行方不明の象を探して。その256。

僕はこの八重の花を、今より深く舌で吸い、奪われたあなたはしおれた獲物の海藻を持って帰るようだ。這いつくばるように、もっと下に飛び込んでくるように、鳥は海の果てでそのままのあなたを引きずって、彼らの開発のための袋に入れる。時計が長くなって、朝日が昇るように判断する。浅い出口にフィットし、泥沼になっていく。いくつかの漏れたものは抱擁をした。そして、穴の中の肺に触れることで嘔吐した。気分的にという意味で。

 

1ページに一つの短歌。ここ数年の日本の安易な出版社が大したことない余白だらけの本をあたかも分厚い高尚な本のような体裁で出版している感じのページの余白の多さを感じさせるものだったが、内容が短歌なので、そういう無駄に分厚くする本のような商業的な厭らしさは感じなかった。

 

デンタタの歌集には前書きや、あとがきのようなものは一切なく、出版の期日も記されていない。ただ白い紙の上に異様に広い余白をとって率直な黒い活字で印刷された短歌が並んでいるだけだった。しかしそれは凄いという意味ではなく、言語的な範疇を超えたものだった。だからどういうものだったのかということを文字であらわそうとしても無駄になってしまう。しかしそこに感動も驚きも何もないのだが、文字で書かれているのにも関わらず、文字による何かの表現ではなかった。

 

もちろん立派な文芸作品のようなものをそこに期待していたわけではない。あんなオマンコ野郎にそんなことを期待したら頭にウジが湧いて死んでしまうことだろう。前にも言ったように、ただ少しばかり個人的な興味があっただけだ。顔をタオルで拭いているときに、あれだけタオルに歯型がつく生き物が書いた短歌とは一体どういうものかのか、というエイリアンへの興味のようなものだと思う。

 

しかし短歌についてはほとんど知らなかった。今でも知らないし知ろうとも思わない。別に短歌をバカにしているわけではなく、特に興味をそそられる分野ではないからだ。だからどのような作品が短歌として優れており、どのようなものがそれほど優れていないのか、そういう客観的判断を下すことはできないでも優れているとか優れていないとか、そんな基準からは離れたところで、デンタタの作る短歌の全てが、言語的な表現とは全く違う異質なものであった。それはデンタタが人間なのか、怪物なのか、一体何なのかが分からないという、どこにも基準を置けないその存在自体のあやふやさと通じるものがあった。果たしてデンタタがそのあやふやさを表現しようと短歌を書こうと思ったのかは分からないし、短歌からはそういったことは分かりようがなかった。それは短歌について無知であるという理由ではなく、短歌に詳しい人が読んでも恐らく同じように感じたはずである。

 

不思議なことだけれど歌集のページを開き、そこに大ぶりな活字で黒々と印刷されたそれらの歌を目で追い、また声に出して読んでいると、デンタタのあの異様な佇まいをそのまま脳裏に再現することができた。黒魔術とかで何かを召喚するときに唱える呪文のようなものなのかもしれない。

 

しかし黒魔術の場合、それは合言葉のようなもので、決まったシンボルや必要なものを揃えたうえで、その言葉を口にすると悪魔が召喚されるというようなものに対して、デンタタの歌集は声に出した途端にデンタタの姿がすぐ脳裏に浮かぶという恐ろしい代物だった。それはデンタタからもらった歌集だからそうなのであって、誰が書いたか分からない歌集だったとしたら、そんなことはないのかもしれない。しかしそれを検証する勇気も友人もいない。

 

少し言葉で説明するとすれば魚臭いとかイカ臭さに塗れたオマンコ臭いという感じだろう。お笑いのコントなどでありえないような臭いセリフを吐いて笑いが起こるような、それをなぜ「臭いセリフ」というのかが分からないのに、なぜか我々はその「臭い」という感覚を共有している。デンタタの歌集の魚臭さもそのような臭みがあるものだった。

 

それでも、もし不運にあうとすれば、ときとしていくつかのデンタタの言葉が輪たちに残り、彼らは夜明けに丘の上に登り、女性器のかたちに合わせてほった小ぶりな穴に潜り込み、気配を消し、吹き荒れる時間の風をうまく先に送りやってしまう。自分でも何を言っているのかさっぱり分からない。そしてやがて夜が明け、激しい風が吹き休むと、生き延びた言葉たちは地表に密やかに顔を出す。

 

彼らはおおむね声が小さく人見知りをし、言語的な表現手段を全く持ち合わせていない。それでも彼らには証人として立つ用意ができている。正直で公平な証人として。しかしそのような辛抱強い言葉たちをこさえて、あるいは見つけ出してあとに残すためには、人はときには自らの身を、自らの心を無条件に差し出さなくてはいけない。本当に何を言っているのかさっぱり分からない。デンタタのイカ臭さの残り香と言えば、まさにこういった通俗的な「臭い」言葉の数々で、女性器の魚臭さを表現するしかないように思われる。

 

そう、自身の性器を、冬のゲッコウガ照らし出す冷ややかな石のまくらに載せながらオナニーしなくてはいけないのだ。あるいは他にデンタタが作った歌を記憶しているものなど、ましてやそのういくつかをそらで暗唱できるものなど、この世界のどこにもそんざいしていないかもしれない。そして決定的なのはそれが言語であって言語ではないので、アカシックレコードに記録されたいかなる言葉とも異なるということである。その凧糸で綴じられた薄いプライベート版の歌集は今ではみんなに忘れ去られ、一冊残らず散逸し、木星と土星のあいだのどこかにあるバニティに吸い込まれて消えてしまったのかもしれない。

