魂のゆくえ。その20。

信仰においての自己信用と自己信頼の違いってすげー重要で、俺の話になるけどって俺の話しかしないわけだけどね、いつも。自己信用っつーとまぁなんだろうね、アビリティ的なことだよね。この本何千ページあります。でも興味あるんで余裕で読めちゃいますとか理解できますとか内容がすぐ頭に入りますとか、まぁ主に俺が重要視するのってそういう脳のアビリティ的なことだけど「自分には無理そう」って例えばそれが理由が高度過ぎるからとか高尚過ぎるからとかって場合はまずないわな。

 

それはステップ踏んでないだけで基礎からやれば理解できるに決まってる。理解したい!って思えばね。逆に「無理そう」なのはカラオケ屋に行くとか大衆居酒屋に行くとかっつーことだよね。行けないしやれないで全然それはオッケーって感じ。

 

じゃあ信頼はどうなのか?っていうと俺に任せられるっていう、言わば実存を任せるってことなんだよね。実存を任せられるか?とか今後やっていけるのか?ってことだよね。ここで社会がどうなるか分からないとか「でも・・・」ってのが出てる時点でダメでさ、例えば「あんたが言うことは理想論で実際の世の中は生存競争で必死なんだ」とかって言われたところでなんとも思わないということだよね。

 

でもそれは時と場合によると思ってしまうんだよね。そこがやっぱり自分を信頼できてないんだと思うのね。いや、実際にこれってさ、ある意味簡単な話で自分の信仰が試されてるんだよね。こんだけキリストに帰依している自分を信頼するってのはキリスト者としての自分を信頼するっていうことなんだから、つまりはそれは神を信じるということとほぼ同義だよね。いや、同義ぐらいになる信仰じゃないとダメなんだよね。

 

いや、でも今はまだ悟りを開いていないから・・・とか宇宙意識とかって言われるものに近づけてないから・・・っつっても俺ならやるに決まってるじゃん!っていう信頼がないんだよね。だから例えばセミナーとかでチャクラ開きますみたいなのがあったとして、そういう手っ取り早いのにしがみつきたくなる自分もいるんだよね。

 

でもそこが霊性って意味でも低すぎで霊性を高めよう!と思ってから色々と経験するのが修行なんであって、結果としての認識とかある種の超絶的感覚を得るということではないじゃん?そこに至る道に色んなエピソードが付いて回るようなものだよね。これはこうでこうだったんだけどたまたまこういう本に出合った後にこういうことを経験して気づいたんだけど・・・っていうある種の偶然の必然を自分で引き寄せないといけない。だからHow toとは程遠い世界なんだよね。

 

よく言われる神秘体験をLSDで体験するのか自分が色々とやっていく中で経験できたものなのか?っていうエピソードが欠落したものってのは本当に意味ないよね。それはインスタントに行く方法がなくて自力しかないんだよね。あとは自分がベストを尽くしていれば神という他力が必要になるけど恩寵を感じているという実感が無ければ信仰は続かないはずか、もしくは惰性で信仰しているだけだから信仰の形骸化ですよね。

 

でもこれは人生的な意味での自己信頼は難しいものだけど、でも人生とか関係なくジャンル関係なく信頼できるものは何か?といったら色々あるよね。まぁセンス全般のこととかさ、センスも変わるけどあまりにセンスが悪すぎる音楽を聴くようにはならないだろうし仮に聴いていたとしたら全く今とは違う視点で聴いている可能性があるとかっつーことだよね。

 

ただもうそこは揺らぎようがないよね。この音が好きだからとかこの音楽が好きだからとかそれは映画にしても美術にしてもファッションにしてもそうだけど、それを人から何を言われようが全く関係ないよね。

 

そういった人生に付随するものは確固たるものなのに自分自身に信頼がないというのはどういうことなのか?っていうことだよね。またいきなり鬱になってダークなものに惹かれるようになるのか?ってまずそれは無いよね(笑)そういう良いチューニングを保つのが今の自分の修行でもあるわけだし、全く必要じゃない悪影響しかないネガティヴなものが自分に影響することはもうないだろうと言い切れるよね。

 

それはその影響の大きさを知ったからだよね。なんか心理的にメンタル的にダメージ受けるとかじゃなくて、それ自体が悪い縁起を作っちゃって連鎖してしまうっていう、ある種のそんなものを拾っちゃったりしようものならなんとかして清めたり祓わなきゃいけない!っつーレベルになるし体にも精神にも猛毒なんだよね。

 

