存在論みたいな話。

ウォール伝に学術的なフレーバーを入れようとは思わんのだけど、説明する時に便利ってことでまぁ引用なんだけど、クーラント/ロビンスの「数学とは何か」の76〜77ページからの引用なんだけどねっつーかこれ英語で持ってるんだけど長過ぎて挫折したんだよね。で、今は時間あるしまぁ数学やりたいしってことで66年に出た邦訳が安かったんで買ったんだけどまぁいいや。で、引用なんだが

数学的対象をわれわれが謙虚にその性質の探求している"物自体"とみなす素朴な"現実主義的"な進み方を見捨てて、これに代わって数学的対象の唯一の適切な存在性はその数学的性質およびそれらの相互結合の関係にあることを確認することである。対象が数学活動の領土に入る際に問題となるすべての側面がこれらの関係と性質によって尽くされるのである。われわれは物理学が観察不可能なエーテルをあきらめたように数学的な"物自体"もあきらめるのである。これが、無理数とは入れ子の有理区間の系列のことであるという無理数の"内在的"定義の意味である。


俺が言ってる形而上学的な意味での数学とか仏教の真理ってこれなんだよね。つまりは存在性ってのは相互結合の関係にあるってことなんだよね。まぁ仏教で言う所の縁起だわな。俺が言いたい西洋哲学とか仏教とか所謂、西洋とか東洋みたいな文化とかが関係無い一つの真実性みたいなのがつまりはこれで、最近読んだ本で野内良三の「発想のための論理思考術」って本の最後のほうにまさしく言いたいことが書いてあってさ、「偶然を受け容れる推理」って章なんだけどまぁとにかく仏教とロジックの繋がりというか一体であるってことがよく分かると思うんだよね。


俺はこの著者ほどの細かく説明できるようなアレが無いからっつーかこれはまぁ全体的に良い本だし是非読んでほしいんだが、いやね、実存っつーか存在全般の話に戻るけど、なんつーか物理的に存在しているものってさ、物理的な存在の定義を与えがちじゃん?いや、ここにあるじゃんっていうような即物的な存在性ね。触ればあることがわかるし何より俺にもキミにも見えてるでしょ的な感覚的な存在性ね。でもこれってのは物理的なものなんであってこういうものでは存在性って定義できないわけよ。


いやね、例えば自然数で言えば2ってのは抽象されたものだよね。まぁ金玉の数でもいいし、腕とか脚とかの本数でもいいし、まぁ何でも2を帯びているもののその2を規定するtwonessみたいなもんだよね。犬らしさならdognessで鳥らしさならbirdnessみたいな意味でのtwonessね。onenessって言葉はあるか。単一性とか同一性という意味になるけど、これは1という数字が持っている属性によって意味が与えられることによって単一性とか同一性という1という数字を利用した意味合いという属性が生まれるわけだよね。ようは1というのが1ということを定義していて、それは数的に1ということだけではなく、それが単一であるとか同一であるというある種のメタ的な意味合いも含むことになるわけだ。即物的に言えば1というものはそれ以上でも以下でもないんだけど、でも意味論的に見ればそれは単一性なり同一性なり、あとはまぁセックスとかで男女が一つになるみたいなさ、そういう意味合いを含むものになるじゃん?


でもそこに1という実際の存在は無くてあくまで観念としての1が存在するのみだよね。それはセックスで男女が結合して一つになろうが、片足切断して脚が一つになろうが、そこに1という数の属性と与えられる意味合いがあるだけで1そのものはないでしょ?一つになった脚は触れるし、セックス中の男女もまぁ触れるけど、んでもそこに1は無いでしょっつーかそれは1を触ったことにはならないよねってまぁ当たり前だけどね。なんか比喩的に説明しようとしてモロ失敗した感じだけどまぁいいか。まぁこの1という数なり意味合いが生まれてくる条件というのがつまりは1を定義するような何かが生まれた時とか属性が発生する時っていう瞬間的なものなんだよね。まぁ脚が一本になったら二本にはならないだろうけど、でもまぁその人っていつか死ぬだろうし、まぁその人の一本脚の1って永遠のものではないじゃん?でも意味を与える1という概念は永遠だよね。まぁ永遠の定義にもよるけどまぁいいか。


