魂のゆくえ。その5。

では続きですっつーか続きっつーか別なやつなんだけど続きみたいなもんなんで続きって感じで。

 

俺がキリスト教に目覚めたきっかけはお導きというか召命だと思ってたんだけど、凄い認識の変化のきっかけがあって、まぁなんだろう、前に書いたと思うんだけど偶然とは思えないぐらい重要だったり凄まじく落ち込んでいるときとか死にそうなときとかにキリスト的な、あとは十字のモチーフのデザインだとかそういったものがシンボルとして自分の前に顕在化してきてそれで救われるというか、結果的にそれが救われるシンボルみたいになってたってことが続いてたんだけど、これは書いてなかったかな。

 


まぁ他にも帰依するようになったきっかけはあるんだけど、イマイチ書けなかったっていうかあえて今ちょっとその一面を書こうと思ったのはコペ転があったからなんだよね。というのも客観的に見てれば十字のシンボルとかキリスト的なものを目にするということはたまにあっても気に留めないか、子供ができるとベビーカーがよく目につくようになるとか軽自動車に乗ると軽自動車の多さに気が付くとかってことあるじゃん?

 


それってマインドの中で顕在化してるから目に留まるようになるんだよね。今の俺みたいにワイフもキッズもいない状態では全く目に留まらないんだけど、ではなんで十字架がそんなにシンボリックに見えるとか、昔からなんでキリスト教は嫌いなのにそのモチーフは好きなのか?っていうとそこがね、想起説なんですよ。アナムネーシスね。

 


仮に魂は不死だとして仮に輪廻転生するとしたらまぁよく言われる前世ってのがあるわけだよね。あってもなくてもよくてとりあえず魂は不死だとしてね、そうするとあれなんだよね、魂が覚えてるんだよね。仮に俺の前世か魂的なものが過去にキリスト教に深く帰依してたものだったらそれをやっと思い出してきているっていうことなんだって納得したきっかけがありましてですね、なんかこっちのほうが論理的だよねっていうことだけなんだけどねっていうか「なるほど!」っていう感じがあったっつーのかな。

 


だから日本人だったらましてや俺が帰依してるようなキリスト教って神秘主義的だったり東方的な感じなんだから仏教とかでもよさそうなのに何でキリスト教?っていうところが分かった気がするんだよね。なんか子供のころからさ、エクソシストっつーか子供の頃にエクソシスト見てたんかい!って話だけど、牧師か神父か忘れたけど悪魔祓いのシーンがすんげーかっこいいなー!って鳥肌立ってたんだよね。聖書を読み上げながら聖水を振りかけるとかなんかそれがすんげーかっこいいと思ってた。

 


あとはアニメとかでも何か忘れたけど主役じゃないけど神父的なのが神の力によってこれまた大麻じゃなくて退魔的なことをするってまぁ前者も大好きだけど(笑)これがクールなんだっていう刷り込みが無い時点で感じるクールさとかなんとも言えない感じって恐らく魂の記憶なんだよね。前世と言いたいところだがスピ臭くなるので(笑)魂としておこう。

 


あとまぁメガテン大好きじゃないですか?で、まぁゆがんだ存在だけどメシア教に異様に惹かれてたのね。まぁあれはイッちゃってるからダメなんだけど(笑)家は無宗教どころかまぁおじいちゃんが浄土宗だったかな。まぁあと禅寺とかにも通ってたらしいけど別に宗教っつー宗教が無いんだよね。典型的な無宗教の日本人家庭に育てられた感じで。

 


んじゃあアメリカに行ったら教会とかあるじゃん?とか思うじゃん?何も感じなかったんだよね(笑)で、なんで30半ばぐらいからなんか意識がちょっとそっちのほうに行ったのかな?っていうね、そうなると地元って教会多いよなーとか思い始めたり(笑)

 


こじつけだけどシュトラウス経由でプラトンに行きついて善とエロスの概念に惹かれるようになったのもようは前触れなのかな?っていう気がしてさって前にも書いたっけね。まぁその究極系が神ですよね。ただそれはバルトもロマ書で書いてるように人間如きに考えが及ばないようなものだよね。

 


それが原理なんだっつったら論理じゃねーじゃん!ってことなんだけど善ってやっぱ論理じゃねーのよね。逆に悪がデフォルトの世界だったらどうなのか?っつっても善を望む人はマイノリティかもしれないけどいるわけだよね。悪のほうが陳腐ながらも奥深くて苦労しなくてもだれでもやれちゃうけど善ってムズイからね。あとまぁ神義とは言わないけどまぁ義ね。

 


義好きじゃないですか?俺(笑)昔気質のヤクザっていたのか分からないけどあと義賊的なものにすんげー惹かれたりとか、異様にその正義への熱が半端じゃないんだよね。あとまぁこれは経験半分だとは思うけど凄まじく悪を憎むんだよね。ふたを開けてみるとあれだけ軽視していた旧約にもいろいろと書かれていてまぁ聖書通りじゃん!っつーのが本当に面白いわけ。

 


まぁ啓示がどう来るのか?ってブルンナーが聖書なしでも自然に福音的なことが啓示として降りることは起こりうるってのとバルトはそこにナイン!って行ったか忘れたけど聖書のみキリストのみ!ってことなんだけど、なんかこれも学問的解決にはならないけど自然な人は魂が覚えていてそういうのが来て、そういう家系だったら自然に聖書に触れるっつー家だったっつーことでまぁそれが啓示になるかは分からないけど接する機会がありました的なね。

 

聖書の世界ってやっぱ霊性ありきなわけでさ、でもそれを学問として突き詰めようとすると霊性を学問することなんてやっぱり無理なわけでさ、でも学問することをあきらめてズブズブだけどスピ的なことも許容するかありえるかもしれないって過程すると啓示に関しては特にそれがしっくり来るよね。魂が覚えていたっていうね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。