言論の自由とか、あとは余談ですな。

あれから特によかよか書房側からメールとかは来てないわけだが。逆に事実を公表することでさ、まぁそんなに大規模なもんじゃないけど支持が得られるものってあるじゃん?「いや、どう見たって間違ってないですよ」とか「名誉毀損になってないですよ」っていう意見がある中であっちはもう強硬な姿勢なんてとれないじゃん?それこそあっちにとってマイナスになるようなことなわけだからもうやらないわけだ。俺は事実である限りは何でも書いちゃうわけだからさ、商売上もう俺に何もしないほうが絶対いいに決まってるよね。ただまぁ絶対中傷はいかんね。ようは事実無根なこととかね、詐欺じゃないのに「あれは詐欺だ!」とかそれは当然マズい。そんなのは普通に訴えられて当然なわけだ。相手がどんなやつだろうが法的に問題なければそれを詐欺呼ばわりしてはいけないよね。ただ事実を書く権利はこっちにはあるよね。そりゃー当たり前だよね。だって事実なんだから。ただもちろん尾ひれをつけちゃいけないし、事実を元にした創作なんかをやってもいけないよねって当たり前だけどね。


逆に事実が強烈であればそれは客観的であればあるほど威力は強烈になるよね。主観が介在していなければいないほどそれは強烈なものになるじゃん?事実は物語るみたいな感じで。そこで怒りとかぶちまけると説得力っつーか感情的になってるから言ってることの正当性とか分からなくなるじゃん?まぁ俺は意見は書いてるけどね。批判はしているけどめちゃめちゃはしていない。それは当然やったらダメだよ。相手が誰であれ。逆を言えばそれが事実なら公表して問題ないわけでしょ?殴られたら殴られましたって書いていいわけだよね。それを書く事が名誉毀損になるのはおかしいし、その殴った側が自営業の人かなんかで、商売に影響があるなんつって営業妨害で訴えるなんてことも当然おかしいよね。


いや、あれだよ。オリコンの訴訟あったじゃん?オリコン側に都合の悪いことを書いた烏賀陽弘道さんが訴えられたってやつね。結構前のやつだけど貼っておくけどね。


http://ugaya.com/column/061219oricon.html


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%BB%E7%83%8F%E8%B3%80%E9%99%BD%E8%A3%81%E5%88%A4


こういうのをスラップというらしいね。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%97


やはり名誉毀損は事実無根じゃないと成立しないってのがよく分かる。いや、まぁ法律に詳しいわけじゃないからなんとも言えないけど、今回のこともあるし、まぁ良い機会だから勉強してみようって思ったけどね。ホント、言論の自由に関わることだもんね。それにしてもオリコンクソだよな。こういうことをやると結果的にオリコンのためにならないわけじゃん?ってのがよく分かるスラップだよね。結果的に自分で名誉毀損やっちゃってるみたいな。まぁ関係無いけど日本の音楽関係ってことでジャスラックもクソだよな。本当に。なんかギョーカイ的なもんって基本的にクソなのが多いよね。癒着体質とか馴れ合いとかロクでもないのが多い気がする。だから嫌いなんだな。俺は。ギョーカイみたいなのが。


日本の蛸壺化している学会とかアカデミアとかも同じような批判があるけどまさしくこの日本独特の「ギョーカイ感」だよね。これが個々の島宇宙的な「世間」を構築していて、社会に出る側はその島宇宙化した「世間」を渡り歩かなきゃいけない。だから例えばギョーカイが変わると一気にロジックが変わるとかさ、凄まじい迎合と過剰なアダプテーションをしないとやっていけないみたいな。凄まじいストレス社会だよね。ギョーカイでやってる側は馴れ合いでやってればいいから楽なんだけど、社会的にそれがすげー害悪なんだって自覚してないのが本当に病的だよね。日本がどうもグローバルになれずに内的なもんに籠る癖があるのって大いにこの社会構造と関係しているよね。こういう独特の社会構造が人間の行動原理や思考回路を規定しちゃうみたいなさ、まぁそりゃーそうだよね。やっていく側としてはそういう回路でやっていかないと食っていけないわけだから文句言ってられないじゃん?