つまりはまぁ関係と性質によるってことなのよね。で、一気に話が戻るけどね、実は物理的存在も一緒なんだよね。仏教で言えば自我がつまりはそんなようなもんなんだよね。関係性なり色々なものの結合なり縁起ってものによって発生しているものが自我というものであるんだけど、でもそれは一本脚とかセックスで一緒になった男女の同一性が持っているonenessと同じぐらい存在的にはあやふやなものなんだってことだよね。で、それは別に自我に限らず存在全般そうなわけだ。それはあたかも無理数が内在的定義の意味でしか定義できないように、存在全般の定義もまた内在的定義によっての意味でしか定義ができない。だからそれは存在というよりかはそれは何々と何々に関連する何々の系列である・・・・みたいな記述が永遠と続くような系列の意味なんだよね。


だからまぁ存在というにはほど遠いっつーかさ、身近に感じるような存在ってそれほど存在性は無いってことだよね。で、それはそれこそ無理数の存在と同じぐらいそれって存在って言えるわけ?って思えるぐらい抽象的なものなんだよね。まぁパイでもeでもいいんだけど。いや、まぁ無理数っつーか数全般と同じぐらい抽象的ってことね。まぁ恐らく抽象度では自然数と実数って度合いが違うけど、でもそれって主観的じゃん?まぁ実数のほうが圧倒的に抽象度は高いけど、んでもまぁ度合いはどうでもいいんだよね。いや、今回俺が書きたいことについては別に抽象度の度合いとかは関係無いってことね。


こういうまぁ存在論というか実在論みたいな観点に立ってから、まぁ数学的に言えばそれは数字の定義みたいなもんだし、仏教で言えば縁起とか空みたいなことになるし・・・っていう文化とか哲学によってこの真実性に対応するものがあるってことなんだよね。だからそれは仏教とか西洋哲学とか数学がその実在なり抽象性なりに先立っているわけではなくて、その曖昧さというものがあって、そこからその曖昧さを記述する仏教なり数学なりっていう、まぁ方法とか扱い方は違うながらも抽象的な存在である何かってのを扱う概念装置みたいなのが生まれるってことなんだよね。


まぁそういう意味でその存在とは言えないような曖昧なものってのがまぁ俺的にはイデアなんだよね。それは恐らく一般的なイデア論とは違うのかもしれないけど、俺的にはこれこそがイデアなんだよね。だからまぁ別に存在するとかって言えないし、信じる信じないの問題でもないっていう。ただ言葉的に有る無しでは答えられないんだよね。まぁそれだけ抽象的で曖昧過ぎるものだからなんだけども。


んー微妙だけど書こうかなぁ。ここで止めておけばいいのにってことになるかもしれんけどまぁ書きたいから書く。いや、最近さ、ギター始めたでしょ?始めたっつーかまぁアートリンゼイの完全コピーするためだけなんだけど。で、関係無いかもしれんけどさ、なんとなくけいおん!を見たんだよね。そしたらまぁすげー面白くて。ああいう感じのやつって好きじゃなかったんだけどようはあれもさ、属性としてのまぁ最近の風潮であるキャラとか萌えっぽい感じとかっていうまぁ一種のフォームだよね。でもギャグとか笑える感じとかが結構フレーバー的にクレヨンしんちゃんとかちびまる子ちゃんみたいな色々なアニメの日常だけどアニメの世界でしかないような面白い日常感を描けているって意味ですげーな!って思ったんだよね。仕草とか動きとかすげー細かいじゃん?そういうところでアニメを成立させてるのがすげぇーな!って思ったわけね。全然馬鹿にできないなっつーかそこそこ流行ってるっつーか人気があるやつってやっぱその人気の理由があるよね。とにかく本当によくできてるなっていう。


