ザ・シークレットを読み終えたんだけど、気に入ったのが全ての人間は振動するエナジーで、そのエナジーに集中すれば原子が変わって全体が変わるという比喩ね。これはまぁ現象学的にも言えるっつーかデカルトとかを思い出せば明らかなように、人間ってのは考える事ができるわけだし、思う事で自分を知覚するわけだから、その知覚自体をいじってしまえば主観(つまりは主体)が変わるってことなんだよね。で、このシークレットみたいなセオリーは別に論理的にセオリーが証明されなくてもいいのねっつーのはね、基本的にこれは主観の問題だから、仮に主体がこのセオリーに則って行動していた結果、色々なことが上手く行くんだったら、別にこれ自体が論理的に普遍的なメソッドである必要は無いんだよね。こういう風な考え方をすれば全てが上手く行くというような考え方のセオリーだから、その考え方自体が論理的かどうか?なんてのは重要じゃない。それは数々の宗教が科学的っつーか論理的に考えれば矛盾が生じるように、このシークレットみたいなセオリーも同じなんだけど、問題はそれが主体にとって上手く働くかどうかなんだよね。こういうのを読んでれば現実問題を簡略化し過ぎなんていくらでも言えるっつーか思うわけだけど、これと物事の簡略化は全然関係ないのね。主体にとってそれが効果のある思考法なのか?ということとセオリーが論理的に証明されうるものであるのか?というのは全然関係が無いわけ。
あともう一つ気に入ったのが戦争反対って運動は戦争を生むだけだから、平和を願う運動をしたほうがいいっていうね、マザーテレサが「反戦運動には私は参加しません。平和を願う集会があったら私を呼んでください」と言ってたのが象徴的なように、アンタゴニスティックな行動というのは何も生まないということだね。これはWallaceの「競争をしない」という原理に似ていると思う。あくまで自分は自分と考えないと創造性が生まれないように、敵/味方区別のパラダイムで何かを行っていても、その行動はその区別の中で終わってしまうということだね。シュミット式の敵/味方区別は国家が統治をするときに利用できるかもしれないけど、少なくとも人間のレベルでは害にしかならないってことだね。反戦というタームで言えば平和を願う運動をしたほうがいいってことだ。右翼/左翼区別で政治的な何かを考えるのがナンセンスなように、政治を考える上では「どうやったら善い社会を作れるのか?」ということを思考の軸にしたほうがいいってことだよね。こうなると右翼/左翼区別なんて本当にナンセンスなんだよね。なので「あいつらをぶっつぶせ!」とかっていうアジテーションや政治的概念ではなく、「善い社会を共に目指そう!」というような啓蒙的態度が政治的なものに必要ということだね。そう思うとオバマが特定の敵を作らないように振る舞いながら政治をやってるのはシンボリックだね。日本の罵り合いしかしない政治家どもは見習うべきだね。それは「オバマ凄いぞ!」ということではなく、オバマ的な政治の作法ね。
あとこないだの宇宙の話を繋げると、シークレットに書いてあった「我々はユニバースである」というスピリチュアルなメッセージもさ、まぁ勝手に俺流に解釈するとようはあれなんだ、こないだの脳細胞と宇宙の模様が似ている話なんだけどね、宇宙という意識を構成する細かい要素が人間であったり動物であったりするという結論に達したわけじゃない?まぁ俺としては凄い発見だったわけだけども、これを前に書いたように宇宙というものを有機体として考えるとさ、まさしく脳細胞とかの細胞と一緒で、その脳という器官によって良い働きをする細胞というのをさ、宇宙という普遍体は脳細胞が我々の意識とかに関わらず勝手に色々な働きをするように、我々宇宙の構成要素もさ、宇宙という有機体によって動かされている原子なんだよね。「動かされている」というと微妙な言い方になるけど、ようはさ、ユニバースは分かった人には良い働きをするっていうような考え方も、ようはユニバースにとって良い働きをする原子というのは体が毒物を排除したりだとか良い物質を積極的に取り入れたり使ったりするのと一緒で、我々が「良い原子」になればユニバースが「お、こいつ使えるな」って思って勝手に使ってくれるんだよね。いや、そこに意志は介在してないんだよ。毒物を排除するのに人間の意志が必要ないように、ようは毒物を排除するというダイナミクスは人体という器官によって担われているわけで、我々をそのユニバースを構成する器官の一部と考えると、例えば人間が笑った時に活性化すると言われているなんたらキラー細胞みたいなやつはさ、良い働きをするものとして体という器官からは歓迎されるわけだよね。もちろん細胞という意味で自分から腐っていって癌みたいになるやつらもいるけど、まぁ腐った政府とかってのは癌みたいなもんなんだよね。んじゃそれを取り除くキラー細胞は?っつったら市民なんだよね。
で、ユニバースという器官に「私は良い働きをする細胞です」と呼びかけることができたらユニバースはいくらでもそいつを活性化させて良い有機体を維持するために使ってやるってことなんだよね。そういった細かい細胞の意志次第ではユニバースにアクセスすることが可能で、むしろそのユニバースにアクセスすることでその細胞の活性化は促されるっていうね、その細胞の活動がユニバースにとっても細胞にとっても良いものであるわけだからなおさらそれは活性化されるわけ。まぁもちろんね、「良い事をしている」と勘違いして実は環境破壊をやってるやつらみたいなのもいるんだけど、まぁそういう細かいところを言いだすと成り立たなくなっちゃうんだけどね。あとは他にもありそうな批判が「ネットカフェ難民にこの本を読ませても効果がないと思うんですが」みたいなやつね。これも別にこの本自体が絶対的な力を持っているわけではないということなんだけど、ようは生きて行く上でのWillの使い方なんだよね。Power of willっつーかなんつーか、意識だけがその主体にとっての変化をもたらすことができるというさ、まぁさっきもデカルトを例に出して書いたように、なんつーか「I can, therefore I am」って感じなんだろうね。オバマみたいな言い方になるけど。
