行方不明の象を探して。その244。

その恐ろしさの源泉は彼が感じている虚空とは別の存在自体の虚空をハンバーグセットに感じていたからだった。ハンバーグの現前性の凄まじさは一瞬の認識であって、慣れてしまえばどうってことないし、それ自体が彼を圧倒することはなかったのだが、彼がハンバーグの中に虚空を感じたときに彼は恐怖に恐れおののくのだった。

 

しかし虚空を感じてもそれが彼を覆いつくすことはなかった。虚空を感じた瞬間にすでに倦怠が来る。多くの人にとっては倦怠とは気晴らしの反義語であり、気晴らしはなぐさみであり忘却であるが、彼にとっては倦怠とは一種の現実感の欠如、不充感、もしくは希薄な状態なのである。一応寝なくてはいけない。しかし寝れない。

 

何かをやろうとすると余計に寝れなくなくなるので寝ようとする。しかし寝れないということに飽きてしまう。寝れたら寝れたでよかったのかもしれないが、寝起きには相変わらず緩やかな闇と虚空が広がっている。それは呆れるぐらい客観的でどうしようもない。そういうものだと納得するしかない。

 

事物が突然に生気を失いしぼんでしまうかのように感じることがある。しかし生気などは元々ない。生気があると一瞬でも思えばそれは急速な連続的変化によって生気を失う。この不可能な現実の不条理性はどう足掻いても変えようがない。そういうものだからそうだと受け止めるしかない。ポジティヴシンキングは長く続かない。何しろポジティヴやネガティヴという二項対立の中にいるわけではないので、そういった価値観が彼に介在することは一切ない。

 

それは起こったことによる価値判断や捉え方という意味では役に立つし、そういった意味では彼は非常にポジティヴな人間だ。ネガティヴさの非生産性を身に染みて経験しているので、なんでもポジティヴに捉えようとしている。しかしポジティヴもネガティヴも存在しない中立地帯では解釈の余地が無い。ただ「それ」として受け止めるしかないのである。

 

しかしそれが彼の目に入らないことはありえなかった。無から出現してそれはそこに在る。それは自信をもって落ち着き払った大胆さをもって立っている。展開している。それの中心には破壊することのできない何かがあった。解体することが不可能で

 

しかし彼の目より少し遠いところで現実に起こったこととは共通の尺度を持ち合わせていない彼のデッサンからは本当に出てくるものは何一つなかった。彼はもはや言葉のまえにいるわけではなかったし、それらと対決させられているわけでもなかった。彼は彼の側におり言葉は言葉の側にあった。

 

同一の深みに引き移り同一の素材の中に巻き込まれて彼らは二人なのかどうかさえ分からぬままに中に吊られ開かれた状態にとどまっていた。こうして彼は他の様々な記号の中で一つであり、もし自分が歩いたり話したりすればそれは彼がその中に自分を見ている起伏、それらの言葉がそれ自体を見ることなしに生じてくる起伏との関連においてでしかないのを彼は感じていた。彼が後ろを振り向き自分を探しても無駄だった。痕跡ひとつ彼は見出さなかった。そのくせ変わったものはなにもなく、すべてが暗闇の中で続いているのだった。

 

テクストのかたわらに立っている彼を指し示し、その一句は彼ではなく誰かのことを語っていた。そして虚はいくつかの時がお互いに入れ替わる移行であった。それは禁じられた生活だった。それは他の誰かにとっては副次的な眠りにおちこんだイメージでしかない。昔の衝撃は彼が手で押し付けていた壁、場景全体を決定的なものにした重さにのしかかられて、あたかも彼の表層が揺らぎ、波と呼ばれるものの固い塊を見出したかのようだった。そこにはすべてが揃っており、外に出たときのゴムに溶かし込んだかのような空気が、彼の背後にあったものを目撃するような、ある扉が急いで開かれ、閉じられたかのような印象を与えた。

 

それは本当の言葉を思い出させ本を抜け出させた。現実と虚構が入れ替わる瞬間。それよりも現実が虚構の二次的なものでしかないという認識。絶えざる変化にも関わらず場所も時も表現もそれほど定着しているものなら、この企てがどのように続けられようとも、それは重要ではない。

 

本質的なことはずれに注意し立ち戻ってくる衝撃に注意することだ。その衝撃を起こすパルスは彼の計算ではとらえられないのだが、その効果は即座の最終行としてなにものにも妨げられない堕落として現れる。彼の前で絵がかき消されたかのように不明瞭な衝撃の無い不動化の形を取ることもある。

 

彼は瞬間から沈黙へと書き続けなければならない。たとえそれが夜に消える曲線であったとしても、彼の意に反して、言葉が振動して多くの時間に戻ることになる。瞬間から永遠への引用、参照事項、アダプテーション、そのままのコピー、古ぼけて見えるクリシェ、ダサいフレーズ、あらゆるものの差別が無くなったところに完成しえないものが収束する。

