ウォール伝、ディープWebアンダーグラウンド。

わたしがウォール伝を書くのは地上に平和をもたらすためだ、 と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために書いているのだ。

躁鬱!奇想天外さんへの返信。

躁鬱!奇想天外  2021-03-15 02:47:24


なんか前に耳セミさんが「英語の本は味気ない」みたいなこと書いてた気がするのですが、ABC予想の望月新一さんが似たようなこと言ってました。私はabc予想も望月さんもよく知らないんですが。 以下引用 私の感覚では英語を通して記述される世界には、「色眼鏡」のように、英語圏の文化や世界観を反映した、著しく濁っていて有害な「歪み(ゆがみ)」が常に掛かっていて、 子供の頃も今も、その歪みから解放される=その歪みと自分との間に分厚い壁(=この場合、「国境」)を確保することに対する強い意欲・「飢え」を抱えて生きてきました。

 

 

子供の頃から認識していた、無数の具体例から一つ分かりやすいのを挙げてみますと、 例えば、日本人の日常生活では当たり前な風景である「海苔ご飯を箸で食べる」ということを英語で表現するとなると、 「海苔」を「シーウィード=つまり、海の雑草」、「箸」を「チョップスティック=ものをつついたり刺したりするための木の棒のようなイメージ」というふうに表現するしかなくて、 全体としては「未開人どもが、木の棒を使って、そこいらへんの海に浮かんでいた雑草のようなゴミをライスとともに、未開人っぽい原始的な仕草でもくもく食べている」といったようなイメージに必然的になってしまいます。

 

 

これは単なる一例に過ぎませんが、全体的な傾向としては、日本・日本語では大変な品格があったり、 溢れる愛情や親しみの対象だったりする事物が、英語で表現した途端に、「どうしようもない原始的な未開人どもが、やはり原始的な未開人どもらしく、世にも頓珍漢で荒唐無稽なことをやっているぜ」というような印象を与える表現に化けてしまいます。

 

 

過敏と言われるかもしれませんが、私は子供のときから英語のこのような空気に対しては非常に強烈なアレルギー体質で、自分たちがどれだけ根源的にコケにされているか全く自覚できずに英語や英語的な空気を浴びせられることに対して憧れのような感情を抱くタイプの日本人の精神構造が全く理解できません。

 

 

と言ってますが、どうなんでしょうか?私の母語は日本語しかないんですがたしかに英語の文章は味気ないと感じます。逆に母語が英語の人が日本語勉強したら「豊かやなあ」となるのかなあとわたしは海外の学校に通ったことがないのでわからないんですが、今受験勉強というものをしていて思ったんですが、日本の受験て世界でかなり難しい部類に入るんじゃないのかなと思ったんです。

 

 

耳セミさんの受験数学のエントリー読んでも思わず「うんうん」と思ってしまいます。さらっとアメリカの入試で使われるSATてゆうやつの数学見たんですけど日本でいうと数学Iで出てくるような簡単なものでびっくりしました。

 

 

あんな簡単なテストでよくてしかも年に何回か受けれるていいなあと。日本の大学入試て難しいてのはやっぱ思うんですけどそれでこんなに落ちぶれてるわけだからやっぱ入試の形態変えた方がいいんじゃないかと思いました。

 

 

でもアメリカとかヨーロッパて私は行ったことないんであくまで人から話を聞いたりの想像なんですが、格差が日本の比じゃないくらいエグい気はするんですよ。

 

 

そう考えると日本てその部分はまだヌルい気がするのでいいのかなあと思ったり。あと今コロナで海外で今アジア人が差別されてるの見てそもそも白人て本音はそうでしょ、みたいな。

 

 

だから海外に対する憧れみたいなのはなくなったんですよ。どうせ海外行っても被差別人種だしなー、みたいな。実際にアメリカの学校行ってた耳セミさんは今の日本の入試をどう思いますか?この国の入試はいいなー、みたいなのありますか?

