行方不明の象を探して。その300。

「僕とセックスしたいということ?」

 

「というよりかは朝になってインスタント・コーヒーをすすりながら冷たいパンをわけあうといったような生活を君と送ってみたいということはあるかな」

 

「なんかでもそれってさ、だってそもそも君は金持ちだろう?おかしいじゃないか。インスタント・コーヒーをすすりながら冷たいパンを食べるなんてことを君はしないでしょう?」

 

「いや、僕は関係性のことを言っている。パンを分け合うっていうのは意味があるよ」

 

「キリスト的な意味で?」

 

「いや、そういうのではなくて、もっとベタっとしたアーシーな生活感だよね」

 

「でも僕は君とそういう生活を送ろうとは思わない」

 

「そう言われちゃ敵わないね」

 

「そうさ。どうにもならないよ。こればかりは」

 

「あっ・・・また音がしたような?」

 

「消えた象の音?」

 

「うん。でもただの風の音だったっぽい」

 

「もうそろそろ寝ないかい?」

 

「眠くなってきたの?」

 

「いや、実際に寝る必要はないんだけどね、ただ一晩中、こうやって待つこともないんじゃないかと思ってね」

 

「君の目的は待つことなの?それとも僕と話すことなの?」

 

「どちらかと言えば話すことだけど、君の質問の意図が分からない」

 

「縛られているからね。人生に」

 

「縛られれている?」

 

「縛られている」

 

「それは無いと思うけどね、仮に象が姿を現したところで、事実は変わりないよ」

 

「そこが興味深い点だよね。想像がつくと思うんだけど、象が現れるという可能性はいくらでもある。それどころか人によっては、そんなものは勝手に現れるものだから、待つ必要なんてないとかって考えたりもする。でもそれは誤解だよね。象が現れる神話って言うとかっこよさそうなのに、肝心の神話は待つ必要が無いっていう身も蓋もないような話なんだよね。実際に僕も無分別にそう考えていた時期があった。それから何年も前のことになるんだけど、一人で国内旅行に出かけたんだよね。そこで気が付いたのは、その旅行先ではなんとなく、その象の表れに対する意識が違うという風に感じたんだよね。その旅行先では象に対して敬意のようなものが払われている感じがした。目からうろこが落ちる思いだったと言わざるを得ないね。でもこの街でもネットなんかを見ても、さっき言ったような待つ必要が無いという神話がまかり通ってるよね。実際にその神話がなくなる時代が来るのかと思われるぐらいで、かといっても別にこの街でもネットを見ても象を誹謗中傷するようなことにはなっていない。ただ明らかに言えるのはあの旅行先のような敬意が感じられないし、概念がとても漠然としているんだよね。誰でも待とうとすれば待てるんだけど、待つことが敬意を表するということになるわけではないし、待つことで象が現れる可能性が高くなるわけでもないから、だからどの道、論理的に考えて待つ必要が無いという帰結になってしまうんだよね。それは雨が降らないか待つのと同じぐらいナンセンスなことで、どれだけ晴れの日が続いていても、たまには雨は降るのが当然だから、晴れの日に雨を待つなんていうことをしなくても、雨が降る日は必然的にやってくると考えるんだよね。実際にネットの書き込みなんかでも

 

「象なんて待たなくなっていつか現れるよね」

 

というようなものをよく見かけるし、有名な政治家が何かの会見でカジュアルに「象はいつか現れるわけでして」なんて言っているのを見たことがある。でも僕の旅行先での衝撃はやっぱり忘れられなくてさ、それは敬意を持って待つべきなんじゃないかと思うんだよね」

 

「やっぱりそれは人生に縛られているよね。事実は変わりないとしても、それは何らかの形の望みだし希望だろう?」

 

「そういうわけじゃないさ」

 

「じゃあ気質の違いとかっていうこと?」

 

「性格の問題さ」

 

「それを言い出したらどうしようもないよね」

 

「じたばたしても無駄だよ」

 

「人間変われるもんじゃないからね」

 

「苦しんだら損だからね」

 

「だから待つも待たないも結局は同じことでしょう」

 

「いや、そこは違うんだよ」

 

彼はまたお菓子を取り出した。それはプッチン・プリンだった。そうしてまもなく、陰鬱な今日の一日、うら悲しい明日の日の見透かし、そんな屈強に耐えかねて、僕はそのプッチン・プリンを機械的に唇に持っていった。象の好物もプッチン・プリンだったっけ。やはり彼は象について何かを掴んでいるに違いないと思った。ところがプッチン・プリンが口裏に触れた瞬間、僕は身震いした。何か異常なものが身体に生じているのに気づいて。なんとも言えぬ快感が孤立してどこからともなくわきだし、僕を浸してしまっているのだ。その快感で僕を満たし、たちまち僕をして人生の有為転変に無関心にし、人生の災厄に平然たらしめ、人生のはかなさを妄想と悟らしめたのであった。

