行方不明の象を探して。その247。

彼女はじっと……しかし、かすかな尿の音が部屋を飾っている。かすかな尿の音が静寂を破り、すべてが雲の平坦な色になり宙に浮いている。昼間の窒息と赤褐色の汗で平坦になった地面と僕の局部全体と、地面も、僕の足元も、巨大な塊のような森の風景も、彼女は僕の上に乗って、そのすべてを抱いている。

 

僕は目の前の森を改めて見上げた。見事な紅葉だった。窓ガラス越しでなく、すぐ近くに見える紅葉は、さらに美しく見えた。まるでそれらの文字が消え、紅楼閣の遺跡となり、変幻自在の光景を形成しているかのようだった。。

 

建物の円形凹部で、折り目の底にいるのが、頭蓋骨の頂点だとしたら、できるだけ遠くに投げ出されたY点と正対していることになる。頭の存在を措定し、頭蓋骨の上に、できるだけ遠くに投げ出されたY点と正対する点を措定すると、そこに現れた空間に油断し、過剰な角度に目を奪われて、そこにいることができなくなる。

 

自分のいない風景を溶かして運び去る小川を、そしてそこに現れる空間に不意を突かれ、揺れ動くような流動的な総体の中で、あなたはそこにいないことになる。あなたの目をくらませ、あなたのいない手足の景色を分解して運び去る小川を通して、動いている3面を見極めた後、4面に顔を向けたときにあなたが体験する効果の絶頂は、多層的で強烈でしょう。

 

それはまるで時間の中の時間の衝撃を楽しもうとするかのように、それを受け入れる全体へと、ついに動き出したかのように。僕は彼女が椅子にしがみついているのが見える。言わば僕は彼女の息である。

 

部屋は広くないし、家具だって必要なものしか置いていない。誰かが実際にそこで暮らしている気配が全くないから特に汚れていないし、散らかるわけでもない。でも毎日隅々まで掃除機をかけ、家具や棚を雑巾で拭き、窓ガラスの一枚一枚にスプレーをかける。テーブルにワックスをかける。電球を拭く。家の中にある全ての事物を、本来それがあるべき場所に戻す。

 

なぜなら掃除をすることは存在の非線形性と結びついて、例えばカタストロフィー理論に見られるような、滑らかさや流動性は特に不連続性と結びつくものという現前性を表すのにもってこいの方法だからである。そもそもの現実は線形では記述できない、複雑でカオスで非決定論的なものだから、現実の「正確な」記述というよりも、むしろメタファーとしての自分を全面に押し出しているという意味で、全てがメタクリティカルであると言える。

 

食器棚の食器を整理し、鍋を大きさの順番に正しく並び替える。棚の中に積んである理念やタオルの角を揃え直す。コーヒーカップの取っ手の向きを揃える。洗面所の石鹸の位置をただし、使われた形跡がなくてもタオルを新しいものに取り換える。ごみをひとつにまとめ、袋の口を縛ってどこかにもっていく。

 

あるべき姿から少しでも逸脱した事象は、整理整頓によって正しい姿に戻されることになる。ところで、あるべき姿などという常識は社会的に構築されたものである。それは知るという行為とは無関係に存在するかどうかという問題ではない。

 

この問題は、時間には常に参照語があり、したがって時間性は無条件ではなく相対的なカテゴリーであるという前提とは対照的に、「辺実」の時間を仮定することによって答えられる。確かに、地球は地球上の生命よりずっと前に進化していた。問題は我々の知識の対象が、社会的な場の外で構成されているかどうかなのである。

 

記述の新しい戦略を開発しようとする試みは、言語的な表現がいかに本質的に複雑で、なおかつそういった複雑な問題を提起するものであり、解決策ではなく、事象を調査する記号論の一部であるかという、理論の理論に向けた認識を表していると言えるかもしれない。

 

そこに顕在化しうる象徴は記号の一部として振舞いながらも、常にあらゆる存在においての不可避なものとして、メタオントロジカルなレベルにおいて境界を越えて存在し続けるのである。

 

しかしそういったふるまいには神経症的な印象はない。それは自然なことであり、正しいことであるように見える。頭の中にはこの絵界のありようが鮮明に焼きつけられており、それを維持するのは、呼吸をするのと同じぐらい当たり前のことなのかもしれない。それともものごとがもとの形に戻りたいという内在的な激しい欲望に駆られているときに、ちょっと手を差し伸べてやっているだけなのかもしれない。

 