まぁ一種の洗脳だね。洗脳のプロセスと凄く似ていると思う。ただこの場合、ポジティブでしかも恐らく主体にとってプラスにしか働かないから良い洗脳なんだよね。もちろんそれはここで語られているという「良い」という価値観が西洋的なもので、多様な価値観を無視した一元的なものであるみたいな言い方はいくらでもできるんだけど、それはさっきも書いたようにそんなことはどうでもいい話で、主体にとってこれが役に立つのであればいくらでも利用した方がいいってことなんだよね。で、実際、ポジティブ/ネガティヴといったような二項対立から脱却できて、ポジティブがデフォルトになっちゃったりしたらそりゃー何もかも上手く行くだろうよ。少なくともネガティブでいるよりかは色んな能力を発揮できるし行動力も出てくるよね。そういう考え方へと導く方法というのが恐らくThe science of getting richだとかこのThe secretみたいな本のやり方なんだと思うよね。
いや、いきなりスピリチュアルに傾倒したりしているわけじゃなくてね、スピノザも言ってたように、感情ってのが唯一有害な感情に打ち勝つ要素なんだよね。EmotionとFeelingは似ているようで違う二つのものだけど、恐らく「感情を殺して」という言い方もあるように、感情を殺しながら生きていくというのは本質的に人間性みたいなのから乖離していくんだよね。マルクス的な意味ではないながらも似たような意味での感情面での疎外というのが、例えば「社会でやっていく」というようなことによる妥協から生まれてくるわけね。それはスピノザで言う「善」からどんどん乖離していくのと同じ意味ね。まぁ究極的に言っちゃえば、自分がやりたいと思う事をやるという事自体がまぁ俺も普段から書いているように常に「善」と付き合っていくということなんだよね。まぁ自分の善をやるというかなんというか。
感情的な疎外が起こるというのは例えばマルクスが言っていた、虚偽意識を持ちながら過酷な労働をしながら搾取されまくって年老いていった人間というのは野蛮な野獣みたいになるってことだけど、これは善からの乖離が著しく進んだ結果、人間性を失ったみたいなことだよね。実際、俺が底辺みたいなバイトをやっていた時にはこういう人間がいっぱいいたもんな。ただ正直、あまりに酷い人間ばかりで同情なんて全くしなかったけどね。こんなやつらこういうところにいて当然の人間だって思ったし、今でも思ってるけど、でもこれは卵が先か鶏が先かみたいな議論になるけど、もし彼らがそんな労働環境にいなかったらあんな風にはならなかったかもしれないわけだけど、かといってもしくは最初からああいうところに行くぐらいの能力しか持ってない人間だったかもしれないし、一概に社会が悪いとか労働環境が悪いとは言いきれないんだよね。まぁ劣悪な労働環境というのは人間性を捩じ曲げるというのは知っておいたほうがいいよね。これってすんげー危険な事だから。だって労働環境が野蛮な野獣みたいな人間を作り出すんだから、これは本当に危ないことだよ。底辺の仕事というのは元々そういうところにしか就く事ができないような人間という要素プラス過酷な労働環境があって、まぁあれだよね、野獣大量生産工場みたいなもんだよね。今はそんな劣悪な労働環境にいなくてもいいような人達までそういう環境に追いやられたり、それしか選択肢が無かったりしてるんで本当に由々しき自体なんだけどね。
そういった意味で少々宗教臭いかもしれないけど、今回取り上げた例の二冊の本は人間の善に物凄く忠実なんだよね。EmotionとFeelingの乖離を起こさないインテグラルでホメオスタシスが保たれた人生というのが善な人生なんだよね。で、俺のセオリーはそのホメオスタシスを保つツールが「自分のやりたい事」とか「求める事」っていう快楽原則に忠実なものってことなんだけど、まぁ結局まぁ例の二冊とかぶってるんだよね。ただまぁいいや。俺は俺で編み出したからそれでいいんだけど。で、俺のこの2冊の解釈はまぁ例えるならスピノザ的解釈ってことだね。まぁスピノザを意識していたわけじゃないんだけど、ハッと気がついたら類似性に気がついたっていうね。でも本質的に同じだよね。善という意味でもユニバースという意味でも、俺の解釈が極端に個人的な解釈によるものではなくて、根底が似ているってことで俺みたいな解釈も可能ってことなのね。
ホメオスタシスは善の実行でしか保たれないんだよ。その善が無い人達や見つけていない人達ややりようが無い人達がドラッグとか酒に溺れるんだよね。現実的な理想の世界を生きるか、幻想的な現実の世界を生きるかって感じだね。前者が善的生活で後者はイリュージョナルなドラッグや酒に塗れた生活ね。これは主体が選べる事だからやらない手は無いでしょ?って話がようはこの2冊ってことだと思うんだけど。
ってことで今日はこの辺で。
- 作者: ロンダ・バーン,山川紘矢,山川亜希子,佐野美代子
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昨日もオススメしたけどまぁ一応トピックに沿ってってことで。