行方不明の象を探して。その248。

前に書いたように母親のあだ名を猿顔にするだなんて名家だったら「一家の恥だ」などと言われて切り捨て御免だったように思いますね。なんて息子だ!と。一族の恥だ!と。一家じゃなかった。一族だった。書き間違えた。

 

10年以上前のハードフロアの動画でアルバム制作風景みたいなのがありまして、それを見ていたらCycloneの303クローンを使っているじゃありませんか。もちろんオリジナルの303もあるんですけどね。だからオリジナルがどうとかって話じゃないんですよね。使いようなわけですよ。別にハードフロアが使っていたからいいってわけじゃなくて評価軸を自分に置くべきなんですが、でもやっぱりオリジナルの303には憧れますね。

 

TR-909の相場が百万なんですって!だったら80年代に戻って909を買い占めたくなりますね。でも買い占めたことで909が出回らなくなった時間軸を考えると然るべきテクノアーティストの手に909が渡らないことになりまさにテクノを作るべきアーティストが世に出なかったとかテクノをやらなかったという時間軸になるわけで私利私欲のために過去に遡って後にプレ値になる楽器を買い占めるなんてダメですよ。

 

そういうことはやっちゃだめです。楽器は人を選ぶと言いますね。そうなんですか?そうらしいですよ。必要な時に然るべき人の手に渡るようになるっていうスピリチュアルな話が多いのが音楽ですね。音楽はつまりは空気の振動なわけでバイブレーションだからなんだと思うんですね。スピリチュアルとの親和性が高いのは。

 

また小説の続きが分からなくなりますね、というか私が小説の一部なのでは?ってリアルに思っています。最近は生きているという感覚が希薄です。何かの中に漂っているという感じがするのであります。アシッドや文学で食っていくというのも物語の一部な気がします。それは私であって私ではないんですね。アカシックレコードに直接書き込んでいるのか書かされているのか、その辺どうなの?っていうところを突き詰める必要はあんまりないなって思うんですね。

 

アシッドで食っていくってLSDを密輸して生計を立てている人もアシッドで食っているということになりそうですね。そいつがブツに手を出してアシッド喰らいになったらアシッド取りがアシッドになっちゃいましたね。サイケデリック過ぎてもうわけがわかりません。わけわかめ酒でございます。

 

ヴィンテージギターと安ギターの聞き分けとかってあれですね、ベリンガーと本家303をブラインドテストしても分からないみたいな話ですね。でもギター系Youtuberとかってなんで何百万もするギターを買っちゃいました!って買えるんでしょうかね?どういうマネーのからくりがあるのだろう?LSD密輸しちゃいました!っていうアシッド系Youtuberにでもならないとアシッドで食っていけなさそうですね。アシッドで儲けた金で303買いました!とかいいですね。アシッドに次ぐアシッド。

 

でもアシッドってアレなんですよ、ビヨビヨがアシッドだからアシッドなわけじゃなくてDJピエールのプロトタイプのAcid Trax、Trakだっけ?のテープをかけていたロン・ハーディーのクラブ界隈でよく嗜好品として嗜まれていたのがLSDだからアシッドトラックって名前をつけたのであって303=アシッドではないのに結果的に303=アシッドになったしそっちのほうがしっくりきますよね。スマイリーにも歴史があってLSDのシートにスマイリーが書かれていた率が高かったという説もありますが、3割ぐらいがそうなんであって残りは動物柄だったりいろいろな柄だったりしたのでしょうね。

 

アシッドを作り続けてアシッドを聴きまくっていると再生していないレコードが再生しているように見えてきて音も実際に聞こえたりするからヤバいです。ノーアシッド・ノードラッグ。そもそもテクノってUR的なレジスタンス的思想がなくてもやっぱり低予算で今で言うハードオフで集めてきたジャンクで作った最高にクールな音楽!ってのがテクノだと思うので予算をかけた時点ですでにテクノじゃないっていうか、ローバジェットってポイントですよね。そこはパンク的なんですよね。拾ってきたギターでバンド組みました!ってのがパンク的であっても練習していないように見せるのもパンクであったりして努力家が多かったりするらしいですね。セックス拳銃も凄く練習していたそうですから。

 

俺みたいに楽典とか分からない馬鹿でもノリさえ分かれば作れるのがテクノの良さなんですよ。いまだにキーって何のことだか分からないし外れててもかっこよければよくない?っていうかキーがどうのって言い始めた時点でもう俺はそいつに冷めるんだよな。あーこういう理論派なんだって。いや、もうリズムがバーン!でウワモノゴーン!でアシッドビヨビヨでブリンブリンで!とかって感じで15分ぐらいで作っちゃうのがアシッドだと思うしテクノだと私は思うので分析的に作っている時点ですでに何かを失っているのであります。

 

