行方不明の象を探して。その297。

「なんでもないのに湧き起こって、君の黒煙は街路を黒々と吹き飛ばしていくわけだよね。それも占領するような突風ではなくて、薄絹のつむじ風みたいなステルスっぷりでね。そしてちりぢりに乱れはなった泡沫となる激情をもってして、その熱狂の旋風を額のあたりから吹き上げる君はまるで扇動者のようだね」

 

僕と彼の主従関係が逆転しているような錯覚を覚える。でもこれは観念の位相の点が僕に映っただけで、相対的に見ればただの点の移動なのであって、個々の振る舞いや言動の変化なんていうものは些細なことだ。

 

「その通りだよ」

 

そして彼は立て続けに言う。

 

「なにしろさ、どの時代に生まれても人は絶望するんだよ。だから思う存分絶望するしかないんだよ。希望が絶望を肥やしに育つんだからね」

 

彼の傲慢な光を宿した2つの目が僕の注意を引く。彼の眼にはいつも何かを狙っているような、まえのめりになってるような印象がある。

 

僕は無意識に指先をこみかみにあてた。

 

「僕は知らないままレシヴァの役を果たしていたということ?」

 

「そのまえから」

 

と彼は言った。そして右手の人差し指で自分を指し、それから僕を指した。

 

「僕がパシヴァで君がレシヴァ」

 

「perceiverとreceiver」

 

僕は正しい言葉に言い換えた。

 

「つまり君が知覚し、僕がそれを受け入れる。そういうことだね?」

 

彼は短く頷いた。

 

僕は顔を少し歪めた。

 

「どちらがさきでどちらが後なのか順番がわからない。しかしいずれにせよ、僕らはとにかく黒煙に入り込んでいる」

 

「どうにもならないな」

 

「そうかもしれないけど、そんな考えに取りつかれるぐらいなら、下手に抵抗なんてしないほうがいい」

 

「そうかな?」

 

「そうかな?だなんて、頭ごなしに否定されるかと思ったけど、ちょっと疑問を持ってくれただけでもありがたいよ」

 

「嬉しいという意味では僕も同じかな」

 

「ハグしてもいいかな?」

 

「いいよ」

 

身体が繋がっている感じがする。性的な感覚は一切ない。かといっても友人同士のハグというわけでもなく、なんだか中途半端でぎこちない感じがする。

 

「考えてみれば前から僕は君のことが好きだった気がする。君がいなかったら僕はどうなっていたかどうかわからないね」

 

「でも僕は君のことを好きにはなれないよ」

 

「とりあえず絶望を取り出すのを手伝ってくれないか?」

 

「痛いのかい?」

 

「いまさらだけど、ハグした後に急に痛くなってきた気がする」

 

「そうだろうね。苦しむのはいつも君だけだよね。君は観念だなんだって僕のことを問題にするけど、僕のことはそんなに問題にならないよね」

 

「君も痛かったことはあるのかい?」

 

「痛かったさ。そりゃね。手加減しなかったから激痛だったよ」

 

「無理もないよね。君はいつもそうやって何でも我慢する癖があるから」

 

「最後の瞬間に何かがあると思ってたけど結局何にもなかったんだよね」

 

「それはそうと、手伝ってくれないのかい?」

 

「時には僕も手伝う時があったと思う。でもなんだかまるで凄くこういうようなね、奇妙な気分になるんだよね。なんて言ったらいいのか、ほっとしてるんだけど、同時に驚愕するようなね、不安とも全然違うんだけども」

 

彼は大変な努力のおかげで絶望を抜くことに成功した。

 

「どう?」

 

「なんにもなかったよ」

 

「見せてもらっていいかい?」

 

「見せたって何にもないよ」

 

「ちょっと風に当てよう」

 

「まさにこれが人間だよね。悪いのは自分の心なのに全て絶望のせいにする」

 

「少し不安になってくるよね。これだけ何もないと」

 

「人間は口からお尻の穴にかけてのただの空洞だという認識がある。それは人間はというよりもその空洞を覆っているのが人間という肉で、主体はその空洞にあるんだよね」

 

「だから虚空をかき回しても何もないんだね」

 

「そうだね。だって空洞だからね」

 

「人間長い間生きていれば空洞に何かが溜まることがあるよね。かといっても全ての人が黒煙を空洞の中に溜めているわけではないんだけど、でも何かしらもものが溜まるようにできてるんだよね」

 

「恐らくそれは悔い改めができていないからだよね」

 

「何を悔い改めるの?」

 

「生まれたことかな」

 

彼は気持ちよく笑いだすが、すぐに手を恥骨のあたりに充てて、こわばった顔つきで笑いをかみ殺す。

 

「もう思い切って笑えもしない」

 

「インポテンツってやつだね」

 

「倦怠に対する耐性」

 

空気はどことなくピリピリしていて、ちょっと力を入れて蹴とばしさえすれば大抵のものはあっけなく崩れ去りそうに思えた。

 

「君は詩人だな。詩人になればよかったのに」

 

「詩人だったさ。いや、今でもね。ある意味で」

 

「ああ思い出した。象の話覚えてる?」

 

「いいや」

 

「話してあげようか?」

 

「いいよ」

 

「退屈しのぎさ。かつてキリンとコンビを組んで動物園襲撃を計画していたんだけど、色々とあって最終的に象がいなくなった話」

 

「動物園襲撃って、どういう理由から?」

 

「飢えから。ただし、キリンのみ」

 

「いいや、そうじゃない。死からだよ」

 

「知ってるの?その話?」

 

「まぁちょっとはね。ある界隈では有名な話だからね」

 

「悪くないね」

 

「だめだよ」

 

「なぜさ?」

 

「消えた象を待つんだ」

 

「ああそうか。でも完全にいなくなったって話だけど」

 

「それでも待つんだよ」

 

「待つって言ってもどうやって?ここで待つということ?このホテルで?」

 

「待ち合わせさ」

 

「いつかホテルで会おうみたいな話になっていたということ?」

 

「そんな安易な理由じゃない。でももう来てもいいはずだからね」

 

僕はまた主従関係が逆転した・・・というより元に戻ったのを感じた。彼の観念が入ってくる。あの独特のセラピー臭い感じ。彼、独特の。

 

「消えてからどのくらい経つの?」

 

「知らないけど、確かに来ると言ったわけじゃない」