「神学する」って「頭を悪くする」っていうことではないよねっていう。

いや、続きに書けばいいんだけどあまりにも呆れたことがあったのでねってのがブルトマンとかティリッヒみたいな大御所の著作集ばかりではなくて現代の神学者とかそれこそその辺の本屋にあるキリスト教のコーナーにあるようなちゃんとしたアカデミックな本ってのはどういうのがあるんだろう?っていう興味からこないだ色々と神学関係の本を久々に書店で買ったって書いたけどって書いてなかったらまぁ買ってきたってことなんだわ。

 

でもまぁ凡庸なキリスト教の本って無謬説に立脚するような悪い意味でのファンダメンタルな護教的な立場から書かれたものばっかで現実に苦しんでいる人とか現実の酷さにあまりに鈍感過ぎないか?っていうぐらいの高みの見物だったり信仰という名の知的退行だったりするのが平気で出版されてるってのに驚くっていうかようは変な話、学術書があるのにその横にスピ本があるような感じなんだよね(笑)

 

んでまぁタイトルに惹かれてっていうかもうちょっとちゃんと読んで買えば良かったなって後悔してるのがこれなんだけどねっていうか貼るけどね

苦しみと悪を神学する: 神義論入門

苦しみと悪を神学する: 神義論入門

 

 

メガチャーチとかのカルト化したキリスト教の神父とか牧師が書いた本とかもいっぱいあるけどまぁそれは表紙とかタイトルとか雰囲気で分かるじゃん?所謂世俗的な頭の悪いキリスト教のやつだってのがすぐ分かるよね。右翼で例えるとネトウヨとガチの右翼との差だよね。でも同じ右翼というカテゴリで語られるというね。

 

んでまぁ貼った本なんだけど護教的なのかシリアスなのか微妙なところで買うのを迷ったんだけどまぁ「神義論入門」というところに惹かれてっていうかまぁ護教的でもとりあえずどんなもんか読んでみっかってことで読んだっていうかまだ途中なんだけど違和感ってすぐ感じるもんで(笑)あーこりゃダメそうだなー。無謬説系のやつだわーっていうかファンダメンタル系だわーって思ったんだけど完全に頭湧いてるなと思ったのが悪の問題だとか付け込みやすいところに突っ込みを入れて信仰を邪魔しようとする勢力なんかがいるっつー一説があって注釈であってたっけ?あの元ネタとか説明を入れるのって注釈でいいんだよね?(笑)

 

まぁいいや。その注釈でさ、悪の問題などにつけ入れて信仰の邪魔をしようとする勢力なんているのか?っていうかまぁプロじゃないジャーナリストとか畑が違うドーキンスとかのことかな?と思ったら違くてさ、これだったんだよね。

破綻した神キリスト

破綻した神キリスト

 

 

他にも「書き換えられた聖書」とかが邦訳されてる立派な新約聖書学者のバート・アーマンが信仰を邪魔する勢力ってもうトンデモ過ぎるでしょっていう(笑)

 

ちなみにバート・アーマンは元はゴリゴリのファンダメンタルなキリスト教環境で育って大学も無謬説を唱える有名なところかは分からないけど割と優秀なところなんだけど例えば旧約聖書でこういうことが書かれていたとかって新約の福音書記者が書いてたけど実際には旧約ではこう書かれていたとかね、んでもまぁ神の霊感か神自身によって書かれた聖書に間違えなんてあるわけない!と思ってた若きアーマンは誤りについての護教的なエッセイをゴリゴリのファンダメンタルな大学を卒業してからプリンストンだかのちゃんとした神学部にいたときのクラスで書いたらね、んで確か相当尊敬している先生だったとかだったかな?

 

まぁともかくそれを書いてさ、すんげー気合入れて考えながら書いたらその教授からどういうコメントが来るだろか?って思ってそのエッセイを教授から受け取ったらクソ短いコメントで「恐らくマルコが間違えたのでしょう」の一行だったっつー話があって(笑)

 

多分マルコだったと思うんだけどまぁようは記者が間違ったのでしょうってまぁそりゃ人間だから間違えるよねって普通思うんだけどゴリゴリの無謬説に染まったようなカルトチックなキリスト教徒にとってはそれが衝撃的で無謬説とかがバカらしくなったっつーのがそのきっかけだったみたいなのをアーマンは「書き換えられた聖書」の確か最初のほうで書いてたけどそれで信仰を辞めたわけじゃなくて簡単に書けばそりゃ無謬じゃねーよなっつって狂信的ではなく学術的に聖書を研究しようと思って言わば間違い探しにハマった結果、textual criticismっつー聖書の成り立ちとかを無謬説に立たないで歴史的に研究するっていう方面の研究をすることになったんだけどそれ以前にキリストも人だからなんだっけな?