それは今通ってる太極拳の先生の教えによるところが大きいんだよねっつーのは先生が話をしたり教えてくれるのは武術の話だけど、例えばわきの下あたりが空いててそこになんかしらのダメージを与えるものを入れてしまう余地があるという体勢をまず作らないということだよね。でもそれは素人とか俺みたいな週1通いのやつができることじゃないよね。んじゃあなんで先生はそれができるのか?というとそれを20年以上やってきている達人というのもあるけど空いていることのヤバさを体で分かってるからなんだよね。

 

今の稽古ではそういうのはやらないけど先生がいろいろ学ぶ過程では空いてるところにガシガシ攻撃が入ってきて痛い目に合うんで空けるということがありえなくなるんだよね。高速道路に立とうと思わないのと同じだわ。そんなもん撥ねられるか大事故に繋がるに決まってるからやらないでしょ。そのぐらいの感覚なんだよね。そのぐらい体のどこかが相手と対峙したときに空いているということはヤバいんだけど、痛い目に合ってないとなかなかその実感はできないよね。

 

で、俺の人生に戻すとがら空きだったのがそういった霊的な部分で霊的ガードの話は相当したと思うけど、思えばあれもこれもそういうことだったのか!って後から分かることが多くて「めっちゃヤバいことを平気でやっていたんだな」って思うわけだよね。まぁ霊的にガードががら空きになるようなことを平気でやっていたと。

 

でもそれが原因でなんかなったりしたと思っていなかったからガードしようと思わないわけなんだけど実はそれがすんげーダメージになっていたって分かったらそこでさっきの先生の話ですよ。そんなの怖くて空けていられないでしょう。開けていられないという文字のほうが正しいのか。まぁいいや。

 

だからそれはふとしたことで魔が差して・・・ということがありえなくなるのはあらゆる意味での魔が差すということが後の酷い体験や体調不良に繋がると考えると魔に対して完全ガードでいようと思うし、何をやったらこうなるっつーことの物理ではない霊的世界バージョンっていうのが分かってきたからガードが完璧かどうかはともかくとして、ガードをすんげー強くするわけだよね。

 

ちょっと揺さぶられただけでも危ないわけじゃん?揺さぶられるようながら空き状態でいることがヤバ過ぎる。だから霊的修行というか、俺みたいなベクトルでの神に憧憬を抱いて信仰するということはすさまじいディシプリンが必要になるんだよね。かといっても苦行的なことではなくて、やらないほうがいいことリストというのができるわけだよね。でもそれはガイドラインのようにあるし今後も増えていくだろうからガードしやすくなるよね。それと同時にメンタルも身体も鍛えないといけないんだよね。

 

それは実際の肉体と健康体ということを維持するっていう栄養だとか病気しないっつーことだったりとかっていうね、まぁ落としどころはプラクティカルな健康法なんだけど(笑)結局、自己信用ではない、自己信用がバッチリの後の自己信頼は自分でビルドしていくしかないよね。そこで鍛え上げられたメンタルと身体があったら信頼せざるを得ないということになるでしょう。

 

だから今は足りないんだよね。だからそれを渇望するわけだけど、聖書にもあるように義を渇望するものはそれが満たされるっていうことなわけで、向かう道が光の道っつーか正しい神の道であればそれは満たされることは約束されてるんだよね。だから問題になるのは向かい方なんだよね。

 

ただ俺はドラッグで神に近づこう!とかって思わないし、瞑想だけで近づこうとも思わないし、日々の経験の中で磨いていくものだし、今の自分のメンター的な人にもそう言われているというのもあって、それが確固たるものになってるんだよね。

 

つまりはその完全な全権委任的な自己信頼ができたときに神との距離は凄く縮まると思うんだよね。もっと身近に感じられて信仰なんていう言葉すら忘れてしまうぐらい神によって満たされている感じが当たり前になると思う。もちろん祈りとか瞑想の時に神や自分のメンターとか太極拳の先生とかお世話になっている人たちに感謝するってのは当たり前にやることでね、でもまぁこれってシンプルな秘伝だけどこういう日々の感謝とか何かに対する愛ってことなんだよね。だからセミナーで第六感開いてもらいましたじゃ何にもならないどころかそんなの恐らく本質なところでの霊性と関係ないと思うんだよね。それは何かではあるんだろうけど崇高なものではないよね。

 

神に対する誠意が自分や他人に対する誠意で生かしてもらっているとかこう生きていられるということに感謝するっていう誠意だよね。今の世の中損得ばっかで私利私欲の時代じゃないですか?でもそういう価値基準しか持っていない人が豊かな精神世界を持っているか?っていうと持ってないどころか、まずああいう風には死んでもなりたくないよなって思うよね。軽蔑の対象だよね。