 

躁鬱さんお久しぶりです。書き込みありがとうございます。

 

望月先生のその話は最近僕が井筒俊彦のコーラン関係の話で書いた言語の問題と同じ感じですね。僕はアラビア語は分かりませんがとりわけ聖典の類にはその聖典に記述された言語がその場所や時代や文化と不可分なもので、例えば同じアラビア語でも時代を経ると当然使用されているアラビア語のニュアンスが変わってしまい、原典である聖典での意味のようなアラビア語で聖典が解釈されないなんていうこともありうると思います。

 

だからこそ井筒は言っているのですが、特に古典の類を趣味で読むならまだしも学問的に厳密に読もうとするとどうしても大変なことになってしまうということを言っています。橋爪・大澤コンビみたいな似非学者とは偉い違いでこれぞ学者のスタンダードという感じがしますね。

 

ところで英語圏の文化が反映されたニュアンスの話ですが、僕もアメリカに行ってテキストや文法というより感覚としての言語を身につけながら思ったのは英語という言語が持っているニュアンスの貧弱さですね。望月先生が挙げているような「未開人どもが」のようなニュアンスも、言わば英語圏にとって英語がデフォなので箸で海苔ご飯を食べるということが本来の文化にないのでとってつけたようなニュアンスになってしまうっていうことですよね。

 

そういった「箸」や「海苔」といった英語圏には馴染みがないものに関しては明白なのですが、それ以外にも例えば日常用語で「put in」とか「put out」とかなんていうんでしょうね、「出す入れる捨てるそこにやる」みたいなニュアンスが凄く大雑把で日本語では些細なことでも凄く分節化されているニュアンスが英語ではほぼ一本化されていてそれで済んでしまうというところがあったりします。これは逆を言えば英語は深みの無い単純な言語なので世界共通言語として選ばれる理由なんだとも思いますね。何しろ楽ですからね。

 

特に非日本語圏の人たちが理解できない感覚が「ふわふわした」とか「にょろっとした」みたいなオノマトペ的なニュアンスも含む言語化とニュアンスのそれこそシニフィエとシニフィアンの関係が明白ではない、文化的主観に依存するようなものが理解できないか、理解が凄く難しいという話がよくありますね。

 

言語自体が例えば普遍言語のように単純に何かを指すものはどこの文化にもそれを指す言葉があるといったような単純な指すものと指されるものといった関係性だけに還元できないのは明白で、言語自体に内包されている意味以外の、もっと言ってしまえば言語外の文化で共有されている暗黙のニュアンスのようなものがあるわけですよね。

 

文献学とか古典学なんかではそれが凄まじく重要視されるんだよなっていうのに最近キリスト教やイスラム教関係の勉強をしていて改めて感じます。その書かれた通りに理解するということのある種の不可能性ですね。だから聖書にしてもギリシャ語やヘブライ語が必要になってくるんだろうなと。

 

ただ僕は英語と若干の中国語とフランス語とドイツ語ぐらいしか分からないのでなんとも言えないのですが、これだけの範囲だけでも言えるのが英語の異様な言語的表現の貧困ですね。俳句とかは英語圏でも流行っているようですが、あんなものは明らかに翻訳不可能ですよね。あれは言語的な情緒とニュアンスと文化的な感覚を必要とするもので英語にしたとたんにアナログレコードの豊富な音の質感をデジタル化してしまうような乱暴さがあると思います。

 

ただ逆に凄いのが中国語ですね。いきなり下ネタになりますが(笑)中国のツイッターとかのエロ投稿を読むのが凄く好きで例えば「高校時代を通してこの華奢で可愛い女子高生に履きつぶされたスニーカーがいよいよ捨てられることになったが、結果的に自分のところに舞い込んできて自分に性的な玩具にされるようになった」みたいな文章も(笑)

 