 

デンタタの姿を見る限りあそこに吸い込まれる精子があるとすれば、それは全て虚空の中に吸い込まれて、虚無に受精して、その虚無から生まれるのが魂で、人間から生まれてくる人間というのはその虚無から作られた魂の器なのかもしれない。そんなことにいったいどれほどの意味や価値があるものか、それは分からない。正直言って、本当によくわからないのだ。何のために書かれたのかも、書いた全く意味を成さないかっこ悪い「やがて夜が明け」とか「正直で公平な証人として」ぐらいのバニティすらも、虚無に受精するには足らないぐらい、虚無感が足りないだろう。

 

しかしなにはともあれこんな恐ろしい歌集に接することができたのは不幸中の不幸だと言えるかもしれない。語尾の「しれない」もなんとかならないか?といつも思うのだが、また「のだが」を使ってしまったのだが、「言えると思う」だと思うと言われても、どういう理由で思うのかがさっぱり分からない。分からないということは明白なので「分からない」はいいだろう。

 

デンタタの歌集には文字の呪縛が一切ない。ただ羨ましくは思わない。人間をやめてサム・カインド・オブ・クリチャーになるぐらいだったらまだ人間であることを選ぶ。ジャズの日本盤なんかでも、曲を和訳するよりも「オンリー・ユー」とかのカタカナ表記にしたほうが、直訳するよりまだブサイクにならないだろうと思っても、やはり相当なブサイクである。

 

デンタタの和歌は顕著に、仮に濁点を使ったとしていても、一切の穢れがそこに無くて、でもそれは清いというよりかは、あのデンタタの姿を脳裏に浮かび上がらせるためだけに書かれたというような、「なのだ」から逃げたり闘ったりするような文字との格闘の気配は一切ないし、表現しようという気迫も一切ない。

 

ビッグ・ジョン・ノードが蹴るときに「ダッダッ」とか「ダシュダシュ」みたいな掛け声を発しているのに一切そこにバカボンらしさやバカボンの遠縁らしさを感じないのは、それが掛け声だから。あれ?ここって「だ」が抜けてません?とかは大きなお世話。言葉を刈るもの。特にバカボンやキートンを敵視している。でもキャラクターとしてのバカボンや人物としてのキートンに敵意は全くない。

 

罪深い「だ」。なんでみんな「なのだ」とか「なのである」という表現に違和感を感じないのか?言葉のエコノミー症候群になっていて、詰まった言葉の血管に気がつかないんだろう。Wordとかについてくる正しい言葉が使えているかどうか?を自動的にチェックする機能なんかも悪魔的な所存なんであって、正しさなんて相対的だし、それはモラル以外に正しさなどありえないわけだから、正しい言葉なんてのがあるわけないのに、それを直すように指示してくると言うのはそれ自体が呪いといっても過言ではないぐらいの圧力がある。

 

あのね、お部屋の中は暖かかったの。暖房が効き過ぎているから。ちょっと昔の病院なんかにあった、パイプがグニュグニュグニュって剥き出しになったスチームですね。こういう質感なのですよね。デンタタの歌集って。あら、言葉で説明できているじゃないと感心したかもしれませんけどね、そんなものではないんです。でもそれに近い。でも近似は近似でしかないんですよ。言葉としてそれを指せるものは何もないんです。例えデンタタの顔面にローターを突っ込んだところで何にもなりません。デンタタは

 

「アハハ。やめてくださいよ」

 

とかって例のジェントルな感じで軽くこちらのことを諭すでしょうよ。夏休み前、彼にお話ししましたね。お友達の中にはパパやママのいない間に彼のお部屋でオマンコしたりね、なんだかおうちに帰った時、顔にしっかりとそのことが書いてありそうで、だから抵抗があるものだけど、デンタタに至ってはオマンコそのものだから隠す必要もないし、よって、抵抗もないんですもの。

 

お部屋の中は暖かいのに思わず身震いしてしまいますね。見ると彼も彼の同胞も両腕をギチギチにして首を絞めていましたからね。窓ガラスに「オマンコ野郎」とやつの名前を書きました。通称ですけれども。続けてその下に今日の日付。本当にやつの歌集に衝撃を受けた日です。

 

「いつまでもこの衝撃を忘れることはないだろう:

 

という言葉も窓ガラスに書きました。デンタタは尋ねました。

 

「どうでしょうか?自分の歌集は」

 

「良かったよ」

 

と答えようとしたのだけれど、声が出ませんでした。重たかったわけじゃあない、デンタタの体重が。やつはスリムだから。程よい感じだった。きっと怪物としての存在の圧みたいなものをどこかに逃がしてくれているのだと思う。感動し過ぎていたわけでもない。そういう感受性を揺さぶるものでもないから。

 

答えることができないぐらいに一杯というわけではまだなかったし、でもやっぱり感動しているのかな?と思ったりもしたけれど、さっきまでがオードブルだとしたら、今がメインディッシュというぐらいの現前性がそこにあった。

 

やつの臭いは魚料理というよりかはむしろ肉料理という感じなのだけど、でも臭いはやっぱり魚臭い。だからあまり顔を近づけてほしくない。なのにどうして肉料理なのだろう。それまで閉じていた眼をうっすらと開けてみた。少し汗をかいているお爺さんが目の前にいた。

 

目と目が合っておじいさんは微笑んだ。多分、戦争を経験している世代なんだと思う。戦争を経験していない世代の初老のやつらは老害ばかりでどうしようもない社会の害悪になっているから、少し汗をかきながらもあれだけの微笑みができるのは戦争を経験しているからに違いない。そう思った。