通りすがりさんへの返信。

通りすがり

 

意味の病気、わかります。

 

陥ったが最後、その都度、世界から解毒剤となる何かを調達する旅に出ます。一度で耐性出来たりするので、終わり無き探索をしていますが、探索がうまく出来ない状態に陥るのがキツかったりします。

 

いや、本当にそれですよね。Ignorance is Blissって言葉の真意は実はこれなんじゃないか?って思うぐらいです。虚構の幸せとかハッピーになれる勘違いとか色々と含めて知らないほうが楽なことが多いですよね。でも通りすがりさんがおっしゃるように陥ったらもう出口はないですよね。「解毒剤となる何かを調達する旅」ってエーリッヒ・フロムを思い出しまして通りすがりさんの書き込みのおかげでじっくり再読しようと思いました。アマゾンでの大人買いなんですけど古い翻訳のやつの中古が安いんでそれをまとめ買いしました。

 

フロムが言ってるようなのは結局外的な要素によってもたらされているような虚しさとか虚無みたいなのを埋め合わせするようなものっていうのはどんなに能動的にそれをやったとしても受動っていうことなんですよね。ようは本当の能動っていうのはスポンテニアスというか虚無とか関係なく「やりたい!」って思えるようなことにコミットするということなんですよね。まぁそれはいいとして僕が思うのはその「やりたい!」をある程度やり尽くしてまさに耐性もできたりしちゃって虚しさしか残らなかった場合、どうすればいいのか?っていうことですよね。

 

僕は辛うじてまだ残っているものはありますけど昔に比べたらやりたい!をやってきたせいで色々な刺激に慣れてしまったりもう知っていることが多かったりとかっていう子供の頃はなんでも新鮮に感じられた的な感じっていうのがもうないですよね。だから凄く世界がフラットに見えてただ別な意味で情報化によって世界はフラットになってますよね。それがフラットさに拍車をかけているというか。

 

で、まぁ僕が禁止しているのは仏教も含めた解脱系の論理とか来るべき系のデリダ的な話とかニーチェ的なディオニソス的な話とかなんですよね。それ言うと解決してるように見えるけどそれは論理の話でアクチュアルなところでどうなっているのか?って虚しいわけなんですよね。だからもうこれは学術でも論理でもない等身大の自分のありのままの姿なんだなっていうことなんですよね。

 

将来の不安とかって考えられるうちはまだいいですよね。その将来とやらまで生きるつもりなんですからね。でも解毒剤が見つからなかったりして詰むと毒にやられて死んじゃいますよね。これって何かが見つからない人より見つかって色々やっている人のほうがヤバい気がするんですよね。解毒剤のソースが無くなったときにどうなるんだ?って話ですからね。これは幸福だろうが不幸だろうが時間みたいに全ての人に平等にあるものですよね。気がつくか気がつかないか?というだけで気がつかないほうがいいのかもしれないんだけど気がついちゃったらもう戻れないですよね。

 

だったら幸福を追求すればいいじゃないか!とかっていう話ではないところが人間の業って言うんですかね。宗教的な意味でのカルマとかではない平等に与えられている虚無ですよね。被投性といっても別に引き受けたつもりはないんだけどついてくるもんなんだねっていうそこでさらに鬱っていう黒い犬が来るとダブルコンボで正気でいるのが大変ですね。

 

僕の場合、何かへのオブセッションというのは生きるための方法というのを本能的にやっているということっていう面もあるだろうなって思うんですよね。素で何も考えずにハマってしまうっていうこともあるんだけど深層心理的にハマったほうが生き延びられるよっていう論理があるっていうか。

 

だからまぁ逃げたくないですよね。クソでもやはりリアルはリアルだしリアルを生きるしかない!って思うわけなんですよね。

 

返信が長くなってしまったのでエントリーにさせてもらいましたけど今後もこれについては必然的に考えていく必要があるなって思ってますね。