そういうのに迎合していくやつとかしかたないからやるしかないやつとか色々いると思うけど、まぁとにかく社会の病巣ですよ。これは。迎合する人間もしかたないから生存権のためにアダプトするしかない人間も腐っていくのは目に見えている。結果的にクズ人間みたいなのが大量に増えるわけだ。それが凄まじい国力の低下と国際競争力の低下を招くわけだよね。こういう体質は本当に改善していかないと日本ってリアルに沈没すると思うね。本当に能力があるやつはやっていきやすいアメリカみたいな海外に行っちゃうのも当然だろ。こんな陰湿なギョーカイ体質があったらやっていこうと思わないじゃん?


ギョーカイ同士の良い意味での協力的な関わり合いが生まれ辛いのも、この独特の島宇宙化したギョーカイっつー世間があるからだよね。丸山真男が言ってたことそのままみたいになっちゃうけど、つまりは俺がさっき書いた「独特のロジック」ってのはギョーカイ用語も当然ながらそのギョーカイでのみ通用している変わったロジックとか作法みたいなのがあるじゃん?それは一般的にっつーか普通から見れば風変わりかバカバカしいものであるんだけど、そのギョーカイではデフォルトなんでそれでやっていかなきゃいけない。芸人が先輩に収録前に「今日はよろしくお願いします」っていちいち言いにいくみたいなああいう感じね。中にはたけしみたいに嫌がって「やらなくていいよ」みたいに言う人もいるんだけど、やらないとキレる島田紳介みたいなやつもいるからどうしていいか分からないだろうな。


やっぱまぁ共通したロジックってあるわけじゃないですか?多少業界性があっても繋がり得ないぐらいギョーカイ内の独自のロジックが形成されているというのは発展的じゃないという意味で全然ネガティブだと思うね。何の利点も無いと思うね。


まぁ話を戻してだな、なんかさ、よかよか書房のことを家族に話したっつーか母と妹だけど全然無関心なんだよねっていうか俺が勝手に白熱トークしちゃう感じでさ、なんかすげーKYになっちゃうわけ。まぁ話の詳細とか書いてもしょうがないんだけど、ようは「まぁそういうところもあるでしょ」とか、「そんなことにいちいち腹を立ててもしょうがない」的な感じなんだよね。母はまぁこれに限らずまぁ俺が正義っつーとあれだけど、なんつーか正しさみたいなのを喋りだすとさ、「それは全部正論なんだけど社会に通用する正論じゃない」みたいなことを言われるんだよね。まぁなんつーか妥当な感じっつーか母を一般化はできないけど、でもまぁそんなもんなんだろうなって感じはするよね。むしろ何そんなに熱くなってるの?みたいな感じの冷たいシニシズムすら感じる。まぁ俺の言う正義と社会のロジックが合わないってことだよね。現実社会から見れば俺の言うことはナイーヴ過ぎる哲学青年みたいなやつの青二才の主張にしか見えないわけだ。


俺ってそんなに感覚おかしいのかな?まぁね、俺がこうあるべきだ!って思う社会の感じと現実が違い過ぎるってそりゃ分かってるんだよ。ナイーヴ過ぎるのも分かってる。でもさ、諦めたら終わりじゃね?っていう。「いや、そんなもんでしょ」って言っちゃったらもう終わりじゃん?世の中。で、俺は熱くなっちゃってさ、「そんな考えだから衆愚政治になるんだ!」とかってまぁ怒鳴ったりはしてないけどさ、格別母がそこまで馬鹿だとは思わないけど、でもまぁ仕事漬けで仕事以外何も無いみたいな感じだったらまぁあんな感じになるのもしょうがないかなって気がしていて。別に母に格別な期待を持っているわけではないんだけど、なんか俺の中の勝手な正義感みたいなのが空回りしてる感じで悲しくなっちゃったね。