で、なぜか勢いでかんなぎとかも見てみたんだけどさ、途中だけどまぁようは本当にフォーマットだよね。高校生で日常を描いてるっていうさ、まぁかんなぎの場合、非日常的なものがあるけど、俺が言いたいのはキャラなんだよね。まぁフォーマット然りなんだけど、ようはなんかさ、かんなぎの美術部の部員にもけいおん!のキーボードのお嬢様みたいな雰囲気があるじゃん?っつーか似過ぎだよねっていうのがあるでしょ?別にオリジナリティが無いとかって批判するつもりはないんだけど、ようはその存在性なんだよね。それはつまりはおっとりしていてお嬢様っぽい感じの口調で髪の毛が長い・・・みたいな永遠と記述が続くようなものでそのキャラ性とか存在性みたいなのが規定されているっていうことなんだけど、つまりはこれはアニメの世界における内在的定義の意味だよね。


まぁもちろん元を辿ればどっかに元ネタがあるんだろうけど、でもそれは概念なんであってさ、存在じゃないじゃん?そういう概念が具現化したものとしてキャラってのが生まれるわけでさ、ただそれは存在というよりかは属性とか記述とか定義なんだよね。いや、そこでアニメの世界がイデアの世界だって簡単に言うつもりはないんだけど、でもある程度はそれが言えるんだよねっつーのがつまりはアニメっつーか特にかんなぎとかけいおん!みたいなある意味でティピカルな最近の日本のアニメっていうところで言えばそうなのね。それはなんつーか非常にそれが概念の組み合わせであるとか属性の組み合わせなり構成であるっていう構造的な感じが顕著じゃん?


いや、イデア構造主義がcompatibleというわけではないんだけど、でもイデアが構造を生み出しているという意味で、その構造の源流はイデアにあるんだよね。で、そこで構成されているものは結局、最後の最後までイデアなんであってアクチュアルな感じの存在らしい存在性ってのは与えられないわけだけど、んでも見ている側はvividな感じの存在感ってのをキャラなり世界観に感じるわけでしょ?そこでスパークする感じが萌えであったりまぁ現実逃避であったりするんだけど、そういう意味でまぁ数学の厭世的な感じってのもつまりは数学をイデアだと仮に定義してしまえば構造的には一緒なんだよね。存在と言える存在ではないけど、でもまぁあるものとしてなんとなく知覚されていて、んでそれだけで世界観なりが形成されていてハマる人はそれにハマるみたいな。


で、それが現実的に意味が無いか?というとそうでもなくてまぁ数学で言えば理論が物理学なり経済学に応用されたり、アニメでもそれが経済効果を生み出したり、実写の映画になったり同人誌になったりなんなりっていうのがあるじゃん?まぁ理論的な応用と物理的な応用なり派生を十把一絡げにするのはどうかと思うけどまぁいいや。まぁ意味論はいいか。現実的に意味があるかないか?なんてここではどうでもいい話なので。まぁその源流がイデアですよねってことなんだよね。実在も何もまぁ存在も内在的定義の意味でしかないっていうさ、んでいきなりまぁ仏典の毒矢の比喩を引用するけどね

「毒矢のたとえ」
ある人が毒矢に射られて苦しんでいるとしよう。
彼の親友や親族は医者を迎えにやるであろう。
しかし当人が「わたしを射たものが、王族であるかバラモンであるか・・・
丈が高かったか低かったか・・・弓や矢はどのような形で、
材料は何であるか、わからないうちはこの矢を抜き取ってはならない」と語ったとしよう。
それではこの人はやがて死んでしまうであろう。
それと同様に、もしある人が、「世界が常住であるか、無常であるか、
といったことについて、尊師が断定して説いてくれない間は、
修行はしないであろう」と語ったとしよう。
しかし、わたし(ブッダ)はそのことを説かないのであるから、
その人は(毒がまわって)死んでしまうであろう。
               (『マッジマニカーヤ』)