 

最近分かったのはさ、いや、ある意味キリスト教関係の本を読み過ぎて洗脳されているところがあって(笑)まぁ俺はそのあえてクソみたいな人間を分析してクソだなって思うとかって体にごみ入れるようなもんだから絶対やりたくないんだけど、ただそういうのが目に入ったときになんかさ、聖人にでもなろうとしてたのか「軽蔑してはいけない」とかって思ってたんだよね。

 

でもこれってすんげー律法的だよね。全ての人に愛を・・・っつっても通じない人が多いから小乗でいいから良いヴァイブスを共有できる人とコネクトして生きていきたいっつーところだからその平和を乱すようなものを軽蔑するのは人間として当たり前なことですよね。でもなんか聖人的に「軽蔑しちゃいけない」とかこれは本来の俺とかけ離れすぎてるよね(笑)そういうのが徹底的にクズだと思えるから嫌だと思うわけじゃん?その感情を殺したらダメだよね。それって自分に対する嘘だからね。

 

もしくは角が立たないように穏便に済ますとかさ、まぁあえて問題を作ろうと思わないから問題が起こるようなところだったらそれは軽蔑を態度では示さないと思うけど、心では凄まじく軽蔑するわけだよね。思うにこういう本来の人間的感覚を鈍化させていくと相当ヤバいことになるのと、なんかそっちのほうが聖人っぽいようで俺みたいな結局は俗人出身の外様にしてみれば、そんなような聖人みたいな振る舞いをするというのは無理すぎることで霊的な成長も逆に遅くなるんだよね。

 

だから面白いんだけどキリスト者としてのディシプリンはあるんだけど俺本来の子供みたいな感覚は殺さないんだよね。単純に凄いもんに「すげー!」って感動する感覚とかさ、嫌なもんは徹底的に嫌うっていう態度とかさ、それが俺じゃん?自我を無くすってそういうことじゃないんだよね。人間やめるということではないから(笑)

 

いやなんかね、やっぱあれなんだわな、俺とかって一人の修行とかいくらでもできるんだけどだからこそ日々の生活での修行ってのが重要になるんだよね。忘れがちな世俗との関わり合いで起きる色々なことの体験とそれを通して実践していくキリスト者としての態度ってことだよね。それが伴わないと真の霊的成長は全く望めないんだよね。

 

ってことが分かったから相当前進だわ。まぁでもそれは色んな人のアドバイスのおかげで、それで自分で考えた結果、こういう感じで落とし込めることができたから、やっぱり人なんだよね。本だけの世界だとこうはならないからね。だからより自分の霊性を上げて高い霊性のヴァイブスの人と波長が合うようになりたい!って思うわけなんですよね。

 

もちろん目指すはトップだ(笑)最強の霊的ヴァイブスを持つ男になることだよね。でもそれは必ずしも超能力使いたい放題とか透視し放題とかそういうことじゃないんだよね。本当の高い霊的ヴァイブスっていう意味だとそんなのどうでもいい話なんだよね。神の恩寵によって自分が溢れんばかりの愛に満たされてたらそれが最強のヴァイブスなんだよね。キリストがそうでしょう。だからやっぱキリストなんだよな。仏教とかだと愛というより悟りとか自我を超えるとかって感じだと思うんだけどキリストって愛の化身じゃないですか?神=愛なんであってね、その愛が受肉化した存在がキリストですよね。

 

本当に自分はその使徒でありたいと心底思うよね。それが成りたい自分だし掛け値なしにそれなんだよね。まぁそりゃ金持ちになりたい!とかモテたい!とかあるんだけど(笑)神の道とは全然比べ物にならない「成りたい」ということだよね。

 

でもまぁ今はキリスト教だけじゃなくて霊性という意味で学問的ではないものも含めて神道の本とか修験道の本とかも読んでるって前に書いたけど行きつくところが一緒なんだよね。あと占い師的な人とか見える人とか今の自分のメンターとかも共通してそれは言ってるんだよね。呼び名とか宗派とか色々あるけど行きつく先は同じなんだっていうね。

 

だからなんかキリスト教なんだ!とかっていう護教論とかにどんどん興味が無くなっていくんだけど(笑)でも護教をしつつ一時期誤解して大嫌いだったバルトとかはやっぱり良いところもあるし霊性を凄く大切にしてる人だから興味なくなったということではないんだけどね。ただまぁ俺が目指したいのは学問的なことじゃないなってことは確かだよね。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。