行方不明の象を探して。その265。

「つまりね、一人で酒を飲むたびにあの話を思い出すんだ。色んな銘柄のウィスキーを飲んでいれば、何かマドレーヌ的な瞬間が訪れるんじゃないかってね。でもそれは大きな間違いなんだ。プルーストをそんな解釈で読むと退屈極まりないものになってしまうんだよ。生まれつき感性的で、想像力を持っていないような人は、それにも関わらず、素晴らしい小説を書くことができるだろう。他の人が話してくれる苦しみ、それを予見しようとする彼の努力、その苦しみと二番目の人物が作り出す葛藤、それらのすべてが知性の解釈によって想像され、創作されたものと同じように美しい本の素材となりうるだろう。でも僕が問題なのはここなのさ。僕には想像力がありすぎる。しかも感性的過ぎる。それが行き過ぎている場合、小説は書けないんじゃないかという気がしてくる。感性に依拠した知性が、記憶や想像力よりももっと深く、豊かである領域があるとプルーストが主張していたのにも関わらず、記憶や想像力が僕を邪魔するんだ。いや、邪魔してるんじゃないのかもしれない。知性に依拠した感性なのか、感性に依拠した知性なのかも、自分ではよく分からない。僕は文学機械になりたい。受け止めたものをすべて文学として出力したい」

 

彼女はため息をついて目を閉じた。

 

「いい年して何言ってるの。あとそういう長い話をすると嫌われるわよ」

 

「文学ってのはさ、始まった時にもう終わってたんだよ。先には屍があるだけで、屍を拾うことでしか表現なんてできっこない。でもその屍すらも乗り越えた人たちがいて、その先にあったのは何もない不毛の大地だったんだよ」

 

「いずれにせよ、あなたが書いた小説なんて誰も読みたがらないと思うわ」

 

「読む必要なんて何もないよ」

 

うんざりした気分でそう言った。彼女の口調には苛立たせる何かがあった。もっともそれを別にすれば、彼女は少しばかり懐かしい気分にさせた。古い昔の何かだ。象かもしれない。そう。あの感覚・・・あの瞬間・・・。もっとごく当たり前の状況で巡り合えたとしたら、もう少し楽しい時間を過ごせたかもしれない。そんな気がした。しかし実際のところ、ごく当たり前の状況で女の子に巡り合うと言うのがどういうことなのか、まるで思い出せなかったし、一番好きなのは、可愛い男の子がまだ幼い睾丸で頑張って作った精液を我慢できずに出してしまった時の表情だ。あの顔に比べたら女性など比較にもならない。

 

「何時?」

 

「9時」

 

彼女は枕元のたばこを手に取って火を点けると、ため息と一緒に煙を吐き出し、突然マッチ棒を開いた窓から港に向かって放り投げた。

 

「着るものを取って」

 

これだから女とのセックスは嫌いだ。特にこの後の部分。こういうのにうんざりしてるから少年とのセックスがより崇高なものだと思えるのだ。少年はこんなことは言わないし、どこかバレたらいけないっていう罪悪感を常に抱えている可愛さがある。女性はセックスを当たり前のことだと思っている。それがつまらない。

 

「着るものってどんな?」

 

彼女は煙草をくわえたまま、もう一度目を閉じた。

 

「なんだっていいのよ。お願いだから質問しないで」

 

目の前に大きな白い球が現れたかと思うと、その部分が霞んで見えるようになった。ちょうど彼女の顔の部分にその白い球が重なって、顔だけが見えなくなって、身体だけが見えるようになった。

 

ベッドの向かい側にある洋服ダンスの扉を開き、少し迷ってから袖の無いブルーのワンピースを選んで彼女に手渡した。彼女は下着もつけずに頭からすっぽりとそれをかぶり、自分でジッパーを引っ張り上げてもう一度ため息をついた。

 

「もう行かなきゃ」

 

「何処に?」

 

「仕事よ」

 

またあれが来た。ロカンタンのアレだ。吐き気とも眩暈ともいえるような、キーンとロカンタンを足して二で割ったような感覚。割ったものが嫌いだ。ハイボールとかを呑む連中はイカれている。ビールの水割りを飲んだことがあるけど、バドワイザーのような薄い安っぽい味のビールをさらに発泡酒のような下品さを足したような味で、こういうものから逃れたいのに、こういうものはいきなりやってくる。だから回避できない。

 

彼女は吐き捨てるようにそう言うと、よろめきながらベッドから立ち上がった。ベッドの横に腰を下ろしたまま、彼女が顔を洗い、紙にブラシをかけるのを意味もなくずっと眺めていた。部屋の中はきちんと片付けられてはいたが、それもある程度までで、それ以上はどうしようもないといったあきらめに似た空気があたりに漂っていて、それが気分をさらに重くさせた。あれだ。あれ。まさにあれ。

 

外ではまだ雨が降り続いていた。ほとんど目にも映らないほどの細かく静かな雨だった。窓の上の軒をつたうようにして落ちていく水滴が見えなければ雨が降っているのかどうかもよくわからないところだった。ときおり車が窓の下を通りかかり、舗道を覆った薄い水の膜をはねていく音が聞こえた。こんな描写なんてAIで一発だ。

 

互いの歯茎をチュパチュパしているのをカメラが捉えると、モヨン。モヨン、モヨン、と言っているうちに、突然、折りたたまれた男性の顎の皮膚の一部がその時、突然、男性の顎の皮膚の一部を折りたたんだものが出てきて、嫌悪感を覚える。「何やってんだこいつ、撮影現場から追い出せ!」これはポルノ映画に出てくる獣のようなバカどもなのは言うまでもない。欲望にまみれた表情を浮かべ、一心不乱に話す。そして、常に会話をセックスにそらす。セックスに話題をそらす。そんな奴らを追い払え。

