通りすがりさんへの返信。その2。

通りすがり

 

返信感謝します。

 

再度返信をしてみます。浅学なので、知らないところは飛ばしつつになりますが、ご容赦ください。


Ignorance is Bliss は、Google翻訳すると「知らぬが仏」でした。超シンプルに解釈すると、「ある問題系から切断されておく」という態度だと思います。運用としては、親が子供に面倒な問題系を持ってこさせないようにする、父権的な力の補助ツール。またまた、そこそこ満足している自分の生活をキープするための、保守的な防御ツール。など、色々と使い道のあるナイフのような道具を連想します。

 

一方、今度は Ignorance is Bliss と 幸せ について考えてみました。そこでは、"「知らぬが仏」で切り離せぬもの" がとても重要になりそうな予感がします。それは人間関係のしがらみであり、欲望、思弁 etc... 色々とあり、場合によっては、もしくは頻繁に「本当の能動」の足枷になるものだと思います。

 

これらをバッサリ切断していく行為は、解脱系の論理に当たりそうです。私は、これを取り入れてしまうのに吝かではありません。

 

虚無についても、この切れない不自由さから湧いている感情だというのが私の認識です。ニーチェが晩年発狂したのは、生活の不自由さを振り切れなかったからであり、ブッダはバッサリ切断したので精神を病まずに済んだのではないかと密かに考えています。


全体的に同感しつつ、主に前半について返信を書いてみました。

 

通りすがりさんの比喩凄く素敵です。Ignorance is Blissはナイフのようなものというのは言い得て妙ですね。でもなんでしょうね、道具として使う分にはツールとして申し分ないのですが、デフォルトがIgnoranceだと知的にどうなのかな?という気がしますよね。かといってもヘミングウェイだかが言ってたように知性的な人が幸せになるのは本当に難しいって言ってたんですけど「知らない」とか「知ろうとしない」ということができない人が一定の数いるってことですよね。気がつかなかったほうが楽だったんだけど気がつかないような人生は送りたくないというような矛盾ですよね。

 

ところで解脱系の論理なんですが自分でも言うのもアレなんですけどかなり早いうちにその論理に感化されまして取り入れることはできたんだけど解脱し過ぎると現世離れするっていうか浮世離れとは違う生きているということの活力がなくなるという気がしてましてここ最近では解脱というのは分かってるんだけど欲望するということに凄くフォーカスしていますね。性欲なんかも解脱していたほうが楽だと思っていてもやっぱり色々なことも含めて経験なので女性関係とかあったほうがいいんですよね(笑)かといっても面倒なのは嫌なんですけどそこそこの欲望が無いと生きていけないっていうか、そういう意味で本当の解脱って自殺とは違う自死だと思うんですよね。

 

ちなみにニーチェが晩年発狂したのは僕の理解では哲学的理由ではなくて若い時に安い風俗に通ってた時にうつされた梅毒によるもので哲学とは関係ないとは思うんですけどただまぁ「この人をみよ!」とかのクレイジーな感じとか凄くいいですよね。ニーチェって今で言えば完全に負け組なのに思想的に常に勝っているっていうか、かといってもまぁ私生活が充実していたとは思えないんですけどね。

 

こないだも書きましたけどエーリッヒ・フロムの本をまとめて読んでいるんですけど、ヴィクトール・フランクルの本もまとめて読んでいるのでどっちだったか忘れましたけど(笑)虚しさから逃げるために消費に走ったり快楽に走るんだみたいなことを書いていて面白いのが1960年代とか70年代に何もかもを手に入れたのに虚しいといって精神を病んでいる人が結構いたということなんですよね。

 

酷い場合はどう見ても恵まれているし成功しているのに自殺する人もいたそうです。そのぐらい人間は意味に生きているということでもあると思うんですが、その肝心の意味がもちろん所与のものでもなく、もちろんフランクル的に人生に自分が問われているんだ!って考えることも可能なんですけど自分の欲望を満たす以外に人生に意味を見出すということは可能なんだろうか?って真剣に思いますね。

 

フランクルのようなエクストリームな環境をサヴァイヴした人が言う人生の意味と何の不自由もなく育ってきてってまぁ僕は個人的には色々ありましたけどナチスの収容所を経験するほどの強烈な体験なんて当然あるわけもなくてまぁデフォで見ても恵まれた環境で育ってきたと思うんですけど全然空虚感はあるしなんていうか色んなレベルでの空虚感ってありますよね。

 

例えば食うために単純作業をやらなきゃいけなくてそれに空虚感を感じるって当たり前だと思うんですけど、これだったら対処はその単純作業をやめるということなんですが、でも単純作業をやめてもその先にまた何かやることになるわけでそれについての空虚感ってのがまた常についてくるっていう不可避的な感じというか人間に内在されているのが空虚感なんだろうなっていう気がしていてこれってエックハルトとかブッダが言うような無とはまた違う空虚なんですよね。

 

つまらないとか退屈だっていうところからくる空虚ならもっと楽しいことを探せばいいんだけど、本当にヤバいのって楽しいこととか好きなことをやってるのに空虚感が過るっていうときですよね。生存術としては見て見ぬふりっていうか気にしないで忘れるとか他のことを考えるってことでやり過ごすべきなんでしょうけどそれが病的に気になってしまうっていう人がたまにいるわけでかといってもそれってのは病理的なものではなく健全だからこそ意味について気になってしまうっていうところで精神が異常であったり鬱気味だったりすればそれを治せばいいんですけど普通にしていてそれが気になったりそれに追いつくされるようになったりっていうのは精神が成熟している証拠ではあるんですけど実際なかなか辛いところですよね。

 

僕にとってのナイフのような意味での知らぬが仏っていうのはまさにゲームがそれにあたりますね。ただ諸刃の剣で終わった後のロス感が凄まじいっていう没入すればするほど虚しくなってしまうっていうところで本当にどうすりゃいいのかな?って毎日悩んでいるというほどではないんですけど毎日考えてますね。

 

必ず晩酌をしてテレビとかを見ながら眠くなったら寝るみたいな、昔のおっさんみたいな生活モデルとかってそういう空虚さみたいなのを介在させない生存術なのかな?って思ったりもしますね。ただ酒に逃げることで失われる意味って大きいですよね。それだったら素面で悩んでいた方がいいと思うんです。何かに逃げるっていうこと全般に言えますよねそれは。

 

つまりは理性っていうことですよね。そこを突き詰めると発狂するかもしれないけどヒューマニズム的でありたいというか、人間的でありたいって思いますよね。いつも書くことですけどこれが僕なりの倫理なんですよね。行動しているようで実はただの自動機械みたいな内的なものに動かされているのではなく外的なものからの影響の惰性でしかないような生き方や考え方っていうのは倫理に反しているんですよね。そういうのって強いられがちですけども、だからこそ自分で考えることが大事っていうか、自分で考えているようでそうじゃないなんてこともあったりすると思うんですけど、まぁカントの現代リミックスみたいな考えではあるんですけどやはり自律しているというメンタリティが凄く重要だと思いますね。

 

かといっても別にそれで虚しさがどうなるかっていうことではないのが悩ましいところではあるんですが(笑)