ってことなんだが、まぁすげー飛躍するかもしれんがね、オタクが二次元の美少女に恋をしていてさ、んで薮から棒な感じで「なんで三次元の女性に恋をしないのだ?」みたいに言う人がいるじゃん?でも別に本人が良ければそれで良いっつーシンプルな話ではあるんだけど、そもそも二次元に対して実在とかリアルなものという意味で三次元の女性というものがある種の対比としてあたかも良いものとかリアルなので必要なものみたいな意味合いを与えられていたらそれは本当にただの寝言だってことなんだよね。


存在ってのはイデアとか曖昧とか抽象的ということでしか説明できないというよりかは「言葉では説明できません!」って結局まぁ形而上学に終止符を打つことでしか存在を定義するというよりかは頭で理解することができないように、そもそも個々の頭の中に顕在している存在というのはもう個々の頭という時点ですでに概念になっているわけだ。だから人のことを忘れたり名前を忘れたりあとはまぁ脳内麻薬補正がかかってやたら綺麗に見えたりハンサムに見えたりするわけね。でもまぁ目覚めてみると別にそんなに可愛くなかったとかかっこよくなかったとか、まぁそんぐらい知覚を通した存在の理解なんてあやふやで抽象的なもんじゃん?そもそも頭の中で変わるってことがおかしいよね。だから人によって見方が違うとかってことになるわけ。そもそも客観的な人格みたいなものの存在性なんて存在しないわけだ。


あの人はあの人を高く評価しているけどあの人は低く評価してるとかさ、まぁそれは評価が主観的だからだよね。で、つまりはもう主観ってことがすでにその人の頭の中に形成されているその人の存在ってことになるわけでさ、まぁ言葉の乱用になるかもしれないけど、「イデア」ならぬ「アイデア」だよね。実際は意味合いは若干違うけどでも似ている語感のものとしてイデアとアイデアってさ、ごっちゃにしたくなる感じ分かるよね?まぁそれは区別されているけどものによってはそれが曖昧になることもあるんだよね。


んーまぁようはあれだな、物質性とか物理性がなにも存在性の強さっつーかあり方みたいなのを規定するわけではないってことだよね。全ては概念でしか理解できないから、だからまぁ普通思うような存在らしい存在なんて無いんだよね。つまりは色即是空ってことだ。全ては空なんだから別にそこに存在性の現実度なんて無いじゃん?だから別にそれがその人にとって頭の中とか心の中でその人の定義による存在として認められているものならそれはその人にとってはそれは存在だよね。


まぁもしくはアクチュアルなものっていうかさ、まぁエネルギーで言えばそれが生きる希望になるっつーか活力になるってことだったら二次元萌えで別にいいんだよね。三次元じゃなけりゃいけないなんてことはない。別にリアル女性と付き合わなきゃいけない道理なんて無いわけで。いや、それでも俺はね、個人的なことを言えばやっぱそりゃー三次元の女性と恋をしたりまぁ付き合うってことが人生に強度になったり特に今の俺みたいなやつにとっては経験になるし頭ごなしに否定できないものであるから強度って意味で俺はまぁリアル恋愛を志向するけどでも別にそれは俺の考え方だから「こうあるべき」みたいなべき論ではないんだよね。個人的な恋愛に対する考え方だから。


でも世の中はこういうまぁ形はどうであれリアル恋愛を志向するっていう方向性っつーか正当性みたいなのがアプリオリに決まってるじゃん?でもそれはイデオロギーだよね。つまりはまぁそれもアイデアだよ。何かの抽象的な源流があるイデアだよね。それがイデオロギーを形成して通念みたいになるわけだ。このあたりの通念の強さっていうか通念が社会を支配する感じってギュスターヴ・ル・ボンって社会心理学者の「群集心理」って本で上手い感じで書いてあるからまぁ良かったら読んでみて。アフィっておくので。