作った料理を容器に入れて冷蔵庫にしまい、コーヒーを飲んだ後、立ち上がって机の前に行き、ひきだしから小さな爪切りを取り出して椅子に戻り、右手の親指から始めて、左手の小指まで十個の爪を注意深く念入りに順番に切り揃えた。それからまた予め作っておいたサンドウィッチの中からキュウリのサンドウィッチを手に取って食塩を振り、食べた。

 

腹ごしらえが済んだので椅子から立ち上がって大きくのびをし、体のいろんな部分の筋肉をほぐした。しかしまだ腹が減っていたので、残りのサンドウィッチを全部たいらげた。キュウリが入っているものは一切れも残っていなく、あるのはハムとチーズばかりだったが、特にキュウリが好きというわけではなかったから特に気にしなかった。

 

「そういえば食べてないなぁ。最近。アメリカンドッグ」

 

と独り言のように呟いた。キツネ色の丸々とした揚げたてのドーナツ地にケチャップとマスタードをたっぷりとかけてかじりついた瞬間、一気に広がる熱々のソーセージの滋味豊かな味と香りが思い浮かぶ。

 

ガラクタを買って押さないと始まらない。なんという・・・喧騒。雨が降り出したようだ。

ぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらしてます。そして、どのようにプラッディングしていますか?どのようにぷらぷらしているのですか?

 

彼女が戻ってきたらこの子なら大丈夫。もう少しで。ぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷらぷら・・・。無欠点者の殉教者?罪なき者の屠殺者?むしろそれを無垢と呼びたい。

 

このことに気づくまで一晩中ベッドの上で寝返りを打った。とはいえ、実際には何が起こったのかを正確に知っている。それどころかかなり確信している。この出来事は起こるべくして起こったのだと。粉砕された展望ではないか。壊れた夢。

 

これをインポテンスといいます。罪深いインポテンス。これは弱さです。罪深い弱さ。

これは卑怯だ。罪深い臆病者。

 

緑色のベルベッドのベッドカバーが部屋全体を覆ってしまっているような、そしてその中で由香里の裸か白い陶器のランプになっているような、そういう眩暈を伴う感覚に襲われる。インポテンス?インポテンツと罵られたのだろうか?彼女の体の輪郭はずっと意識できないままだし、由香里の指が冷たいのか熱いのかもずっと分からないままだ。ファスナーが降りきった時に、由香里の顔がふいに上向きになり、自分のこめかみがぴ君と震えるのが分かった。

 

我が友よ、自由であれ。風が雲を吹いている。空の向こうが燃えている。由香里の小さな手。でもこれは小さすぎる。由香里のじゃない。また会えるかどうかは神のみぞ知る、です。君を抱きしめることができるかどうかこの腕で。君にキスしようかどうか。神のみぞ知る、その日、あなたを抱くかどうか、この荒れ果てたゴミ捨て場に

 

「つぶらな瞳のバカヤロー」

 

「続けて」

 

そこでシャツにアイロンをかけようと思った。こうやって頭が混乱してくると、いつもシャツにアイロンをかける。昔からそうなのだ。シャツにアイロンをかける工程は全部で12に分かれている。

 

それは襟に始まり左袖・カフで終わる。一つ一つの工程を注意深く進めながら、きちんと順序どおりにアイロンをかけていく。そうしないことにはうまくいかないのだ。三枚のシャツにアイロンをかけ、しわのないことを確認してからハンガーに吊るした。アイロンのスイッチを切り、アイロン台と一緒に押し入れの中にしまってしまうと、頭はいくらかすっきりしたように思えた。

 

少し疲れたのでまたコカ・コーラを飲もうと思って台所にいきかけたところで、いつもの悪い癖が出そうになるのを感じたので飲むのをやめた。というのも今みたいに例えば買い出しにスーパーマーケットに行かなければいけないとする。でもこうやって映画を観たりコカ・コーラを飲んだりしている間に時間がどんどん過ぎていってしまい、結果的に買い出しに行く気になれずに、冷蔵庫はほとんど空のまま・・・・・・ということがよくあるのだ。

 

ここでは自明性も崩れてしまって、それが空間的に客観的な形で存在するものなのか?と問うこともできなくなってしまうようなジレンマに陥ってしまっている。感性や知識といったものは、それは自然のものを意味するのではなく、事象との関係性を意味しているのである。冷蔵庫が空という事実も、もはや客観的な観察者として自然に対峙するのではなく、事象と人間の間の相互作用におけるアクターとして自分自身を見ているのである。