Meditations on The Train。その4。

ってことで続きです。


渋谷が死んでるのって渋谷が主に音楽を軸に凄いヴァイブスがあった街で今は色んな意味で音楽がダメになってっつーかまぁ売る場所も減ってクラブも減ってって意味で音楽に関するものが減っていった結果、街の雰囲気もどんどん普通になっていったってのがある程度正しいとすると原宿は軸がファッションだからファストファッション化は進んでるにせよやっぱりまだまだ軸はあるっていうそういう差があるよね。ただまぁ90年代的なサブカル感ってのは無くなったのは言うまでもないけどね。


ただでもなんだろうね、あれなんだよね、帰国後5年以上経とうとしている今、ようやく自分自身が街に出始めたっていう感じだよね(笑)まぁ前にも散々書いたように数学に没頭してたり学問三昧だったっていう別にネガティヴな意味で街に出なかったわけではないんだけどまぁでもぶっちゃけまぁいつも書いてるように外に出ると言えばレコード屋か本屋しかなくてでも今はその必要が無くなった結果、外に出る必要が無くなったから出なくなったっていうのの打開策ってわけじゃないけどまぁ洋服屋に行こう!っつーんで街に出始めたっていうのが今年の流れですよね。で、それがなかなか成功していて生活に馴染んできて良いサイクルになってるしレコード屋通いも復活したりなんかして良い感じのメタリアル路線ですよねって思うんだよね。


まぁなんだろうね、街に出たことでベンヤミン的なパサージュ目線が芽生えたって感じなんだとは思うけどね。それまでは哲学する対象が実存だったりまぁ哲学全般に関わる諸問題だったり最近だとラカンを経由した精神分析とかまぁ欲望とかだったりしたんだけど街に出る中で街自体が哲学の対象となっているなっていうのを実感したときに「あ、これってベンヤミンじゃん」って思ったってことだよね。それに意識的になると店員さんの何気ない仕草とか言葉とか声を掛けるタイミングとかもそれがエクリチュールであるかのような意味論を帯びてくるんだよね。それはでも色々な流れがあってのことだけどね。ナンパ始めます!っつってんじゃあ言った通り原宿でやります!っつってまぁ5時間ぐらいウロウロしながら女の子ばっかを見ていた結果、そういうところからすでにプロセスは開始されてたんだよね。


で、そこがまぁやっぱ自分で生粋の哲学者だなと思うんだけどって自分で言うなよって話だけど(笑)ナンパのために見るとか観察するとかウロウロするっていう行動自体が結果的にそれが観察することの面白さってのを芽生えさせてだから結果的に街とか街を取り巻くカルチャーとかファッション自体の歴史とかファッションとメディアとかそういうところも分析対象になったんだなって気がするんだよね。でもそれは分析のために外に出るということではなくて自分もプレイヤーとして好きな服買って着ながら歩くっていうね、まぁこの「プレイヤーになる」ということの危うさはさっき書いた通りだけどね。まぁその買い物自体の快楽とか「モテたい」みたいな欲望とかってことなんだけどね、まぁかといっても「分析対象なのだ」みたいな上目目線ほどクソなものはなくて自分も一人として街を歩くという目線と態度だよね。あとまぁそうでありたいしただ観察のために外に出るなんてつまらないしね。


そういう複合的な要素が絡まってのパサージュ目線なんだと思うよね。だからそういう意味で社会学的にもファッション的にも素人でも別に語るところは語るしそれに詳しくなくたっていいんだよね。まぁ社会学的に素人ってのは学問やってる身としてどうなの?とは思うけどまぁ完全な素人ではないけど他の割とプロパーでやってるものに比べたら素人に毛が生えたようなレベルだからまぁこれを機会に社会学も基礎からみっちりやってもいいかもねって思ったよね。でもなんか肝心の社会学って結局引きこもりの学者が考えた理論だったりしてストリート感覚とかゼロだったりするじゃん?


そういうところがすげーつまんねーなって思うところだしましてやストリートを対象とするようなものに現場感覚が全くないっていうのは完全に学問的な欠陥だよね。だからそういう意味でストリートというところに限れば象牙の塔の世界には本当に興味ないよね。先生方が何を言おうが所詮本ばっか読んでるやつらがあーだこーだ言ってるだけだから大体何言おうとするのかも分かるしそれからもたされる帰結なんかも長々しいイントロダクションとか論じたいに至るまでの長ったらしい説明に付き合うまでもなく分かるんだよね。


だからこそまぁやっぱ街に出て局所的に別に店員さんでもいいからまぁ誰かと接して話してみたりするっていうそういうストリート感覚だよね。まぁそれはレコード掘ってた時期はしょっちゅう外出してたけど帰国後は全くやってなかったからそれは良いことだなって思ってるんだよね。というかそもそも「知る」というところにエロスがあるんだったらなんでそれが文字通りのエクリチュールに限る必要があるんだ?ってことだよね。色々と見て聞いて感じることもまた「知る」ということなわけでそこの比重を読書に置きすぎるのはむしろバランス悪いっつってもまぁ読書によって鍛えられた感覚の結果、街自体をエクリチュールとして読むみたいなことも可能になるっていうことではあるんだけどね。まぁそれは最近よく書いてるバランスですよね。


まぁそう思うと最近は本当にロラン・バルトに影響を受けたんだなって思わざるを得ないよね。まぁそこまで極端に記号論的である必要は無いけどアカデミックに哲学する対象として伝統的に分析されたり考えられてきたもの以外でもモダンな文化っつー分析対象があるだろう!っていうね、まぁもちろんもっと昔にベンヤミンがいたしベンヤミン以前にもいたかもしれないけどただ俺がよく言うphilosophizeするということなんだよね。まぁそのレオ・シュトラウスが言うような意味でのphilosophizeなんだけどそれがまぁ若者のファッションとか街自体とかアパレルの店っていうね、まぁすんげー限られてはいるけど自分の行動範囲内でもいくらでもphilosophizeして楽しめるものはゴロゴロ転がっているじゃないか!っていうことだよね。そういうphilosophizeできる素材はあったのだ!ってことだよね。


でもこれはまぁスクエアなベタな社会批評みたいなくだらないもんに陥る危険性もあるわけでそういうスクエアなもんに興味はないわけだよね。そういう意味で別に学問的である必要は無いしまさに自分の今のメタリアル路線というコンテキスト内で起こっていることっていうadhocな感じでいいと思ってるんだよね。むしろそれだからこそいいわけでしょう。とはいってももちろん学問的な厳密性とか分析性ってのは当然必要でだからこそまた色々と勉強することが増えたっていうことに尽きるんだよね。ようはまぁまたネタが色々と増えたってことなわけでまたしばらくはこれでやっていけそうなわけでまぁなんか良かったですねって感じですね。


って感じで良かったですねってことでこれはとりあえず終わりでんでまた次回から続き貼りますね。で、その続きが終わったらようやく元の深みシリーズに戻る感じっすね。いつになるやら。ってことでんじゃまた。