あ、んで毒矢の比喩なんだけどね、いや、何が言いたかったか?っていうとさ、何で二次元がいいの?とか三次元じゃなきゃいけないの?なんて結局オントロジカルな形而上学になるんで、そんな議論はどうでもよくて、いや、どう苦しみを取り除くか?ってことが重要なんだよね。いや、生きるって本当に大変なことだからさ、だから利己的というか煩わしさが無い二次元で恋愛欲やら性欲は満たすみたいなある種の合理的選択があったってそれはその人にとって生きることの苦を取り除くとか、人生に楽しさっつーか生きる意味とかエネルギーを与えるものなんであったらそれでいいじゃないってことだよね。


実際、まぁ三次元も経験して二次元に行く人もいるけど別にそれは逃避じゃないと思うんだよな。そもそもなんで三次元がメインという設定になってるのか?ってことだよね。いや、そこで俺が言いたいのはそれはイデオロギーでしょ?ってことなんだよね。だからそんなので二次元萌えを批判するなんてお門違いもいいところなんだよね。まぁかといって別に俺自体は二次元萌えでもなんでもなくて普通に恋愛がしたいって意味で仮に大学行くなら女の子が多い大学のほうがモチベーションが上がるみたいなこともあって理科大やめようと思ってるなんてこともあるんで別にまぁ身を徹してオタク擁護するつもりがあるわけでもないし二次元に格別の思いがあるわけでもないんだが、ただオントロジカルに言えば三次元のリアリズムみたいなのを振り回して二次元否定するのはイデオロギー的な暴挙ですよってことが言いたいわけね。


それだったらまぁ学問とかさ、役に立たないような抽象的な何かを研究してる人達も「リアル社会に生きろ!」みたいな感じで批判されなきゃいけないよね。でもそれは無いのがまぁようは学問ってもんが得ているある種のまぁ権威っつーか名声じゃん?例えばポール・エルデシュの人生の「数学」の部分を「ゲーム」とかに変えたら一気に尊敬できなくなるよね?ただのニートだろっていう。まぁエルデシュは数学でありえない業績っつーか社会貢献とかしてるしさ、そもそも人間的に変わっているけどまぁ凄いヒューマニストっつーか凄い人って意味でまぁニート扱いするのはアレだしまぁニートじゃないんだけど、ようは俺が言いたいのは対象が高尚なものとされているものだとなぜかオッケーで下世話なものだとされているとなんでダメなのか?ってことだよね。これもまたイデオロギーなんだよね。一方では先生扱いされて一方ではオタク扱いされる。


そのまぁ所与の通念が与えている一種の縛りだよね。まぁコントロールだよね。いや、そういうのは本当にやめたほうがいいと思うんだよな。法律とかモラルに触れない範囲で個々の自由を尊重するべきなわけで。まぁそこでいつもの労働の話に戻ったりもするんだけどねぇー。やってることは意味の無い穴掘りでも出社したりまぁそれらしくサラリーマンっぽい生活をしながら意味の無い穴掘りをしていたらなんで社会的にオッケーなの?ってことだよね。いや、もっとコンテンツ見ようよっていう。で、実際意味あることとか有意義なことをやってる人なんて限られてるじゃん?それはホリエモンも言ってたよね。経済活動と社会貢献みたいなのを両立させてる人っつーか本当に必要とされていることをやってる人なんてごく少数で大抵はまぁ利己的な生きるための経済活動のための労働しかしてないでしょ?っていうさ、だからまぁ意味無い組織に属してやる穴掘りやってるってだけで美徳とされるのはどうかと思うよってことなんだよね。


これもまた意味論的に言えば全くナンセンスなさ、二次元か三次元か?ぐらいまぁ意味合いを与えること自体がナンセンスなことなんだよね。穴掘りは穴掘りなんだから会社に属してようが出社してようがまぁ別に一緒じゃん!ってことだよね。肝心なのは意味っつーよりかは本人がそれを良しとしてやってるか?ってことじゃん?納得して経済活動として穴掘りやってるのかさ、まぁそれが苦を回避する最良の方法としてやってるか?ってことだよね。結局はまぁ苦痛からの回避でしょ?衣食住を失いたくない的なことじゃん?ただそんな利己的な目的なんだからさ、他に自由な価値観で生きている人間に対して「労働」みたいな穴掘りを盾にして攻撃しないでくださいってことだよね。


