通りすがりさんへの返信。その3。

通りすがり

 

最後のヒューマニズムの一節で、全体が腑に落ちました。

 

私は、その態度は無意識的に諦めていました。知性と非知性はメビウスの輪のように、文脈によっていくらでも反転できる、というような思考を甘受しています。昨今、知性が、シンプルに欲望や力の生産の為に行使される場面を見すぎたのだと思います。メディアとSNSを通して。

 

しかし言われてみると、知性的かつ人間的であること、は肯定したいところです。実践には程遠いですが、再認識する機会が得られました。


中盤の、虚無と意味に関しても、同感しながら読み進めました。返信を書こうと思ったのですが、まとまる兆しがないので、申し訳ないのですが飛ばさせてもらいます。ニーチェについては、誤解していたので、考えを改めねばなりません。


最後に、ゲームは私もたまに Cookie Clicker をやり、時間が経つとため息と一緒に現実に戻ります。ゲーム後の虚しさは、考えてみると面白そうですね。これは意味と空虚の本質と近い気がするので、私も考えてみようと思います。


色々と論点を貰えたので、ひとまずこの辺りで、返信を閉じさせてもらおうと思います。頭が少しパンク気味になってしまいました。

 

少し時間をかけて反芻してみて、またコメントをさせていただければと思います。今回はレスを頂けて感謝しています。

 

本来、知性というのは僕の言う倫理を貫くということであるとか相対主義云々は別にして正義であるとか道徳であるとか、そういうことに使われるものであるし、一応建前上は学問的にもそうであるはずなんですが、通りすがりさんがおっしゃるように昨今は特に個人発信のSNSやメディアなどで姑息なことに知性が使われているということが目立つように見えたり知性の定義というのがそもそもの僕がいつも嫌悪するような所謂「成功」するためのものであるとかっていう立身出世みたいな個人的なことに使われることがメインになっているというか、それは別に日本とか海外関係なくアカデミズムでも同じですよね。今さらナイーヴに正義や道徳のための知性なんだ!って言う人なんていないでしょう。だから僕みたいなのが例外になってしまうんですよね。凄く真っ当な知性の持ち主のはずなのにアウトサイダー的であったりマージナルであったりするわけですね。

 

ところで虚しさや空虚感というのは最近凄く自分の中でテーマになっていて結局自分で考えるとか言いながら本を色々読んでるんですが、以前は全く気にならなかったレヴィナスなどが面白いことを言っていて難解な言い回しをしているだけで基本的に自分と考えてる感じが同じだな(笑)とかって勝手に思ってフムフムとか思いながら読んでるんですが、やはり実存に虚しさや退屈さというのが内在されているという話が色んな実存系の本や心理学系の本でも多いような気がしますね。

 

で、それはプライベートで成功していたり幸せな生活を送れていたりっていうことと全く関係ない次元で存在する空虚感なんだっていう、こういった感覚の普遍性というのを改めて感じましたね。恵まれ過ぎているから退屈するんだみたいな貴族の憂鬱なんてものではなくてもっと実存的で本質的な深いものです。でもまぁ日々過ごすときには何らかの活動やそれこそ電車移動やらやらなきゃいけないことやらでそういうところに意志が行かないんですが、僕みたいに常に自分と対峙しているような場合、やはりその存在そのものの深遠を覗くことが多くてマゾ気質なわけではないんですけど結局色々と抉り出して精神の上に乗せてしまっているっていう、だからまぁある種の慢性的な鬱でもあるんですが、フランクルの本にも書いてありましたけどこれは病理ではないんですよね。まともだからこそ感じてしまう空虚感なんだと。

 

ちょっとまた長くなりそうなんでこの辺で終わりますけどまたこれについては色々とエントリーで書くと思うのでまた読んでやってください。で、また何かあったらコメントよろしくお願いします。