行方不明の象を探して。その245。

あなたの生活の細部にまで一貫して対応し、夜に落ちていくのは、深さそのものなのである。僕はここにいると知ってほしい。未来への追求は好奇心から来るようで、線となる真紅の探索、鴨に串を刺す色の探索が行われる。彼女は、まるで何かが喉から飛び出しそうな勢いで、身もだえするように呻いた。まるで彼女が、叩き落とされた衣服の放射線に過ぎないようだった。彼は口で彼女の頬を愛撫し、彼女を畏敬の念で見つめた。彼女は別の体から、「一瞬でもあたしの体を雑にしない方に向かって」とメッセージを発した。初心に帰りたい。

 

そして、彼女を黙らせることは不可能になり、彼女の声、いや、彼女の扉を聞くことは不可能になった。彼女を蝕む痙攣の一つ一つを分解していく中で、その上、沈黙させることは不可能である。彼女の声に形を与える筋肉組織を覆うことがもはや不可能になったのと同じように、僕の中で何かが動き出した。僕はもう自分の意志でそれを抑えることができないことを知っていた。

 

そのマヨネーズに好奇心を呼び覚まされたものの、結局、それが手作りのものであるのか、市販のものであるのかは確かめることができなかった。だからこのサンドウィッチにおいても確かなことは言えない。良い包丁でカットされていたと確信はしていたものの、他の人間にそれを尋ねたときに同じ意見が帰ってくるとは限らない。もしくはそれ以前の問題で、良いサンドウィッチに良い包丁が不可欠なことに同意するとも限らない。

 

しかし確実なのはサンドウィッチ伝いに伝わってくる我が聖域の心地よさだ。ほんの一瞬ではあるが、この椅子に座りながら貧相な飯を食べていても、このサンドウィッチのように最高のものに感じられるし、何よりこの家の主は自分なんだと感じることができる。想像を膨らませていけば、自分はこの椅子によってお屋敷の主にでもなれるだろう。

 

そんな儚い妄想を続けながら、暇を見てはマヨネーズの作り方と良いサンドウィッチについての定義を考えていた。それと良いサンドウィッチには良い包丁が不可欠なのか?という必然性についても。

 

しかしながらその問いに答えるのには永遠の時間を要するような気がしていた。これはただの取り越し苦労なのではないか?でも良いサンドウィッチの定義を他の人間の意見によって曲げることなど考えられないことだし、考えれば考えるほどその定義は、思っているものというよりも昔からあらかじめ定められていたのだという確信めいたものに繋がっていった。

 

それはただの人間には理解しようのないものなのかもしれない。でもそれが故に考えることが必要なのだ。そうとも。確実な定義なんてクソ食らえだ。ずーっとその辺を漂ってればいい。誰も君のことを気にしないし、自分の定義に従ってサンドウィッチの良さを規定し続けるであろう。

 

君はさっき僕が蔑んだような、ヴェブレン的顕示的消費にかまけていて、全く配慮が行き届いていないただの安っぽい椅子の如く無害にして無音なのだから。仮にその椅子が軋んだところで、その軋みはジョン・ケージの4:33におけるピアノの開閉音のようなものだろう。

 

その無音がここにいるとわかっているときほど、独りになれたと思えるし、あらかじめ定められた、不可知の良いサンドウィッチの定義にしても、かのような人間が考えるために与えられたものだのだと納得ができるし、上質に配慮された椅子に座って食べるサンドウィッチほど高尚なものはないと確信を抱くことができる。

 

ああ、最高に配慮された椅子よ!君が望む限り君の上に座ってあげるよ。椅子選びにはうるさい人間がお節介にも君を批判したところで、賢明かつ幸福なる精神状態は続いているはずだ。だが世の中では往々にして、狭量な連中がひっきりなしに運んでくる軋轢のせいで、この上なく寛容な精神の最良とする椅子やサンドウィッチの定義すらも擦り切れてしまうのである。たしかに、一歩引いて考えるなら、確固たる良いサンドウィッチや、それに不可欠な良い包丁の存在や椅子への病的なまでの配慮を目にした人たちが、何らや言いたそうに色々と文句を言いたくなるのも分からなくもない。

 