 

外では雨が降り続けている。外では雨の中を頭を前に傾け片手を目の上にかざしながら、それでも自分の前を、自分の前数メートルのところ、濡れたアスファルトの数メートル先を見つめて歩いている。はだかになった黒い枝の間を風が吹き抜けている。葉むらのなかを、枝ごとゆらりゆらりと、ゆらりゆらりと、ゆらりゆらりとゆすぶりながら風が吹き抜け、それが壁の白い漆喰の上に影を落としている。

 

外では日が照っている。影を落とす木もなく灌木もなく、太陽が真っ向から照り付ける中を、目の上に片手をかざしながら、それでも自分の前を、自分の前数メートルのところ、ほこりっぽいあふらるとの数メートル先を見つめて歩いていて、風がそのアスファルト上に、平行線や分岐線や螺旋を描いている。ここには日の光ははいってこないし、風も雨もほこりもはいってはこない。

 

外では万象もまた月光を乱すまいとして、無言の注意に凝結しているかと見えた。月光は万象よりも濃く緻密な影を、ものみなのまえに広げてそれぞれのものを重複させたり、ひっこめたりしながら、今までたたまれていた地図を広げたように、風景を薄く引き伸ばすと同時に拡大した。

 

動かずにはいられなかったもの、葉むらがゆらりゆらりとそよいでいた。だがその細かい葉むら全体にわたるそよぎは、微塵の影と極度の繊細に達していて、他のものへは伝わらなかったし、他のものと溶け合うこともなく俄然と区切られていた。いかなる物音をも吸い込もうとせぬこの静けさのうえに、様々な物音が微塵に刻まれて渡ってくるのであるが、それはもっぱらそのピアニッシモの効果によって、こうした遠距離感を出しているのだと思えないほど「完全」に細かく聞き取れるのであった。

 

そして今の思考自体は、これまたいわば今一つの隠れ家だったとは言えないだろうか?外界の物象を見る時、自分とその物象との間には、見ると言う意識が残っていて、直接その物象の無いように触れることを常に妨害する薄い膜でその物象を縁取り、いわばその内容はその内容に触れる前に揮発してしまうのだ。例えば濡れたある物体に近づけられた白熱した一つの物体は、常に蒸発圏に先行されているがために、湿気には触れないのと同じ様である。

 

雨の中、仕事に行く彼女を見送ることにした。彼女の首筋にはオーデコロンの匂いがした。夏の朝のメロン畑に立っているような匂いだった。その匂いは何かしら不思議な気持ちにさせた。二つの異なった種類の記憶が知らない場所で結びついているような、どこかちぐはぐでいてしかも懐かしいような妙な気持ちだった。ときどきそういう気分になることがある。そしてその多くはある特定の匂いによってもたらされる。どうしてそうなるのかは説明できない。

 

「ずいぶん長い廊下だね」

 

世間話のつもりで彼女に声をかけてみた。彼女は不機嫌さに気がついているようだったので、適当な話をしようと思ったのだ。無言のまま一緒に歩き続けるのは辛いものがある。彼女は歩きながら顔を見た。そして顔を見ながら

 

「プルースト」

 

と言った。とはいっても正確に「プルースト」と発音したわけではなく、ただ単に「プルースト」という形に唇が動いたような気がしただけだった。音は全く聞こえなかった。息を吐く音さえ聞こえない。まるで厚いガラスの向こう側から話しかけられているみたいだった。プルースト?

 

「マルセル・プルースト?」

 

と彼女に尋ねてみた。彼女は不思議そうな目で見た。そして「プルースト」と繰り返した。あきらめてもとの位置に戻って、彼女の後ろを歩きながら「プルースト」という唇の動きに相応する言葉を一生懸命探してみた。「うるうどし」とか「吊るし井戸」とか「黒いうど」とかそういった意味のない言葉を次から次にそっと発音してみたが、どれもこれも唇の形にぴったりとはそぐわなかった。彼女は確かに「プルースト」と言ったのだろうと言う気がした。しかし長い廊下とマルセル・プルーストとの関連性をどこに求めればいいのか。よくわからなかった。

 

彼女はあるいは長い廊下の暗喩としてマルセル・プルーストを引用したのかもしれなかった。しかしもし仮にそうだったとしても、そういう発想はあまりにも唐突だし、表現としても不親切ではないかと想った。プルーストの作品群の暗喩として長い廊下を引用するのであれば、それはそれで話の筋を理解することはできる。しかしその逆というのはあまりにも奇妙だった。

 

マルセル・プルーストのように長い廊下?ともかくその長い廊下を彼女の後にしたがって歩いた。本当に長い廊下だった。何度か角を曲がり、誤断か六段ほどの短い階段を上ったり下りたりした。仏のビルなら五つか六つぶんはあるいたかもしれない。あるいは我々はエッシャーのだまし絵のようなところをただ行ったり来たりしていたのかもしれない。いずれにせよどれだけ歩いても周りの風景は全く変化しなかった。大理石の床、卵色の壁、でたらめな部屋番号とステンレス・スティールのドア・ノブのついた木のドア。

 

窓は一つも見当たらない。彼女は思惟し同じリズムでブーツのハイヒールの靴音を定期的に正しく廊下にヒビカセ、そのあとをパタパタという乾いた音を立てながら追った。最上のスニーカーには最上の履き心地がある。その体験に比べれば高い出費などどうってことない。ファッションは生きる糧だ。彼女のブーツも良いブランドのものなんだろう。安っぽい合皮のブーツは見ただけですぐ分かる。足元にお金をかけない人間はそれだけで損をしている。