そもそも社会はそんなに公正に出来てなくてデタラメだって分かっててもやっぱ俺は嫌なんだよね。それを認めちゃいけないだろ!ってのが凄くある。それこそ「こうあるべきだ!」っていうイデア的な理想の鋳型があっての政治とか世の中なんじゃないの?って思うわけね。現状がこうだからあーだから無理とかさ、それ言ったらおしまいじゃんね?状況がどうしようもないからこそそれを変えるような理想が必要なんじゃん?そういう意味でのイデアだよね。追求するに足る理想っていうか。ちなみにマキャベリアンってのはさ、あ、まぁ言葉として通ってるマキャベリアンって意味合いが違うけどさ、その理想のためには手段を問わないみたいなことだよね。つまりは目指すべき理想がなければそんなのただの狡猾なやつになるわけだよ。ちなみにグレーゾーンとかでも汚いことをやりながら利己的に生きるみたいなのがサイコな意味でのマキャベリアンって言われるじゃん?まぁサイコロジーでこの言葉が使われたからそれがメジャーになっちゃったんだけどまぁ本当にマキャベリアニズムってのは違うよね。


本当のマキャベリアニズムっつーかマキャベリ的思想ってのはさ、国民とか公共の自由とか徳を保つためなら手段を問わないみたいなことだよね。例えばすげー悪徳な商売をやっているところがあって、で、それが明らかに公益に反しているというか、その悪徳側がそれこそ通俗的な意味でのマキャベリアニズムを発揮して手段を問わずに金儲けをしたりしていたら、本当のマキャベリアンは公益というか公共の為にそこを潰すんだよね。それは法律的にはダメなんだけど公共のためにやるみたいな強硬さだよね。つまりはまぁちょっと言葉が難しいけど、根本的に善とか正義って感覚が無いとマキャベリアンにはなれないわけよ。サイコなマキャベリアンならいっぱいいるだろうけど、本当のマキャベリアンがいたらそいつは偉大な指導者や政治家になるポテンシャルを持ったやつだろうしまぁ事実向いてるだろうね。


そもそもそういう選択にはリスクがあるじゃん?でも公共のためにやるとかさ、フェアな意味では法律に反していなければ何をやってもいいのかもしれないけど、んでも明らかに国民の自由を害しているような行いやら活動やら商売をしてるようなやつらがいたら潰すっていうさ、んでもそこには法律みたいな客観的なものに依拠しない主観的な判断が介在するじゃん?それがつまりは善なり正義っていう概念に基づいていないとただの権力の濫用になるってことなんだよね。もちろん主観的な善とか正義が空回りして間違う場合もあるよね。その場合にはその判断を下した側が責任を取らなきゃいけないわけだ。マイケル・ウォルツァーが「Political Action: The Problem of Dirty Hands」ってエッセイっつーか論文で書いてることだけどね、まぁそういう意味での公益を求めるがためのリスクが高いダーティーなやり方ってのは政治には不可欠なんだよね。


そういう意味でカール・シュミットが言っていたような決断主義ってのは政治には常に必要なわけだ。それが独裁的であってもいいんだよ。全ての責任はその決断を下す側が取るという意味での決断はむしろ政治に必要でさ、生温い事を言っていて決断を先延ばしにしたりしてるから政治ってグダグダになるわけじゃん?優柔不断さだよね。法律だ人権だ俗っぽい意味での自由だあーだこーだって言って何もしないなんて一番ダメじゃん?そこをやっちゃうのが良い政治家だよね。まぁ怖くもあるけどそれが理にかなっているものなら結果的に国民にも支持されるわけだよ。まぁヒトラーってそうだったんだけどね。


