「グッドバイ」
と彼が店員の女の子に言うと、女の子は涙を浮かべながら震えた声で
「グッドバイ・トゥー。アイ・ラヴ・ミー。ナット・ユー。お金は冗談抜きでクレジットで先ほどお支払いしていただきましたから、お支払いは結構です。アンド・ソーオン」
と彼への愛を諦めきれない様子でそう言った。
「ミー・ニーダー」
と僕は言った。
「ミー・ニーダー?」
と彼女は号泣しながら言ったので、ある程度の時間を作って説明する決心をした。その前にスーパーマーケットに鏡があるかどうかを確認するために、僕は彼女に断りを入れて、スーパーマーケットに鏡代わりになるような何かを探しに行った。ほとんど何も陳列されていない鮮魚のコーナーの売り場が鏡代わりになりそうだったので、そこでいつもの身体をくねらせて全身がちゃんと動くかどうかの確認をした後、安心した顔つきで彼女のところに戻って「ミー・ニーダー」の説明をすることにした。
しかし安心し過ぎたのか、トイレに行きたくなってしまったので、彼女のところに戻った時にトイレはないかと彼女に聞いたら。もう僕たちはカスタマーとクラークの関係を超えているから、あなたはクラーク用のトイレットを使ってもいいですよと言って、僕はクラーク用のトイレに行って大便をした。
大便がアナルから出てくるときに独特のA感覚が出てきて、性的興奮とは違う、全身に鳥肌が立つような快楽が僕を襲った。これだから大便はやめられないし、健全な大便をすることが人間にとっていかに重要なことであるかを認識した。大便をすると気持ちよくなるように出来ているのは、欠陥が多すぎる人間にとっての、数少ない地球に生きることに適合をした機能の一つだと思う。
小便然りであるがそれはP感覚ほどのものではないし、主体はどちらかと言えば膀胱で、B感覚と言うほどの性的感覚はない。膀胱にそれほどの言葉を与えるほどのA感覚にまつわるP感覚やV感覚のような、独立した機構としての概念要素は見当たらない。
そして僕は大便をしながら「ミー・ニーダー」の説明について思いを巡らせていた。どう彼女に説明すればいいだろうか。アメリカに居たときに台湾人のマークが教えてくれたように説明すれば彼女も理解を示すに違いないと思った僕はウォシュレットでアナルを執拗なまでにきれいにした後、血が出ない程度に紙でアナルを吹いて、クラーク用のトイレットを後にした。
トイレを出た僕は彼女がいるサンドウィッチ・スタンドに戻った。サンドウィッチ・スタンドにいる時間が長すぎて、この垢抜けないスーパーマーケットという地理においての我々の拠点がこのサンドウィッチ・スタンドだという共通認識が我々の中にあるような気がした。せっかくそういう強固な基盤としての拠点を持ったのに「ミー・ニーダー」の説明を彼女にしなくてはいけないのは、聊か気後れしてしまうところがあった。
というのも「ミー・ニーダー」の説明を台湾人のマークがしてくれたときは、やたらガタガタと揺れるアメリカのバスの中だったので、その再現性が必要だと思い、これはのちに分かることなのだが、その再現性は説明において必須なものであった。
「君のシフトって何時から何時までっていう10時から朝の6時までって感じだよね。その雰囲気だと」
彼女を深夜のバスに連れ込む必要があったので、バスに連れ込むとすれば、朝の6時までサンドウィッチ・スタンドで時間を潰すか、彼とホテルに戻って、萎れたポタージュとサンドウィッチを食べて、彼女のシフトが終わった後に迎えに行く必要があった。どっちにしようかな。
「よく分かりましたね。ザッツ・ライトってところです。あたしのシフトは朝の6時までです。こんなブルシット・ジョブをしていることに常々嫌悪を感じていますが、賃労働しか能がないあたしにとってジョブの選択肢など皆無に等しいのです」
彼女の眼は泣き崩れたせいで真っ赤になって腫れている。鼻を啜りながらも、ブルシット・ジョブへのささやかなる抵抗の為に饒舌に説明しないといけないという気迫が伝わってきた。
「だったらそんなブルシット・ジョブやめちまえ」
と僕は言った。
「そうだそうだ」
と彼は普段の彼だったら絶対に言わないであろう言い方とかワードチョイスでそんなことを言った。
「俺と一緒に深夜バスに乗ろう。その時に例の「ミー・ニーダー」の説明をしてあげるから」
「あたし、あなたを邪険に扱うつもりはないんですけど、イケメンさんも一緒に来ていただけたらありがたいです」
「ぼかぁ一向にかまわないよ」
と彼が言った。ところで彼はゲイなのだろうか?でもそういう感じはしない。何しろ性的なことに全く関心がなさそうだし、僕のようにジェンダーというより美の感覚が先行して、「いいな」と思った子が男だった女だったというだけで、その「いいな」という感覚が重用なんであって、ジェンダーなど関係ないと思っているに違いない。あくまで憶測であるが、彼には全く女っ気がないし、求めればいくらでも女性がついてきそうなのは見るからに明らかだし、現に店員の女の子も彼にほれ込んでいるから。
「じゃあやるか」
と僕と彼は顔を見合わせてそう言った。バックヤードにいる人間をボコボコにして、彼女をこのブルシット・ジョブから解放しようと思ったのだが、僕も彼も特に武闘派というわけではない。しかしブルシット・ジョブからの解放という大義名分があれば暴力も許されるだろう。
しかしバックヤードはもぬけの空だった。学がない諸君のために説明をしておくと「空」は「そら」と読むのであって「殻」ではない。人がいなくなった空という意味である。薄暗いスーパーとは裏腹にバックヤードはクレヨンで書いたような青空が広がっていて、そのピーカンの青空が幸いにも人間の意思の不安定から全てを守っているようだった。
