行方不明の象を探して。その298。

すべてが白い。光に満ちている。その光が次第に弱まり、同時に視界の中心へ収縮していき、夜空の中の月になる。下弦の月。白い残像の筋を引きながら月は上昇していく。代わりに闇に溶けかけた輪郭を持つ地上の光景が僕の目に入ってくる。

 

二階のバルコニーで僕は微風に当たっている。柵の手すりの上で両腕を組みその腕の上に顎を載せて。そうやって、ぼんやりとしている。アスファルトの道路があるはずのあたりへ、視線を遊ばせる。ふと思わず僕の身体が強張る。目が一点へ釘付けになる。少し遅れてそれは闇の中に何かを見たからだと僕は気づく。路上に影の塊がある。それが僕たちの家の方へと近づいてきている。暗闇の中それは人の形の輪郭を取る。凝視していると、さらにそれは象の姿に変わる。

 

「象はいつか気まぐれに姿を現すはずだよ。君とのラブホテルでの会合もさ、観念という理由もあるけども象を待つという理由もあるんだ」

 

「今までずーっとそのつもりだったの?」

 

「そうだね。象が現れるまで」

 

「じゃあ昨日は何をした?」

 

「昨日は何をしたって?」

 

「そうさ」

 

「そりゃあ読書に決まってるだろう。なぜそんな分かり切ったことを聞くんだい?」

 

「そういう意味で聞いたんじゃないよ。普段何をしているか?というよりかは、待ってない日は何をしているのか?ということだよ」

 

「どの道、読書しかないだろう」

 

「書庫の整理は相変わらずアルバイトにやらせてるの?」

 

「そうだよ」

 

「こないだそのアルバイトが書庫を整理している夢を見たんだよね。おかしなことに君の書庫もアルバイトの人も見たことがないのにその夢を見たんだよね」

 

駐車場の敷地の外、車道の真ん中に黒い人影がある。夏の午後の光を背景にして、立っている。違う、影ではない。象だ。植物の蔦と葉を型取ったレース編みの模様が肌の上を這っている。服と肌の境界線上に羽根や林檎やオウム貝や三角や十字架などの形をした金属がいくつかあり、それぞれ細い紐で首筋へとつながっている。僕はは口元を引き締めていた。複雑な形に折れた黒い帽子をかぶり、鋭い目を二人の男たちの方へ向けている。

 

「でも書庫の話を知ったのは今日だろう?しかもさっきだろう。その夢を見たってどういうこと?」

 

「正夢でもないのかな。いやね、書庫とアルバイトの話を聞いた時に、そういえばそんな夢を見たことがあったなって思ったことがあって、言わばそれって預言者の夢みたいなものかな?」

 

「それはいつ頃見たんだい?」

 

「あれはさ、君がもし僕に恋愛感情を抱いているのだとすれば、君にジェラシーを与えてしまうことにもなりかねない話だけども、いいかい?」

 

「ゴーアヘッド・アンド・ソーオン」

 

この町に無印良品は一つしかないし、雑貨屋自体あそこしかないし、目立って巨大な店舗だし、地図なんかにわざわざ描かなくても、ここらへんに住んでいる人間なら絶対に知っている場所のはずなんだけど。

 

「セフレというわけではないんだけど、ドラッグ漬けなんだけど健康でピンピンしてる女がいてさ、そいつとセックス紛いのことをした後に、その彼女と泊まったホテルで見た夢がそれだった。いつ頃だったかは忘れたけど、そんなに昔の話じゃないよ」

 

「時には考えるね。僕たちはもうこうやって会わないほうがいいんじゃないかって」

 

「それはジェラシーかい?」

 

「いや、そんなんじゃない。行き手は美しく、旅人は善良だというのに、なんで僕が君にジェラシーを抱かないといけないんだい?」

 

「だって君のことが好きだってさっき言ってたじゃないか。ハグまでしたよね」

 

「でもそれはそういう意味じゃない」

 

「だったら話してくれよ」

 

「意味を?」

 

「そう」

 

「たくさんだ」

 

「僕ももうたくさんだよ。君には憎悪の念しか持てない」

 

橋を渡り川の向こうへ行く。静かな集落の中を歩いていく。やがて集落は途切れ、荒れ果てた田が左右に広がる。背の高い草が生い茂り、視界を緑色に閉ざしている。その中で、まばらに家や倉庫が建っている。

 

彼よりも先にどういうわけか僕の足の方が疲れを感じはじめた。それでも歩いていくと、また集落に入った。どこにも人気はない。道の先に黒い塀が見えてくる。細長い板を並べた塀でところどころが破れていながらも高く堂々としている。

 

立派な構えの門は開いたままになっておりそばの柱に分厚い木製の表札がついているがその文字は消えている。長く手入れされていないため、木々や草が伸び放題になっている庭の中に、石の小道がくねくねと延びている。その先、庭の向こうにあるのは、木造の屋敷だ。

 

古ぼけているがこの屋敷に関してそれは悪いことではなく年月分の深みを獲得している。たいていの窓が雨戸で閉ざされており、屋敷のほとんどの部分が使用されていないことが一目で分かる。