投稿者によるんですが物凄く情緒的なそれこそ漢文の漢詩っていうんですかね?中国語になった途端にそれがエロいだけではない詩的な情緒を帯びる感じがあるんですね。自分が中国語に興味を持ったのは元々アメリカの外国語クラスで中国語を取っていて齧っていたというのもあるし、あとは今やっている中国武術の本を中国語で読みたい!とか色々な理由があるんですが、主な理由はそのエロ投稿の情緒性を感じながら興奮することなんですよね(笑)

 

仮にさっき書いた女子高生によって履きつぶされたスニーカーの文章が英語になったら本当に味気ないものになるでしょう。まぁ逆にこんな文章が漢詩のようになってしまう中国語が凄いんですけどね(笑)

 

ちなみにフランス語やドイツ語も特にドイツ語は凄くややこしくて難解なんですがその分、単語や文章のニュアンスの情報量が半端じゃないですね。よくドイツ語の哲学の本とかはとりあえずコンマでも置いて休憩しようや・・・っていうところがガンガン繋がっていて極端に言えば一つの文章で一ページ行くこともあるぐらいです。そのぐらい言語が精密ということですね。でも僕がアメリカの英語のクラスで習ったのはまぁこれは大学の方針とアメリカの反知性主義も大いに関係していると思うのですが、分かりやすく簡潔に!が鉄則でした。

 

僕が少しでも難解な単語を使ったりすると例えば大学レベルの単語が小学校レベルのニュアンスに引き下げられるという感じで(笑)あと文章も長くせずにコンマを多用してというか、極端に言えばこんな感じですね。彼は20歳だった。ウェイターをしていた。その彼に私はぞっこんだったが彼に嫌われるのが怖くて話をかけることがなかなかできない状態だった。しかし転機が訪れて彼と話すきっかけを得た。そのきっかけは・・・・みたいな感じですね(笑)

 

これが言わば大工さんでも分かる読みやすい分として称賛されるんですね。だからフランスの難解な肯定ばかりもできませんが特にフランス語が紡ぐような言葉がさらに言葉を読んで言葉自体が言葉を紡ぐような感じで書かれたものというのが英語に翻訳した途端、凄まじい悪文になってしまって「無駄に晦渋な文章」として批判されたりするわけですが、これも言語感覚の問題で、例えばコーランなんかも英語翻訳や日本語で読むと味気ないのですが、コーラン自体が唱えるものとして書かれているので、アラビア語で読むと韻を踏んでいたり言語自体のグルーヴ感があったり言葉に出すと音楽のようになったりするということがあるみたいです。

 

これは言語的なニュアンスの違い以外の発声した時のニュアンスですね。まぁその点、なんでしょう、ラップなんかは英語圏が強い感じがするんですけどね。

 

というわけで受験の話になるんですが、僕は受験といってもアメリカの大学にはペーパー式のCBTが主流になったためペーパー式が確か廃止される・・・みたいなペーパーテストがこれ以降無くなるという時代の節目(笑)にペーパー式を受けることができて、それが僕のコミカレの系列だったCUNY独自のものだったと思うんですが、端的に言うとCBTより楽なんですね(笑)

 

CBTはコンピューターでやるテストなんですがヘッドセットでスピーキングなどもやらなきゃいけないところを古いペーパー式だとスピーキングが無くて色々なメリットがあったり合格ラインがCBTより緩かったりして、まだ渡米して一年も経っていなかったと思いますが合格点ギリギリの最低限の点数プラス1とか2ぐらいのギリギリな感じで合格したので、真っ当な受験というのを受けたことがないのでなんとも言えない・・・というのをまず前提として言いますね。

 

ただまぁこれは受験以前に昔からやたら難しいというよりプロトコル的なものとか独自ルールが多すぎる中国の科挙のような試験制度はオワコン過ぎるだろうと思っていて凄く昔から批判していましたが、他国の大学の入試試験が全てがどういうものかは分かりませんが、アメリカに関して言えば受験勉強を難関なら高1から始めるみたいな異常なことは無くて、ようはその大学に入っても授業に追いつけるだろうか?ぐらいの最低ラインを探るための試験というニュアンスがありますね。