このままでは野暮だ。このままでは、野暮な小説家だと思われてしまう。そのような非難を受けることを考えると、彼女はぞっとした。フィクションの無慈悲な解体をもたらすためにがんばってんのに。

 

それは椅子への配慮が彼らの尊厳を踏みにじるように映るからなのだろう。あからさまに顕示的消費を批判したりはしない。ただ椅子への配慮が遠回しに彼らの顕示的消費を批判しているように感じられるのなら、それは自然の成り行きとしか言いようがない。批判無き批判である。椅子への配慮という状態が表す現象が批判を生み出しているだけで、そこに主体性など存在しないのだ。

 

それにしても、あれほどよくできたサンドウィッチを食べたのは久しぶりだった。間違いなくそれは椅子のおかげもあるが、普通だと思っていたサンドウィッチの質に対する神経質なまでの配慮を配らせるのもまた、この聖域のなせる技である。座っているのが椅子なのか、椅子が座っているのか、妄想を膨らませていけばキリがない。

 

「この椅子、やけに重いな」

 

引っ越し業者の兄ちゃんがそんなことを言う。重過ぎるから二人がかりで運ぼうと言っている。しかし椅子である。人間の重さと椅子の重さ=自身だから重いのは当然だ。

 

「積むの後にしよ。これはとりあえずここでいいや」

 

兄ちゃんはそう言って引っ越し用のトラックの前に放置した。放置されている間、前を通り過ぎる人たちは誰も椅子だとは気づいていない。長い放置状態の後、積み荷に載せられた他の荷物に囲まれながら誰にも気づかれずに椅子として存在することを許される。そこには無産者としての存在せず、ただ選び抜かれた椅子というモノの存在がある。

 

椅子としてのどういった場所に置かれるのがベストなのだろうか?と積み荷の中で考える。色々と考えた末にやはりベストなのは不特定多数の人間が座るかもしれない場所ということになって、公共施設やホテルのラウンジの中に配置されるのが一番いいとある。ただここまで選び抜かれた椅子が他のありふれた椅子と同じように配置されるということはありえないので、公共施設に置かれるという期待はあまり持てなかったものの、不特定多数を相手にするという可能性は秘めたままであった。

 

まさに「我」が膨れ上がり、分離し、音もなく破裂する場所だが、自分の姿は見えない。それを信じたものは見向きもせずに殺してしまう。ご迷惑をおかけして申し訳ありません、とラーメンを切り裂いて騒ぐ。世界の腐敗を確認するため、世界の終わりの群衆の中に埋葬され、終末の群衆の中で、名乗りを上げる。否定される楽しみを確認するために。

 

息の奥に耳を澄ませながら、森を歩けるようになりたい。その息は、まるで首から下を切り落とされたようなものであろう。精神に投影された全てが、世間一般の正しい歪み方への疑問であるかのように、すでにすべての尺度から逃れた大きなイルカが、木の表面にぶらさがっている。それは、過去を持たない、言い換えれば、身体を持たない、手段を持たない、争いの深さである。つまり、紙が燃えているようなものである。

 

不思議なのはその期待が不特定多数に注がれていることだ。それは自分好みの女が座ってくれたら興奮するというような人間的な期待ではなく、モノとしての役割としての期待なのだ。中年男性が腰をかけてスマホをいじっている、とか、初老のおばあちゃんが

 

「よっこいしょーはぁーやっと座れたわ」

 

なんて言いながら座ってくれたらレーゾンディートルは満たされる。まず性的ではないということが重要だ。ミニスカの女子高生がだらしない姿勢で気だるそうに座っているなどという妄想はあまりに人間的過ぎるし性的で極めて低俗な妄想だ。モノとしての椅子は座られてこそ価値がある。

 

色々と聞きながらあれこれ勉強して……というところからも抜け出したいものだ。だって、

窓とか、木とか、扇風機とか、禄を見る川面とか、些細なことにも象徴的な価値があるんだから。川面を見つめるまでもなく、自然はそれらを僕のイメージに映し出し、椅子は一つの夢から別の夢へと移行できる場所だったのです。海岸線のゆっくりとした回転は、僕にルインズを感じさせます。吉田達也のドラムは絶品です。彼はひとつの音ではなく、やわらかく断続的に多数の音を紡ぎ出す。