 

「たくさんだって今言ったけど、なんかその前に何か言いかけていたよね?それは何だったんだい?」

 

「ごめん。そんなつもりじゃなかった。憎悪の念は持ってるけど、たくさんだなんて思ってない」

 

「こっちへおいでよ」

 

「またハグ?」

 

そう質問するなり彼は唇を押し付けてきた。接吻の感覚を忘れていた僕は一瞬戸惑ってしまった。舌を埋めていいものかどうか迷っている。小さく呻いた彼の下が唇を突き破るようにしてのめり込んできた。

 

僕は夢中で吸うしかなかった。新鮮な味がした。甘い。とても絶望を抱えているもの同士の接吻だとは思えない。お互いの唾液が往復する。彼の喉が鳴った。彼の鼓動が伝わってくる。まるで厭うこともなく、彼は僕の唾を飲んでくれている。心にあった彼への憎悪が荒波のように打ち寄せてきたと思った瞬間に、それはラヴの観念へとトランスフォームした。

 

「君、ネギ臭いよ」

 

彼は長いディープキスの後にそう言った。

 

「漢方薬だよ。ネギなんて今日は食べていないから」

 

夢見がちな少年がそのたおやかな手を伸ばしわずかにでも鏡に触れたそのときそこにあるのは多分空虚。虚ろでまばらな感覚。自分が許した存在を他の誰かは許してくれなかった。更に言えば自分が許した存在など他の誰かにとってはどうでもいいものだったと、そう思い知らされる。そのとき多分、大袈裟でなく。少年にとって、一つの世界が壊れる。

 

「そうやって言い訳したり、ちょっと照れたりする仕草が凄く可愛い。君のような絶望を抱えてさ、子猫のように震えながら家に閉じこもって、人間嫌いだのなんだのって言ってる人間が、それが刹那的にでもね、純愛を経験すると人格が一気に変わるだろう?」

 

「それも君の言う観念かい?」

 

「そうとも言えるけど、どちらかと言えば僕の君へのラヴの表現というほうが正しい。そういう風にしか生きられない人間が、人間嫌いとか言いながらも常に誰かとのコネクションを求めていてさ、その様子だとセックスとかセックス紛いのことはしているようだけど、恋愛は全くしていないという感じだよね。僕が君に好きだと言ったときの反応を見てすぐにわかったよ。そういう場数を踏んでいない人間なんだなって」

 

「君はそういう人間を見つけてきては、こうやって口説いているのかい?」

 

「それは違うな。僕も君と同じで人間が好きじゃないし、君みたいな人に会ったことはない」

 

「何かでもさ、今も心臓がドキドキしているけど、それと同時に居心地の悪さを感じるんだよね。まるで君に飼い殺しにされてるようなね、絶望する人間を見て可愛いやつだって思ってるようなサディストでしょ。君は。悪魔か堕天使のどちらかだよね。いずれにせよ悪魔的だよね」

 

それは多分、原初体験。一番初めに聞いた言葉。ルーツともいうべき記録。連想と比喩できうる過去。根本が同位置にして同方向のベクトル。さながら日常以前のように。さながら鏡に映したように。

 

「君が僕に何を言おうがかまわない。正直、僕の君へのラヴは僕もよく分かってない部分がある。ただ凄く愛おしく思ってしまうんだよ。そこまでの絶望を抱えながら自死することもなく、かといって特に何をするわけでもなく・・・」

 

僕は彼の言葉を遮ってこう言った。

 

「君は僕が絶望していると言っているけど、確かにそれは間違いないかもしれないけどね、そんな自死だなんて大げさなことに繋がるほど深いものじゃないし、普段はダラダラと過ごしていて、僕は君が思うような人間じゃないよ」

 

「でも健気だよ。ギリギリのところで病んでいないし、ギリギリのところで世捨て人になっていない。なんかさ、君が色んな変な女と関係を持ってるっていうのも分かる気がするんだよね。君には変な魅力があるんだよ。顔立ちがハンサムだというのはあるけど、それだけで人間ってモテるわけじゃないだろう?」

 

「僕が会っている数人のイカれた女性たちは別に僕に惚れているとかそういうことじゃないと思うけどね」

 

「そういう態度も含めて魅力的なんじゃないかな?」

 

僕は少し考えた。

 

「わからない」

 

僕はそう答えた。

 

「自分の魅力を少しでも知っておくことは損にはならないと思うけど?」

 

「そういう話は君からは聞かなかったことにする」

 

「ほらほら。やっぱり少し照れてるよね」

 

「勘違いされたら困るから言っておくけど、僕はヘテロセクシャルだよ」

 

「それは僕も同じさ」

 

梅雨が過ぎたらしい。ここ数日で、急に暑くなってきた。高く上ったところから、太陽は強い光を降り注いでくる。空が晴れ渡っている。雲一つなく、頭上に広がっている。四方の、なだらかな、しかしところどころがささくれ立っている、稜線、その入り組んだ線に囲まれて、あるいは、その線で囲い込んで、空は眩まぶし過ぎるくらいの青で満ちている。