ふと財布の中を見てみる。中には数枚の千円札が入っている。所謂、ピン札というやつだろうか、あまりにも新しいせいで本物の紙幣のようには見えなかった。事象やモノとの関係の自明性が崩れてしまったので、もはやどうでもいいことだ。かといってそれが本物の紙幣でない理由も見つけられない。それは分析を許さないもので、分析を試みてもすぐにその限界が露呈してしまうであろう。紙幣ではなくそれが事象として介入することによって認識されえるモノそれ自体を変更し、再構成するという事実から生じる対象はもはや切り離すことはできないということが自明になってくる。

 

ありえないような話ではあるものの、そのピン札らしきものを財布にしまった後、テーブルの上のフォークを手に取って意味もなく眺めた。長編小説と呼ばれるものから、こうした今の行為のような、無駄を極めるモノローグと行動をそぎ取ったら何も残らないだろう。というより文学から無駄をそぎ落としたら何も残らないだろう。

 

ピン札にインスパイアされたつもりはないにせよ、そのピン札で何かを買おうと思ったのだ。といっても所詮、あるのは数千円なので、まとまった買い物をするなら、どの道、支払いはカードになるだろう。スニーカーマニアであるが、使える金があると思うとすぐ買おうと思うのはもっぱらスニーカーだ。

 

スニーカーは消耗品なので、いくらあっても無駄なことはない。といっても無駄な分量を持っていて、履かないままでいるものが大半であるが、何より買い物の醍醐味と言えば買い物袋を持って家に帰るまでがたまらなく気分がいいということだろう。帰宅する通勤客に混じって吊革につかまりながら、今身に着けているものと新しく買ったものが合うのかどうかについて考えたり、それは単純にコーディネートについて考えたり・・・・・と言えばいいところを、新しいショーツと、新しいTシャツと新しい靴。とかって言いたくなってしまう。

 

ではなぜまだ天才ごっこを続けているのですか?錆びついてますよ。概念が。ダサいです。かっこいい錆びつき方じゃないです。厚顔無恥というやつです。気づいてはいましたが、こんなにいいガイドさんは初めてなので、聊か驚いているところなのです。「コンパスが船に言ったように」という諺がありますね。でもメタファーじゃなくってよ。コンパスの役割を果たすものが「言う」ことはありえることだわ。

 

棚の窓の後ろで彼は外のほうを眺めている。彼女は彼を見ない。彼女はレジのほうを向いている。彼は彼女については狸寝入りをしていることと髪の毛と長椅子の上の両脚しか見えない。彼はしばらく外に向かったままでいる。彼が振り向くと彼女が彼のそばにいる。

 

誰の姿も見えない。二車線の道路とその両脇についた歩道が、強くなりだした陽射しに照らされている。影はまだ長く、道の向こう側にある電柱の影が車道を横断している。車の通りも人の通りも、ない。ただ、ときおり砂煙が立っては、すぐに拡散していく。

 

変わってしまうのだろうか、変わっていけるのだろうか、これは考えたところでわからないのがわかった。世の中のものは必ず終わっていく。人の気持ちも終わっていく。学の友達も終わっていく。しかし、新たな環境は、新たな友達を作ってくれた。世の中は同じことの繰り返しなのかもしれない。

 

お望みなら、ここではもっとたくさんそういったものをお見せすることができそうですね。喜んで。じゃあ天才ごっこをやめた後は何をするつもりなの?やめるつもりはありません。錆びついてますね。コンパスが錆びついてるんじゃないですか?人はそういう幻想によって生かされています。何もないということが認められない?なんて不思議なんだろう。なぜそんな目で見るのかしら?ほとんど覚えていないようですね。そう言って彼は手すりのそばに立つ。

 

僕は両脚を伸ばし、レジカウンターにもたれ掛かる。肩を落とし顔を伏ふせる。頰が熱い。舌を動かすと鉄の味がした。バイクの走り去る音が聞こえた。オフィス。……気がつくと、パソコンが勝手にOSの更新をして再起動をしている。気がつく前に見てたお気に入りのエロ動画を探すのが面倒臭い。タブの履歴を押せばいいんだけど面倒くさい。

 

エンジン音がどこかで鳴っている。僕は静かなはずの住宅地を歩いていた。が、急にその音が大きくなったので、素早く顔を上げ、振り返った。道の左右に荒れた家が並んでいる。僕の右側には波打ったブロック塀が立ち、左側からは伸び放題になった生け垣が大きく道へはみ出している。無人だ。車両も見えない。

 

僕らはこのように偶然の大地をあてもなく彷徨っているということもできる。ちょうどある種の植物の羽根のついた種子が気まぐれな春の風に運ばれるのと同じように。しかしそれと同時に偶然性なんてそもそも存在しないと言うこともできる。もう起こってしまったことは明確に起こってしまったことであり、まだ起こっていないということはまだ明確に起こっていないということである、と。意味が無さすぎる文章でイライラする。

