そのわからなさだよね。
木村俊一という広島大学の数学者いるでしょ?この人も数学は分からないから面白いっつってたけどこの人キャリアが凄いんだけどこういうトップレベルの人ですら「分からないから面白い」って言うぐらいなわけでさ、本を読んですんなり分かるようなもんじゃないってことだよね。だからそもそも社会人向けの入門書とかいって薄いやつでさ、再入門とかそれ自体が矛盾してるんだよね。そんなんで分かるほど高校数学でやる範囲の数学は簡単じゃないわけだよね。高校生が数学を学ぶように学ぶ事はできても分かるってことは無理でしょ。だから多くの人が挫折するんだと思うよね。だから永遠と似たような本が大量生産されるわけだ。自己啓発本と似たような感じでね。みんな再入門できてたら日本は数学大国になるよね。でもならないじゃん?ソフィーの世界がベストセラーになったって哲学がメジャーカルチャーにならないのと一緒だよね。
ちなみにノベル繋がりだと数学ガールもソフィーの世界も小説という形式を取りながら全然劣化させることなく本質を伝えているって意味で本格派なんだよね。なんだけど割と売れているとか売れたっていうさ、んでも数学も哲学もメジャーにはならんよね。そもそも「流行ってる」って理由で数学ガールを何気に手に取って読んでみようって思った人がどれだけ内容全てを理解できるのか?ってことだもんね。まずありゃ無理だよね。すげー親切に書かれてるけどやっぱ高校数学ぐらい分かってないと全然理解できないところが多いよね。だから数学ガールって敷居が高いんだよね。だからその一歩手前が必要なわけだ。でもイマイチ良いのがないってのが現状なんじゃないのかな?って感じだよね。
だから誰かさ、すんげー分かりやすい形でまず数学の構造を凄まじく詳しく易しく解説する本を書けばいいんだよね。そのさっき書いたような数とは?とか分数とは?みたいなところから入ってね、で、そっから入ると色んなテキストと同じようにすんなりと集合とか実数とかに行くんだよね。で、実数の概念をなんとなく理解できたらもうすでに解析への道が開かれてるじゃん?あとはデカルト座標とか幾何の基礎知識とかここから入れば二次関数とかも分かりやすくなるよねっつーかAnalytic Geometryで函数を考えたほうがよっぽど分かりやすいわけだ。デカルトの偉大さが死ぬほど分かるから。 あとは分数とかで比って概念を再理解するとかね、有理数とか言われてるけど実際はrationalな数字ってことで比で表せる有比数のことなんだとかね、そっからまぁアスペクト比とかさ、誰でも知ってるような比の話ができるじゃん?
そこから黄金比の話にいってもいいし、黄金比の話にいったら数列の話ができるようになるし、そこにいかなくても比ってことから三角関数とかね、関数もようは基礎知識のところで実数とか集合とかと同じぐらいのベーシックな概念として定義するわけだから三角関数も理解しやすくなると思うんだよね。三角関数なんて暗記一辺倒な気がするけど実はあれは比で関数なんだっていうさ、で、言わずもがなだけどここからオイラーの定理とかに繋がるわけじゃん?もう次の本としてオイラーの贈物とかが用意されることになるよね。こういう橋渡しをする本が必要なんだよな。ここまで来ちゃえばオイラーの贈物もそうだし、瀬山士郎さんの本とか高瀬正仁さんの本とか木村俊一さんの本とかさ、こういうところに行けるわけじゃん?ホントだから雑なんよね。社会人向けの再入学の本って。あんなもん有害でしかないよな。
何しろテイストが教科書と同じなんだもん。まぁこれは洋書でもありがちなことだけどキャッチーなタイトルとか表紙で釣っておいてんで中身はテキストみたいっていうさ、これじゃダメだよね。やっぱ。読んでて楽しくなるような本じゃないとダメでしょ。そういうのを社会人は求めてるんじゃないの?ってところだよね。そもそも本を読みたいって思ってる人達が再入門するわけだから活字オッケーじゃん?高校生に教えるのとはわけが違うんだから。だからこそガンガン活字で攻めるべきだよね。しつこいぐらい基礎概念を解説しまくればいいんだよね。そうすりゃ高校数学のレベルのものなんて誰でも理解できるようになってるわけだから。あんだけ再入門書が出てるってことは大抵のもんが成功してないってことだよね。
あとさ、二次関数にせよなんにせよ行列計算を使ったほうが実は全然分かりやすいじゃん?アドバンスな技術を使ったほうが実は基礎的なことがもっと理解しやすくなるっていうさ、イプシロンデルタにしてもあれをいきなりやるんじゃなくてさ、解析をやりながら理解していく感じだよね。そういう意味でまぁ微積分にイプシロンデルタって組み込まれてるし、そもそも高校数学の範囲といってもそれが結局はアドバンスのレベルに繋がるわけだからそれだけで完結してないんだよね。