 

表現は彼が窓越しに眺めている彼らの存在の反映の中を動き回り、絶えずあふれ出ることで彼に動機づけを与え続ける。それがある限り彼が枯れることはない。しかしその奔流に悩まされ続けることになる。あらゆるものに合った描写を求めながら彼は沈黙の中に沈み込んでいく。

 

しかしそれは彼に仕向けられなければいけない必然であった。彼はむしろ空間を思い出しながら内部に留まり続けるイメージを思い出した。そこは真昼の部屋に光が台所の小さな窓から入り込んでいて、そこのテーブルで彼は少し前に食事を済ませ、喉の渇きを思い出した頃には瓶は空になっていた。この不合理な瞬間ごとに繰り返される動きを表現の短い沈黙の中に封じなければいけない。

 

その上で書くとはイリュージョンにおびやかされる孤独の断言のうちに入り込むことだ。そこに永遠の繰り返しが君臨する。時間の不在の冒険に身を委ねることだ。イリュージョンにとらえられつつ、言語を排列することだ。また言語を通して言語のうちにあってあの絶対的な場と触れ合っていることだ。不在の上に描かれた形だったものが、この不在の何の形も持たぬ現存となる。もはや世界が存在せず未だ世界が存在せぬ時に存在するものへと通ずる透明で空虚な開示となるのだ。

 

ここに来て長いの?いいえ、でもほぼ毎日来ているんです。ここが好きなの?好きとか嫌いとかではなく、必要性によってここに来るだけです。逃げ場のないところから?そこから逃れることはできないです。この話、ご存じないのですか?いや、ずーっとその話ばかりでした。

 

光線は強烈である。彼女は何の動きも示さず、その唇は固く結ばれている。顔色は青白い。店内のどこかである生き物の気配がする。客が近づいてきても彼女は何の身振りもしない。彼は壁の方に行き彼女の横に腰をおろす。彼は彼女が見るのをさけたがっているかのようなものを眺める。彼女は彼の方を向く。むこうのほうでは客たちがレジの真ん中で立ち止まっている。それからまた歩き出し店内の通路のほうに行く。彼女はレジのほうに顔を向けている。彼の方は奥の棚のあたりの遠ざかってゆく男の姿を眺めている。

 

僕の暗い公園のベンチで、歩き続け、ただ歩き続け、一歩を踏み出した。足音を立てながら、次々と深い闇の中へ。いつまでも歩いている。フロントローンでくつろぐのに最適な場所を選ぶことだけが、悩みの種だ。膝丈のコートのポケットに両手を押し込み、顎を上げる。幻覚なのか、光の当たり方によって完全に亜麻色と灰色がかった青になるのか、よくわからない。俺、オラオラあたし、スジスジ僕、みたいな感じで。中学生の頃から白人が多かったので、言い訳にならないようにしたい。

 

フローリングと白い壁がまぶしいくらいに明るく清潔な空間。黒い夜が沈むと窓は空っぽになる。骨身にしみるような濡れた冷気が、たくさんのマジックワードの間をかすかに吹き抜ける。

 

未来の時について、主よ、あなたのほかにそれを見た目がありますか?あなたに誠実で待ち続ける者のために行動するのは、あなた自身である。しかし文学はこの支配的な視点を拒否し、他の秩序に依存することも、それによって象徴されることも一切拒否している。 バートルビーでは謎は純粋な文章から生まれる。それはコピーのものでしかありえない。

 

あなたや作者はそうしない方がいいと思う。この文章は我々の夜の親密さの中で語っている。否定的な好み、好みを消し去り、そこに消される否定、すべきことの中にないものの中立性、抑制、頑固とは呼べない優しさ、そしてこのいくつかの言葉で頑固さを凌駕する言葉。その言葉それ自体を永続させながら、じっとしている。

 

そして痛みとともに思考することを学ぶ。 思考は即効性があるように見えるが、しかしそれは学問と関係がある。我々は十分に目覚めていない。我々は覚醒を越えて目覚めなければならない。それは痛みであり、分離である。しかし目に見える形ではなく静かに言葉の背後にあるノイズを静めるのである。永久に続く痛みは失われ忘れ去られる。

 

それは思考を苦痛にしない。それは自分自身を慰めることを許さない。天と地が共に消え、昼と夜がそれぞれ他のものの中に入ってしまった、その不可解な顔の微笑みは、もはや見ることもなく、帰るべき人が帰ることもなく、全てをその人に託す。書かれた言葉の中に我々は生きてはいない。

 

文字が告げるのではない 「これで終わりだ」と言うのではなく、 しかし、それは我々の不和であり、不安定な言葉の贈り物である。永遠を共有し、それを一過性のものにしよう。まだまだ語られるべきことが残っている。輝く孤独、虚構の空虚、繰り延べられるエクスタシー、すなわち象。書くことは祈りだ。だから俺は祈り続ける。