歴史的にこういうのがあるから独裁=悪かというとそうでもないわけだ。独裁的なところにも良いところはあるからすぐナチスとかヒトラーとかスターリンを想起して独裁=悪と考えるのは思考停止的だよね。共通善を担保する為にやらざるを得ない独裁的な決断ってやっぱあるじゃない?かといって独裁容認でもないんだけど、かといっても独裁によって良い社会が育まれればそれはいいんだよね。つまりは俺が言いたいのは目的はあくまで善き社会なのね。統治形態なんて二の次だよね。俺が批判している民主主義もここなんだよね。民主主義が目的化しているのが思考的に凄くヤバヴァいわけだ。それこそデモクラシーというよりはデモクラシズムみたいなismになっちゃってるんだよね。それはマズい。民主主義にも難点はあるわけだから、完全に理想的な統治形態として思考停止的に看做すのはそれこそナチス的な危ない国家を作り出しかねないわけで、持っていなければいけないのは善き社会のビジョンだよね。つまりは俺が最初に書いたイデアだよ。善のイデアね。


いや、グレーゾーンでしか生きられない人がいるから・・・的な多様性はいらないよね。そんなの俺は無くなっていいと思うしっつーかまぁグレーゾーンで逆に市民の自由とか利益が担保されるものもあるじゃん?それはそれこそマキャベリアン的にそれは容認だよね。逆がダメなのよ。明らかに善くあるべき社会に対して良い作用をもたらしていないものを跋扈させるっつーかさ、法的に問題ないからみたいな理由とまぁあとは悪い意味での自由とか人権ってところで容認しちゃいけないんだよね。そこを決めるのが政治なんだよ。正義とか善は絶対的なものではないからさ、いや、それはイデア論と矛盾するんだけどね、


だからこそイデア的な善を見つけないといけないっつーかそれが見えてないやつが権力の座に就いたりするとダメなのよ。見えてるやつが下す決断はまぁ善いもんでしょう。必ずしもそうではないし、その善さに対しても常に懐疑的じゃなきゃいけないけど、それがつまりはchecks and balancesだよね。それこそ民主的なチェックだよ。もちろんまぁウィキリークスとか見るとさ、そういう風に国民を信じさせて実は酷い事をやっていたとかって普通にあるからさ、何を信じていいか分からなくなるんだけどさ、んでもそれはまぁナイーヴな意見かもしれないけど、まぁようは善の欠落だよね。明らかに何の為にもなってない殺戮とかを容認する権力なんてあったらダメじゃん?それこそそんなのを隠蔽するようなやつが権力者側にいたらマズいわけだ。だからそこは民主的なチェックをガンガン入れないとダメだよね。


そういう意味でウィキリークスって最高だよね。権力の濫用を防ぐ一種の良い方法だよね。checks and balancesのchecksの部分が強くなるっていいことだよね。まぁそんな腐敗したような権力者なんて殺されてもいいわけだしさ、まぁ戦前の右翼は殺してたわけだよね。まぁ実際それが本当に悪い政治家だったかは分からないから暗殺って難しいんだけどさ、そういう意味でこのすげーなんつーか緊張感のある関係性ってのが権力と市民の間に常に無いといけないんだよね。まぁ暗殺良し!なんて書いたらなんか問題あるんだろうからかかないけど、まぁ市民によるchecksは度が過ぎることは無いよね。


まぁ逆にそれが入り過ぎるから本当の意味でのマキャベリアン的なことができなくなる場合もあるんでその辺は難しいんだけどね。バレたらマズいんだけど、結果的に公益とか市民のためになっているということがあるのであればそれは隠匿されていたほうがいい場合もあるでしょ?左翼とかがギャアギャア騒ぎだすとアレだから隠しておくほうがベターな情報もあるとは思うんだけどね。そもそも完全に潔癖な政治なんてありえないんだから。この辺は難しいね。いつも書いててこれといった答えが出ないっつーかなんつーか。


まぁ今日はそんな感じですね。



「Political Action: The Problem of Dirty Hands」はこの本のChapter 17に収録されてるです。



簓型と蛸壺型の比喩が出てるやつがこれね。