 

それに比べて日本の入試は全く意味を成さない年号の暗記とか、例えばそれで言うと僕は仮に色々な知識があっても例えばカルケドン公会議が何年の何月何日に行われたなんて暗記してないわけですよ(笑)西暦450年代ぐらいあたりかな?ぐらいのものでまぁ大体あってますよね。今ウィキで調べたら451年10月8日だったのでまぁ大体あってますね。

 

でも日本の異常な暗記を必要とされる入試は語呂合わせなんっつって例えばカルケドン公会議の年号を覚えなきゃいけないとしたら「しごいじゅっぱ」みたいな言葉にして念仏のようにそれを唱えて暗記するみたいなオカルトじみたものを必要とされますよね。受験勉強に息抜きにランニングでもしようかというときに「カルケドン公会議しごいじゅっぱ」っていうのを言いながら暗記するとかね、凄まじく不毛ですよね。

 

もちろん哲学者や歴史上の人物の生年月日を大体覚えておくのは凄く重要なのは言うまでもないですね。それであの頃はドイツはあんな感じだったから・・・とかっていう歴史との繋がりが出来るので年号暗記を完全に否定するわけではないんですがそんな年号暗記をまだ成人してもいない高校生に課しますか?っていう話ですよね。

 

そんなくだらないことで高校時代という多感な時期の大部分を費やさなきゃいけないのは不毛以外のなんでもありませんね。自分の経験を考えてもあのぐらいの年代ってのは多感なので映画を見まくったり音楽を聴きまくったりIDが必要でもなんとか方法を考えてクラブに行ったりとか(笑)そういう感受性の年代ですよね。勉強なんていつでもできますからね。でも青春自体の特に10代後半の感受性というのは過ぎてしまえは二度と来ませんからね。

 

で、躁鬱さんもおっしゃるように受験の数学なんて数1レベルでいいわけですよ。しかもアメリカの大学って場所によるかもしれませんが微積とかって大学入ってからやりますからね(笑)まぁ数学科とかならともかく、でもまぁアメリカの大学の数学科でイプシロンデルタ論法などをやるのは1年2年で微積の基礎をやってから数学科とか理系専攻の連中が3年度ぐらいにやるものだと思うんですね。そこを日本の大学の場合、一年次からいきなりやるのでさっぱり分からない!大学の数学は異次元だ!ということになってドロップアウターが多くなるらしいですが元も子もないですね。

 

ところで躁鬱さんの質問にあるような「この国の入試はいいなー」という具体例はありませんが、少なくとも言えるのは日本の入試はナンセンスなのと高校時代という感性的にもアイデンティティ的に重要な時期に全く不毛なことをやらされるので多感な人格形成の妨げをしたりそれこそ感性が劣化したようながり勉を生み出したりしてなんのメリットもないってのがありますね。

 

あ、なんかこの辺は繰り返しになるんでもう書きませんけど、亡くなった数学者の志村五郎なんかは著書で受験数学なんてこれぐらい分かっていればいいっていう数学の例を出していましたが、それはSATよりも簡単なものだったと記憶しています。

 

当たり前のことなんですが勉強をするために大学に入るので細かいことは大学に入ってからやればいいって話ですよね。これがよく言われるアメリカの大学の入試は楽だけど卒業は難しいと言われる所以ですね。日本の大学の場合、入試がピークでそこからは勉強しなくても出席しなくても卒業できるっていうわけのわからないことになっていますよね。まぁ学科によってはマゾレベルの勉強が必要になるものもあるので一概には言えないんですけどね。

 

ただ日本の大学生は遊んでばかりでしょっちゅう飲み会や合コンをしていてバイト三昧っていうなんで大学に入ったの?って言われてしまうようなところは多いわけですよね。アメリカや日本でも特定の学科の勉強は強制的にやらないとパスできないので勉強せざるを得ないわけですが、やらなくていい学科でも勉強は基本自分でやるもので任意なのでやれる人はガンガン勉強すればいいだけの話ですね。遊びたければ遊べばいいって話だし、ただ一概に遊びもマイナスばかりではないですよね。