 

ユダヤの飯食っちゃいけない日にキリストの弟子が麦をササッと直に取って食べた時に今日は安息日だか飯食っちゃいけない日なのに弟子が麦を食ってるぞ!あんたは弟子に何も言わんのか?って言われたときに有名な律法だかのまぁようはルールってのは神のためにあるんじゃなくて人間のためにあるわけで、例えば名前忘れたけど何々が王様だったときに誰々が安息日っつーか飯食っちゃいけない日に食べ物が必要な兵士に一番食べちゃいけない祭壇だかに捧げられたパンを与えたじゃないかっていうことをジーザスが言うんだけどアーマンはゴリゴリのファンダメンタルな環境で育ってるから誰々が分け与えたってなってるけどその誰々が戦争だかどっかに出兵してるときの王様って歴史的にジーザスが言う誰々じゃなくてあの人だよね?って簡単に気づいちゃってっていうかまぁそんぐらいゴリゴリに聖書に染まった人間だったということなんかもあってまぁこれも俺みたいに「誰だったか忘れたけど」っつーレベルで誰が言ってたか忘れたとかそりゃ信長じゃなくて豊臣秀吉ねみたいなね(笑)

 

まぁ信長と秀吉間違えるってことはなさそうだけどまぁジーザスもこういう凡ミスをしてるんだけど無謬説に立つ場合、神の言葉だから間違えるわけないんだけどまぁこんなのも当たり前でさっきの教授に言わせれば「きっとジーザスが間違えたのでしょう」ってことになるよね(笑)

 

いや、アーマンみたいなちゃんと学術的に認められているそれこそちくま学芸文庫にも入るような真っ当な学者のキリスト教が時代と共に歪んだとか破綻したっていう事実を述べているという真っ当な学術的な業績に対して「信仰の邪魔をする勢力」って言うなんてカルト教祖かなんかか?って思っちゃったんだよね(笑)

 

ドーキンスとかの門外漢が一部の狂ったファンダメンタルな連中にだけフォーカスして神と決別とまで言っちゃうような浅い批判とかをする人たちを信仰深い人たちは「信仰の邪魔をする勢力」って言ってもそんなに違和感ないんだけどゴリゴリのファンダメンタルで育って目が覚めてちゃんとした聖書研究をした結果、聖書関係のことではボロが出まくるし通俗的なキリスト教解釈がいかに間違ってるか?っていうのを意見ではなくエビデンスとして出すっていうのを「信仰の邪魔」とするのは知的退行でしかないよね。

 

それって信仰にとって都合の悪いことは「邪魔」にするんだよね。ただ「勢力」とか言っちゃうあたりが陰謀論説にドはまりしてるトンデモなやつっぽい感じを醸し出してるけどまぁそういう頭の悪いキリスト教徒が大半なのは事実だけど最前線のアカデミックな研究ではさすがにそんなのはまともに捉えられないしあくまで俺の基準とか水準もそこにあるから無神経に神の恵みとかってのを平気で語っちゃうようなものってのはダメレコみたいなもんで持っててもゴミと化すから気をつけなきゃいけないんだけど(笑)

 

はっきり言って学術的に意味がある神学研究なんてこれしかありえないですよ。超自然的なものに関しては保留するか語りえないものとして語らないってことを原則とするとかね、まぁようは現代人の科学的な水準に対応するような研究だよね。ポアンカレ予想解いたペレルマンなんかは引きこもりになってからはキリストが水の上を歩いたというときにどういう物理条件でそれが可能だったか?なんてのを研究してたりもしたらしいけど(笑)数学的には天才でも人間的にアホだよね。

 

だから別に知性とそいつがアホかどうか?ってのはあんまり関係ないのかもしれないよね。まぁセンスの問題っつーかね、だから今時護教的だったり神の恵みがどうのって深い意味ではなく軽々しく言っちゃうようなのって本当にセンス無いなって思うんだよね。

 

キリスト教関係の音楽もまた最近聴き直してるけど現代曲なのにめっちゃベタなレクイエム調の誰が作っても同じみたいな曲を永遠と作る宗教音楽の作曲家とかも本当にセンス無いよね。なんかもっとメタフィジカルにさ、現代的に例えばキリストが磔にあって死ぬまでのプロセスをありがちな荘厳と言えば聞こえはいいけどただの宗教音楽の焼き増しをするんじゃなくてキリストのうめき声とかゴルゴタの丘の風の音とかさ、まぁラッヘンマン的な楽器でミュージックコンクレートするみたいな手法で表現するとかね、なんかそういう現代音楽的な宗教テーマのものがあってもいいはずなのに恐ろしく少ないんだよね。まぁ探してはいるんだけどめっちゃ少ないわけよ。

 

まぁなんか現代のキリスト教環境と似てるよね。言わばモンド音楽とも言えなくもないただのイメージとしての宗教音楽って勝手にあれってイメージして作ったものでキリストそのものとは関係ないんだけどそのイメージがずーっと受け継がれてフォーマリズムみたいになるんだよね。

 