 

というよりもむしろ、そのエッセンスは僕のうちにあるのではなく、僕そのものだった。カタカムナ。そういうことだったか。デンタタの歌集のあの感じ。僕はもう自分を凡庸にして偶然な、命数に限りあるものとは感じなくなっていた。いったいどこからこんなに力強い喜びが僕にやって来たのか。その喜びは象とプリンにつながっているのだろうが、そんなものを無限に凌駕していて、到底同じ性質のはずのものではないというように感じられる。

 

どこからこの喜びは来ているのか。何を意味しているのか。どこで把握するのか。僕は二口目を食べる。そこには一口目のとき以上の何物も見いだされない。三口目は二口目よりも少々おとったものしかもたらさない。やめたほうがいい。プッチン・プリンの効力は減っていくようだ。明らかに僕の求めている真実はプリンの中にはなくて、僕のうちにある。プリンは僕のうちに真実を呼び覚ましたのだが、その真実がどんな真実なのかも知らずに、次第に力を失いながら、漠然と同じ結果を繰り返すに過ぎない。僕もまたその結果を解釈する術を知らない。

 

そして後日の決定的な解明に役立つよう、その結果を今すぐ初めのままの完全さで自由にせめて今一度求め今一度見出すことができるようにと、このプリンを当ってみるのだ。僕はプリンを置き精神を省みる。真実を見出すことこそ精神の務めだ。だが、いかにして?深刻な不安定感、精神がそれ自身の能力をこえた領域に踏み込んだと感ずる度、そして探究者自体である精神がすっかり真っ暗な世界となって、そんな中で探究しなければならなかったり、既知の全知識を無にされたりするようなときの深刻な不安定感。探究する?それだけではない、創造するのだ。精神はまだ存在するに至らぬ何者かに直面しているのだ。精神のみがそれを現実に存在させ、それを明るみに入れることができるのだ。

 

そういうことが分かった。でも分かったと同時にそれは過ぎ去っていった。デンタタのあの歌集の感じも同じだ。悟りとか解明のような高尚なことではないが、デンタタ歌集を読んでいたり、もっと言えば音読しているときにはそれが感じられることがある。でもそれを捕まえることはできないし、捕まえたところで人生を生きる上で役に立つようなものでもない。

 

それは象にも言える。消えてしまった象を見つけたところで、それが人生の解明になるとか役に立つようなことにはならないことはわかりきっている。でも待つのだ。プリンの効用も例えば口直しに何か別のものを食べて口の中をリセットして、またプリンの一口目を食べたところで、それはすでに過ぎ去った体験の追体験になってしまうので、一回性のアウラは失われてしまっている。

 

僕は常にそういう失われた瞬間を求めているのだが、それがつまりは生活や僕の諸状況といったものがバナキュラーなものになる原因にもなっている。しかし求めざるを得ない。それぐらいしか人生に意味を見出せないというよりも、そんなに消極的な理由でもなくて、例えばコミュニティサービスに奉仕するとか、社会活動をするとか、労働をするとか、といっても労働は自己疎外を助長させるので極力避けた方がいいと思っている。

 

僕は労働は自己疎外を助長させると言った。なぜ助長なのか。それは普通に生きていても自己疎外は続くからだ。そこがさらに身体を生かすためだけの必要性に迫られた賃労働によって自己はより引き裂かれることになり疎外を加速させてしまうことになる。感覚がマヒすると自己疎外することが生きることになってしまって、自己疎外のきっかけを失った人間はやっと自分を取り戻せる可能性が出てきたのにも関わらず、それに気づかずに空虚感を感じてしまったりする。全くそれは逆だということに気が付いていない。自己疎外も続けていけばそれが使命のように感じられて、使命を全うしている自分が一端の何かだという幻想を生み出すことになる。自己疎外の自己目的化である。

 

残酷なのは自己疎外のきっかけを作るものはその辺にゴロゴロしているのに、失われた瞬間を取り戻せそうなきっかけを得られそうなことにはマニュアルのようなものがなくて、全く手探り状態でやっていかないといけない。プリンの件にしても、たまたまそうだっただけで、実際に口直しをしたり、その日はそのことを忘れて、次の日に起床した後に、あまり意図的に失われた瞬間を求めようとせずに、自然な感じで冷蔵庫を開けてプッチン・プリンを食べてみても、あの一口目の体感は得られない。