 

それで合コン三昧で女子との関わり合い方やセックスや恋愛や人間関係といったことが経験出来て、まぁ恐らく大学時代がそういったもののピークですよね。所謂社会人になってからはエグいぐらい出会いが無くなりますからね。ちなみに僕は躁鬱さんはご存知かもしれませんが日本の学校は中学2年以降行っておらず高校は通信でそこから一気に飛ばしてアメリカの大学に入学・・・といっても4年生の大学を狙った上での基礎学科の単位を稼ぐために学費の安いコミュニティカレッジでリベラルアーツを専攻していてあとちょっとで卒業というところで資金難になって帰国したという感じなので、これといった大学生活を送ってないんですね。

 

大学も本当にくだらなかったので当時熱心に語学も含めて英語の哲学書を買ってきて読むという生活がメインで学校の勉強やテスト勉強なども時間の無駄だと思っていたので最低限パスできるぐらいの適当な暗記をして全くやらずに本ばっか読んでいました。今ほど英語力も無ければ読解力も、もっと言ってしまえば哲学の知識も無かったので読んでいた時間に比べて知識を吸収している量というか、読書効率が良かったとは思いませんがほとんどの時間を読書に費やしていました。

 

で、あっちの大学は夏休みが長いんですけど夏休みとかになるとニューヨークはアホみたいに熱いので(笑)自分で窓に取り付けた冷房を利かせてアメリカで買ったPS2やPCゲーをやったり違法配信されている日本のお笑いの番組を見たりとか、特に休みが長いとあっちのテレビを全く見ずにネットも日本のものばかりを読んでいたし芸能ニュースとか(笑)お笑いの番組とかばかり見ていたのでたまに食料品を買いに外に出たときに「そういえば俺って今アメリカにいるんだよな」って思ったりしてたぐらいですね。学校で親しくなる友達はいましたがじゃあ休みの時にどっかいこうぜ!ってなる友達がいたか?っていうと少数を除いていなかったので実質ずーっと一人でしたね。まぁようは今と変わらない生活をしていたということです(笑)

 

こんな感じの大学経験であったので大学に行っていたという実感すらも無いぐらいだし卒業もしていないので(笑)アドバイス的に特に言えることもないんですよね。で、学問をやることに関して言えば僕はどうやら大学で体系的にやるということに幻想を持ちすぎているようで最近書いたような似非学者が平気で大学で教鞭を振るっているなんていうことを例に出すまでもなく、大学に入ったから厳密にやれるというわけでもないんですよね。だから結局自分でやれよって話なんで、それを考えると例えば昔みたいに海外に行かなきゃ学べない特殊なこととか日本にはその学科が無いというようなものがほぼ無いのでどこの大学に行っても同じようなものだと思いますね。

 

超一流の大学で自分がやりたいと思っている学科の分野の権威の下でほぼ弟子のような状態で勉強できるならともかく、それ以外だと基本やはり自分で勉強ということになるので、こんなことは20年前から言われていたことですが、今はただでアメリカのそこそこの大学の講義が見れたりしますし文献を探すのもレコードの掘り方みたいなコツがあるにしても圧倒的に手に入りやすいですよね。

 

だからどこの大学に行っても問われるのは自分の勉強しようと思う熱意とか動機づけだと思うのであまり変わりはないと思いますがただそこそこの大学に入るというのは当然として、大学内での学生同士のコミュニケーションや先生に引っ付いて質問しまくるとか、何もかもオンラインでやれるとは思わないんですね。

 

武術などに顕著ですがその場でその場の達人に直に教わらないと全く分からないことってあるわけですし、学問は武術ほどではないしてもやはり指導する人間がいてそれを聴講する人間がいて・・・という場の重要性はあると思いますし、その場が現実の場と全く変わりないものを担保できるぐらいの質のVRなどができれば別ですけど、現在のレベルだとやはり所謂学び舎において学ぶということの重要性はあると思いますね。