もっと社会貢献しなさいってまぁすげー社会貢献してる人から言われるなら分かるけど、俺はそんな人に会ったことがないねっつーか俺の生き方とか生活を批判してくる人達の中でってことね。利己的な自分の生存のための経済活動しかしてない人にしか批判をされたことがなくてだからpersuadeされたことが一度も無いということね。そもそもマズローとかも書いてたけど社会貢献とか実存的な充足を組織で成すなんて無理なことなんだよ。まぁそれでもやりたいならやればいいとは思うけどさ、んでも会社に入るとか労働をするってことと社会貢献をごっちゃにするとかって本当に馬鹿げてるんだよね。あとはまぁ税金収めてないみたいな理由で批判したりだとかさ、ファシズムかよ!って話だよね。こういうところから「ニート=ゴミ」みたいな世論が形成されてんでそれが通念になっていくわけじゃん?


で、ニート問題なんかの根本的解決とかがされないまま「ゴミをどうするか?」とか「ゴミをいかに社会更生させるか?」みたいな話になるんだよね。だから根本解決ができない。まぁニートにもニートなりがあってさ、引きこもりとか無職とかまぁ色んなのも含めてニートみたいな扱いされてるけど、それもそうやって一緒くたに社会のゴミ扱いするっていう世論とかまぁ通念という名のイデオロギーなんだよね。それもまたつまりは観念ってことなわけで、全くそれが本当に真実なのか?とか言えていることなのか?なんて厳密な検証はないじゃん?だからまぁ俺は群衆ってもんにいつも嫌悪を感じるんだが。まぁそれはパンピーとかって意味じゃなくて、個々の知性とかパーソナリティとか関係無しに表れてくる群衆っていう一種の現象ね。これが怖いというか嫌いということなのね。俺のパンピー批判も全部基本的にこれね。別に他の人々を個人単位で卑下したり憎んだりなんて無いんだよね。群衆というダイナミズムが大嫌いなんだよ。俺は。それは現象なんであって人格ではないんだよね。


それこそファシズムというイデオロギーの源流は大衆の念っていうつまりは「念」っていうアイデアなんだよね。それが世論を形成して社会を縛り付けるかのようなものを作り出すわけじゃん?でもその通念とやらもアニメの世界とかキャラ並に実際的ではないっつーか現実的ではないっていうかさ、いや、ただの観念なのよね。それがリアリティを形成してるわけだ。だからリアリティって恐ろしいですよねぇーってことになってちょっと繊細なやつはそういうのに嫌気が指して家に引き蘢ってしまうっていうのもダイナミズム的に理解できると思うんだけどなぁ。まぁ引きこもりの全員が繊細なやつとは限らないけどね。本当の意味でのグータラもいるわけで、まぁその辺はもっと研究しないとダメだよね。前にも書いたように引きこもり学とかニート学みたいな分析の体系があってもいいと思うんだよね。それこそ世界的に見られる「現象」なんだからさ、個々の怠惰とかパーソナリティに批判なり分析の矛先を向けるのはおかしいよね。もっと大局的な見地に立たないと現象の成り立ちなんて見えてこないでしょ。それもまぁ成り立ちっつー縁起なわけでそれは現象なんだから問題が特定の自我とかに還元されるものじゃないわけよ。


っつーかまぁそれを言いたいために今回のエントリーを書いたわけじゃなくて、まぁ存在論みたいな話を書こうと思ったんだけど、まぁ途中から止めようかなぁー・・・とか思いつつ書き始めたところからアニメと存在みたいな話になったけど、まぁ前半だけで止めておけばよかったのかどうかは分からんけどまぁ書きたいことは書けたからまぁいいとしようって感じですね。今日は。


ってことで今日はこの辺で。