 

つまり我々は背後の「全て」と眼前の「ゼロ」に挟まれた瞬間的な存在であり、そこには偶然もなければ可能性もない、ということになる。しかし実際にはそのふたつの見解の間に大した違いはない。それは二つの違った名前で呼ばれる同一の料理のようなものである。これまた意味ありげでなさすぎて頭がおかしくなりそうになる。これは比喩だ。嫌いじゃないタイプの。

 

PR誌のグラビアに象の写真を載せたことは一方の観点(a)から見れば偶然であり、他方の観点(b)から見れば偶然でない。

 

(a)

 

PR誌のグラビア・ページにふさわしい写真を探していた。机のひきだしには偶然象の写真が入っていた。そしてその写真を使った。平和な世界の平和な偶然。

 

(b)

 

象の写真は机のひきだしの中でずっと待ち続けていた。その雑誌のグラビアに使わなかったとしても、いつかそれを別の何かに使ったことだろう。

 

「当たり前だろ、CMだのなんだので稼ぐならはした金だろ、それくらい。探偵に依頼したらもっとかかるし、おまえが自分でやったらいませっかく乗ってる時期なのに創作の時間を奪われるぞ。ここは俺に任せろって」

 

「お前の助けなんていらねーよ。小説ってのは高尚なもんだ。正座し背筋を伸ばし原稿用紙と格闘し自分の秘密や思想や汚辱をベースにして読者をおもしろおかしくときにはほろりときにははらはらさせつつ世界と握手する方法や世界を殴るつける方法を教えるのが本当の意味でのそして唯一の意味での小説だ」

 

彼は小説を書くことをミッションにしている者である。小説で食べているわけではない。小説は使命だ。そして小説を書くものである彼はその前にまず小説を読む者である。そして小説を崇拝する者である。崇拝とはまた大げさな言葉を持ち出したものだと言われるかもしれないが、彼の小説というものに対する思いを表現するにはその語は最もふさわしいのだ。

 

普通に彼は小説を愛好すると言うのでは彼の存在すること自体が奇跡であるようないくつかの優れた小説に対する尊敬の念が表現できないのだから。もちろん彼が崇拝するのは文学史上に残るいくつかの名作群であってすべての小説ではない。小説の中にはこれはただ数時間楽しめるだけだなというようなものが無数にあるのだ。

 

それどころかこれはなくてもよかった小説だなと思うものも無数にある。だがそういう小説も含めてあらゆる小説があってそれを読む人々がいてという現象の中から崇拝に値するものが出現してくるのだ。その意味ではすべての小説に存在する価値があると思う。

 

彼は小説を書いている。残念ながら彼が書く小説は奇跡的な高みに達しているほどのものではない。だがすべての小説があるその中からほんのわずかの名作が出現できるのだからそういう現象に参加できているという誇りと楽しみを感じることはできる。とにかく彼は一応小説家をやっている。そのせいでいくつかの出版社から小説雑誌やPR誌が送られてくる。象の写真を載せようと思いついたのもそのPR誌が送られてきたことがきっかけだった。

 

「静かなんだ。とてつもなく静かで澄み渡ってるんだ。時間が消え失せて世界は静止して俺と世界との区別がつかなくなる。俺は全てであって全ては俺なんだよ。それは完璧に満たされたという快楽だ。そういう時間が果てしなく続く。で、何時間だったのか分からねえけどちょいと喉が渇いたなと思ってひょいと枕もとを見ると冷たい水の入ったグラスが置いてあるんだ。これがまた美味えんだな。ごくごく飲んでるとそこへまたアヘン爺がやってきて「イート、スモーク」だよ。そしたらまた静かな完璧な時間が訪れて目を開けたまま気絶だ。そうすっと今度はああフルーツか何か食いてえなって思って枕もとを見ると山盛りにしたフルーツが置いてあるんだ。がっついてるとそこへまたアヘン爺が登場」

 

それは午前の一時頃だっただろうか。青い風呂敷に電灯がおおわれていたため部屋は海の底のように陰っていた。もしくはまだラリっていた。その部屋の中で身体一杯の快楽の為にたまらなくなっていた。別に何がそこまで楽しかったということがあったわけでもなく、少し寝がえりでもうてばまた身体に凄まじい快楽が訪れ、それは永遠のように思われた。とにかく意識してする身体の運動には全て快楽が伴った。

 

といってじっとしていられるわけでもなく奇声を発するわけにもいかない。しばらくぼんやりと青暗い電灯をおおった布切れを見つめていた。発火することはなさそうだった。安心した途端、また快楽のフラッシュバックに包まれた。そしてまた我に返った後、しばらく布切れを見つめていた。