 

その学問について議論できる友達なんかが出来たらもう最高ですね。僕はそういった経験がないのでいまだに憧れていますが(笑)年齢的に学生っつーより先生って感じになってきているのでまぁそういう経験は無かったなっていう感じで納得してますけどね。

 

どこの大学に行っても同じようなもんだというのはカリキュラムを見ればそれはそうかもしれませんが、僕が散々アメリカに飽きただのどこの大学も一緒だのって言っててもある意味大学なんかと比べ物にならないものが場の有用性ですね。それが言うまでもない留学という体験ということなんですよね。他の文化の国にいってそこで生活しながら学生生活を送るというのは人生の宝になりますよね。

 

で、僕の場合、短かった大学時代よりも今思えば貴重な経験をしたというのが大学に合格したはいいけど入学が半年先になってしまうというので留学生という身分でアメリカに行っている以上、なんらかの学校には行かなきゃいけないということでそれまでいっていた学費が高い英語学校をやめてコミカレ付属の僕が行っていた大学の系列ではあったのですが実際に入学した大学とは違う大学の英語学校に行っていた時の体験というのが今思うと凄く重要で、そこが私立の高い英語学校とかだと生徒がボンボンばっかでまぁそれはそれで面白かったんですが、コミカレ付属の英語学校になると不法移民とか(笑)中東から英語を学んでくるのかニューヨークの様子を見てくるのか分からないけど企業から派遣されたような人とか色々いたんですね。

 

んでそこで僕が気に行っていた英語の先生のクラスでは政治の話とかをしたりっていうかあと僕がよくその話を振るというのもあって(笑)政治の話とかを授業そっちのけでしたりしてたんですが、そこでの対話ですね。多分、日本で普通に生活しているとウズベキスタンとかシリアのムスリムの方と会話することって無いと思うんですけど、僕はその英語学校で色んな文化の人と出会って会話が出来たのでそれが現在の宝になっていますね。

 

あとまぁこれもよく言われることですが、韓国から日本への反日のディスがあるから韓国人はクソだ!みたいなネトウヨ的な感覚とかってありますけど、あんなのって実際に韓国人の友達が出来たら言えるわけないんですよ(笑)そういう吹き上がりは報道のレベルなどであるかもしれないけど全ての韓国人がそうではないし政治的に良くは思ってなくてもそれを個人同士の関係性にまで持ってくる人なんて滅多にいないわけで、そういった意味で僕は最初にステイしていたロードアイランドでは台湾人と韓国人の友達と毎日ワイワイやっていたので韓国人を差別するなんていう発想が生まれてこないんですね。

 

元々リベラルなので差別はしませんが、ようは友達が出来たりしたら差別しようがないということでもあるんですよね。そこがまぁガラパゴス化した日本のヤバさで狭い観点が故に韓国人をチョンと呼んだり実質日本人なのに在日だと分かったら大騒ぎするとかどうしようもない民度だったりするんで、そういうのもネトウヨレベルになると人間的にも知性的にもクソ過ぎるのでどうしようもありませんが、圧倒的な経験不足がもたらす差別や偏見というのもあるので、そういった意味で留学の有用性ってあるんですよね。これはぶっちゃけ大学どうこう関係ないんですが、ただ結果的に大学に入ったほうが現地の人や他国から来ている留学生と交流できる可能性が高いんで、そういった意味での留学の有用性は揺るがないと思っていますね。

 

相変わらずご質問以外の余計な話も大量にしてしまいましたがそんな感じですね。ちなみに躁鬱さんはどの大学のどの学科に進む予定なんでしょうか?ピンポイント過ぎるとアレなのであれば大体でも教えてくれるとありがたいです。単純にどこの大学になんの専攻で入学するのかな?と思ったので。

 

そんな感じで今日はこの辺で失礼します。