だからこそグレゴリオとかはすげーなって思うんだけどね。俺の大嫌いな煩い大げさなドラマティックなEDMのブレイクみたいなオーケストラとは全く違う静寂でMeditativeな感じっていうかさ、ライヒがPerotinを元祖ミニマル音楽って評するのも分かるなっていうぐらいある種アヴァンギャルドなんだよね。それがああいう天然の声によるアンビエントみたいなのを生み出してるっていうのが凄いのに対してそれを受け継いだにしても色々と勝手なイメージをつけすぎて煩いコーラスとかドラマティックすぎるキリストの受難みたいな題材とかね、受難っつっても磔にさせられたときに「ジャジャーン!」ってする必要はないわけで(笑)もしくはジャジャーンってなってるやつはもうやり尽くされてるんだから他の取り上げ方とかは無いのか?って思うんだけど本当に頭が悪そうな現代宗教音楽が多いよね。それこそゲームのサントラみたいなベタなやつも平気で現代の宗教音楽の作曲家とかが作ってんのね。

 

でもまぁそれに比べて仏教って深遠な思想以外ありえないというか世俗化させるにはあまりにも思想が高尚すぎるんで南無妙法蓮華経って唱えてればとりあえず救われるみたいな世俗化されたビジネス仏教とかを作る以外なかったんだろうなっていうところに比べてキリスト教は浅く読めばわかりやすいからその分誤読とか誤解だらけでそれが殺戮とか差別とかを生み出してきたまぁすんげbloody hellなそれ自体が罪深い本なんだよね。聖書って。

 

でもそれは前に書いたようにマルクスの共産党宣言がテロとか粛清と関係ないように後世の誤読とかマズイ読解力による勝手な解釈が殺戮とか戦争とかカルトみたいなのを生み出すってのは元がテキストであれば逃れられない宿命なんだよね。あとまぁ世間的な誤解もなかなか埋めづらいよね。スターリンとか毛沢東とかポルポトとかが共産主義の名の元に大虐殺を行ってきたりしたんだけど全くマルクス関係ないじゃん?っていうかどう解釈すればそうなるの?っていう感じなんだけど世間的にそうなるとマルクスはテロリストが読む本の代表的なものだ!みたいな感じになるじゃん?

 

特にバカが多いアメリカなんかだと反共教育をされて原理主義的なキリスト教教育とかをするから取り返しがつかない感じになってるんだよね。だからこそまぁなんだろうな、俺がマルクスを読み始めたのって16ぐらいだったと思うんだけどイデオロギーとか歴史のそういういざこざとは関係ないところでマルクスそのものを読んでみようって感じだったよね。まぁそんなに今ほど歴史に詳しくなかったんだけどニュートラルにマルクスを読むっていう感じだよね。

 

でも歴史的にはマルクス主義ってのは血に染まってるわけだよね。んで聖書なんてもっとでしょう。コーランなんかも過激派に濫用されてるから基本なんか聖典とか行動原理を与えるものってのは大体バカが誤読して過激な行動に走ったり差別をすることの根拠にしたりするじゃん?まぁ例えば聖書にしても女装したら神が起こるとかなんとかってまぁくだらねー旧約のパリサイ的な教えなんであってあれはユダヤ教のものなんであってユダヤ教的にLGBTがどうなのか知らんけどキリスト教を狂った黙示録とか余計なのを取り除いた新約聖書だけに留めれば極めて真っ当なこととリベラルなことしか言ってないでしょ。

 

まぁ歴史から見ると差別的だったりするところもあるんだけどそれはまぁ歴史を考えなきゃいけないよね。例えば昔の政治学者とかが「こんなもの二グロや黄色人種でも理解できることである」って書いてあってそこを取り上げて「こいつは差別主義者だ!」っつっても時代的に黒人とかアジア人は猿としか思われてなかったというのがコモンセンスな時代だったらそれはしょうがないんだよね。

 

日本の侵略戦争を擁護するつもりはないけど戦後になって戦争反対をしなかった知識人にも責任がある!とかね。鈴木大拙が戦地に行く日本兵に対して禅の教えで今からやることは別に悪いことではない的なことを言って鼓舞したみたいなのもそういう時代だったらしょうがないっていう部分はあるじゃん?

 

ジジェクなんかはそこを鈴木大拙ぐらいのとんでもなく洗練された人物でも戦争を正当化するようなことを言うのです!とかって言うんだけど戦時下のさ、しかも「今から死ぬかもしれない」っておびえてただろう兵士たちへの慰めだったかもしれないわけじゃん?あとまぁ「間違いだ!」なんつったら捕まって拷問とか受ける時代なわけだからそういうのも考えなきゃいけないのになんでそういう歴史的背景とかを考慮に入れないんだろうか?って不思議でしょうがないよね。

 

っつーかめっちゃ長くなってしまった(笑)まぁこれ分けてたらキリないから貼っちゃうわ。んで続きは次回で。

 

ってことでんじゃまた。