むしろイプシロンデルタが無い微積分なんてありえないじゃん?んでもこれは大学でやるわけでしょ?だったらまぁ微積分なんて大学のカリキュラムにすればいいじゃん!って俺はいつも思うんだけどね。で、ゴールとしてイプシロンデルタとかフーリエ積分とかさ、リーマン積分でもいいんだけど、連続的じゃないといけないよね。あと明らかに高校数学から大学への数学のバトン渡しができてないわけでカリキュラムが失敗しているのは明らかなんだからさ、大学の数学のレベルを下げるべきっつーかアメリカみたいにすればいいんだよね。中途半端に微積分とか三角関数に手を出すから高校数学が異様に難しくなったりするわけじゃん?あんなもん大学でやればいいんだよ。高校でやるもんじゃないよね。しかも文系とかに進もうとしてるやつらまで巻き込んでやるようなことではないよね。やらされたほうはつまらないしなんのためにやるのか分からないしただの地獄だよね。だから数学は嫌なものの代名詞になるわけだ。
あ、んでも量産されるプチ数学ブームに便乗したようなやつとか実際は再入門でもなんでもないやつとかとは違うんだけどメダカカレッジの本は基本的にいいよね。あれこそ再入門なんだよねぇ。
あとは結局、図解雑学シリーズとかさ、イラスト・図解シリーズとか、んでなんとなく掴めてきたら秀和システムのやつとかさ、結局、まぁこうやって断片的に拾っていけば社会人向け再入学系のセットって出来上がるんだよね。まぁ人のレベルにもよるけどさ、いや、やっぱしつこいようだけど再入門とかいっていきなりなんの前置きも無しに定理がどうのとかってどうかと思うんだよね。いや、だからホントこれまたしつこいようだけどなんのために誰のために出版されてんのかさっぱり分からないっていう。
あとやっぱ絶対「高校数学」なんつー恣意的な枠組みでリミテーションがかけられた変な範囲だけで勉強しないほうが良いんだよね。人によっては級数とかの感覚が異様に掴める人とか位相とか連続然りだけどさ、高校レベルの基本定理とかだって結局は高度なもんに繋がるんだよね。特に微積分なんてヤヴァイよね。色んな事が記述でき過ぎてヤバい。だからこそ色んな角度からの学習が必要なんだよね。で、実際知りたかったというか自分が興味があったのは力学だったんだ!とかさ、物理学全般だとかなんだとか色々あると思うんだけどね、そういう多角的な視点っつーのかな?そういうのをすげー狭めてるんだよね。ああいう変な範囲を狭める感じでね。
まぁ高校でも確率とか組み合わせ論ぐらいならいいと思うし、あれって別に数学で積み上げてきてなくても誰でもできるもんね。そういうやつをせいぜい高校ぐらいでやればいいわけだ。微積分とか三角関数とか無茶過ぎると思うんだよね。あんなアドバンスセオリーありきのものの最初だけ学んでも何にもならんよね。しかも恐らく本質が掴めてくるのって日本の大学で言えば後半ぐらいでしょ。三回生とか四回生ぐらいだよね。
実際、こんな書き込みを見た事があるよね。大学初年度向けにかかれたと思われる高木貞治の代数学講義が大学院ぐらいになってから面白く感じるようになったっつーか理解できるようになったとかさ、いや、これってリアルな感覚だと思うんだよね。解析概論然り。んでもどっちも当然基礎から入っているわけで別に高校生でも理解できないことはないけど、んでも理屈上理解できなくはないってのと本当に感覚として理解できるのって違うじゃん?まぁ相当な天才みたいなやつは別としてね。
あとあれだ、SFみたいな世界観満載でなおかつ数式が少なくてそんなに数学知らなくても楽しめるかもしれないって本だとマンデルブロのフラクタル幾何学だな。難しそうで手を出してなかったんだけど、あんなエッセイ方式で書かれてるなんて思ってなくてさ、それこそ変な入門書とかよりよっぽどいいと思うんだよね。いや、この「エッセイ」ってのがポイントなんだよね。定理証明方式ではなくエッセイで数学を説明するなり記述するっていうここだよね。
だからまぁ俺的に言えば専門書とか論文は別としても定理と証明の順番でしか書かれてない数学書に何の価値も魅力も感じないんだよね。単純につまらんのが多いからね。ああいうのが数学の無味乾燥なテイストを倍増させてるんだよね。あれじゃ絶対ダメよ。森毅ぐらいのユーモアが無いとダメだね。あとはある程度の文才っつーかなんつーかレトリックの上手さとかね、例えの上手さとかね、そこだよね。数学なんて客観的に存在しているわけだから書く側が何をしなきゃいけないか?ってそれを分かりやすく説明することだよね。
あとこれとか。
文字多いんですよ。マジで。良い意味で説明が長いのね。だから理解しやすくなってる。まぁドーバーってダンスマニアみたいなもんで当たり外れが激しいんだけどね。クズ本みたいなのも再発してたりするから。
これは別に文字が多いわけじゃないけどまぁ分かりやすいよね。実際は位相から実数とか連続とかって概念を掴んだほうが結果的に微積分も分かりやすくなるんだよね。ようは集合で理解するってことが本当に重要なんだよね。集合がマジで数学の理解を割と簡単なものにしてくれるんだよね。
まぁいいや。今日はそんな感じで。