表がブルシットでも裏にピーカンの青空が広がっているとなると、僕も彼も戸惑いを隠せなくなってしまった。予想していたのは陰険そうな深夜シフトに入っている人間が何らかのブルシットなジョブをしていると思っていたからだ。
バックヤードでは毎秒ごとに正確な動きが刻まれていて、僕と彼は一歩横へ、普段はフロア・マネージャーが座っていそうな椅子から30センチ、布巾で三度拭いて、右へ半回転、二歩前に進み、完全無欠な非の打ちどころのないステルスな進み方をしていたのにも関わらず、バックヤードはもぬけの空だ。
ステルスともぬけの空の相性はすこぶる悪いように思われた。ましてや無人である。ヒットマンとしてはピーカンの空でもステルス性が必要とされる。彼は拳銃の銃身を使って細い枝を持ち上げ、その場にしゃがみ込んだ。僕は、その脇を進んでいった。萎れたヤシの葉が不規則に伸びていて、嵐の影響でまだ水滴がついている。ずーっと晴れているわけではなさそうだ。
この日の出来事は全く些細な事柄にすぎないはずだったのだが、光学迷彩を身に纏いながら、すぐに我々の仕事にかかり、徐々に敵の配置を乱し、狡猾にもそこかしに罠やズレや混乱やひずみを忍び込ませ、まもなく勤めを終えてしまうことだろう。朝6時まで待てばこんなことにはならなかったのに、
それは特に計画があったわけではなく、こうした仕事をする人間にとっては当たり前に必要とされるインプロヴィゼーションのパフォーマンスだった。パフォーマンスの女にこうした仕事中の一部分の動画や写真を送り付けると凄く喜ぶので、合間合間に仕事の撮影を、彼女を喜ばせるためにやっておくのは常に気に留めておいていることだった。
だがまだ朝が早すぎるため、バックヤードの扉はようやく鍵が外されたところで、バックヤードに現れる登場人物はいまだに自分の存在を取り戻していない。何もそれはバックヤードで起こった仕事に限らず、彼も僕も自分の存在を取り戻したこと皆無に等しかった。
暴力を振るうまでもなく、我々のステルス作戦は成功した。ということにしてバックヤードを後にした。
「バックヤードに行ったんだけど誰もいなかったよ」
「そりゃそうですよ。深夜勤務はあたしだけですから」
と彼女は答えた。
「それって所謂、ワンオペってやつ?」
「そうです」
「だとしたらポタージュとかサンドウィッチを作ってたのは誰なの?」
「それは総菜部門の人間が作ってるものがこちらに送られてくるので、このスタンドのバックヤードとは何の関係もありませんよ」
「何の関係もないということはないだろう。同じスーパーマーケットなんだから」
「あたかも関係ないように振舞うことを指示されているので」
「そうなんだ」
「じゃあ君がいなくなったら誰もこのサンドウィッチ・スタンドで仕事をする人はいなくなるということだよね」
「ワンオペですからね」
「サボタージュだね。先ほど僕らがバックヤードでやろうとしてたことだ」
「そうなんですか?成功したんですか?」
「いや、無人だったのでやめた。罠とかズレを仕込んだだけで、他は特に何もしなかった」
「そうなんですか」
「じゃあ行こうか」
「どこにですか?」
「深夜のバスだよ。そこで「ミー・ニーダー」の説明をするってさっき言ったじゃないか」
「じゃあサボタージュなんですね」
「そういうことになるかな」
「じゃあちょっと着替えてくるんで待っててください」
そう言って彼女はバックヤードに消えたまま二度と姿を現すことがなかった。我々が仕掛けた罠やズレに引っかかって死んでしまったのかもしれない。ただあまりにもそれがグロテスクな場合、グロテスクな描写ほど安易なものはないので、消えたということにしておこう。
「彼女いなくなっちゃったね」
「そうだね」
「結果的に彼女の解放もできたし、サボタージュも成功したし、良しとするか」
「まぁ8割ぐらいの出来ということで」
彼は相当彼女の存在が嫌だったらしく、彼女がいなくなったことを嬉しがっているようだった。
「じゃあ戻ろうか」
「そうだね。でもあれだ、彼女への追悼も含めてさ、僕が君に深夜バスで「ミー・ニーダー」について説明するから、深夜バスに今から乗らない?」
「罪滅ぼしのつもりかい?そんなもので彼女が浮かばれるとは思わないけど」
「やらないよりかはマシでしょう。多少の良心の呵責はあるんだよ」
「僕らが仕掛けた罠で亡くなってしまったならともかく、ズレだった場合、死んだかどうかも分からないよね」
「じゃあバックヤードに行って調べてみる?」
「いや、それはいい。仮に罠で死んでいた場合、凄まじい惨状だと思うから」
「そう言うと思った。だからまぁ細かいことは置いておいて深夜バスに乗ろう」
「別に全然それについては問題ないよ。万事、極めて良好。心配いらない」
「じゃあ「ミー・ニーダー」の説明を初めていい?」
「バスに乗るんじゃなかったの?」
「バスに乗る情景とか風景とか「そして僕らはスーパーを後にした。夜の風が云々・・・」みたいなのをコピーすることすらも疲れてきたから、歩きながら説明するよ」
僕らはスーパーを後にした。我々は歩きながらスープを飲み、意味もなくサンドウィッチを半分ずつ分けた。そしてスープを口移ししては、そのたびに胸がキュンとなることに生きる意味を感じていた。
「ねえ、精液を飲まれるのって好き?」
と彼が僕に尋ねた。
「べつにどっちでも」
と僕は答えた。