魂のゆくえ。その25。

ってことで続きです。

 

まぁそんな感じですかね。あとはまぁ簡単なお掃除とか自分でできる浄化とかってあるんだけどこれはなんかスピリチュアルなのか宗教なのか霊的世界過ぎるんで書かないわ。ただまぁ効果は半端ねーよ。でもそれは闇断ちとか食事療法とかいろんなアドバイスを実践する中の一つとしてやっていてこれも効果ある!っていう相乗効果だと思うんだよね。だからお掃除とか簡単な浄化だけやっててもこんなに劇的な変化はないと思うんだよね。

 


だからまぁ全身全霊なのよね。生活の中で10分間だけ意識するとかじゃなくてもう全部それに捧げる感じね。でも捧げてるんじゃなくて好きでやってて効果があって効果が目に見えて分かるから楽しくてしょうがない感じなんだけどね。

 


そういう生活をしてると宗派関わらず行者の激しい修行とかの意味とかもなんとなく分かってくるんだよね。霊性を高めるってまぁ総合的なアプローチなんだよなっていうね、霊性を高めるためだけの瞑想とかセミナーとかじゃなくて(笑)考えて学んで修験道とかなら滝に打たれるってことがまぁ浄化だったりするわけじゃん?そういうのをハードコアにそれだけやるってことなんだよね。で、それは精神だけでもなく肉体だけでもなく全部を使って総動員で全身全霊でやるんだよね。だから修行が成立するんだなと。

 


あとあれですね、これは修行中で難しいけどネガティヴな考えとか思念みたいなのをスルーする力ね。これもまぁヨーガの瞑想法とか禅とかヴィッパッサナーとか色々あるんだけど、つまりはキリストが言うところの悪に抗うな!っつーところに尽きるんだよね。あとウパニシャッドとかヴェーダーンタあたりなんだと思うけどヨーガスートラですよね。例えば悪の思念みたいな、遠ざけたいようなものが頭に浮かんで「あーダメだ!修行が足りん!そんなのが浮かんでこないような境地を目指さねば!」っていう遠ざけるとか取り除くとかってことじゃなくて、そういうのが出てきても別にそれは風景として出てきただけで自分とは関係ないと認識することなんだよね。

 


間違った認識はそれが浮かんだということでその浮かんだことと自分を同化させちゃうってことなんだけど、これってよく考えれば変な話で、老害みたいな老人がコンビニの店員を怒鳴りつけてるって場面があったとして、もちろん怒鳴りつけている老害とかはどうしようもねーなと思うし、怒鳴りつけられている店員さんはかわいそうだなとは思うんだけど同化はしないじゃん?自分は怒鳴っている老人でもないし怒鳴りつけられている店員でもない。

 


嫌なものを見ちゃったとは思うけどその気分を自分を同化させないよね。胸糞悪い風景ではあるがそれによって心が乱されることはないんだよね。もちろん店員がかわいそうだっていうのと老害クソだなっていう怒りはあるのよ。そういう意味で無関心とは違うんだよね。この辺って勘違いされがちだよね。不動心って無関心じゃないからね。

 


感覚を鈍化させて心を揺らがないものにするのではなくて心はむしろ今まで以上に人間的でありながら心は乱れないっていう状態だよね。だから座禅なんかだと心を無にしてっつーか風景が浮かんできても別にかまわなくてそれを観察するとかまぁ気を配らないとかそんなもん目を瞑ってたら色々浮かぶんだけどそれはただ浮かんだだけっていうことなんだよね。なんかでもさ、消すって方法があるけどまぁあくまで一説として考えてほしいっつっても高尚な本に書いてあることだから多分あってるんだと思うんだけど消すってことをした時点で分別が働いてて、あとまぁ抑圧も働いてるじゃん?

 


顕在化したものに対して「これは精神衛生上良くないことだ」って判断して押さえつけるなり消すっつーことをするとそれって悪に抗ってることなんだよね。でもどうやら瞑想について書かれたちゃんとした文献なんかを読んでると消すなんてことは一言も書いてなくてそんなもん人間なんだから浮かんできて当然なんだけど「so what?」なんだってことなんだよね。浮かびました。だから何?って話。

 


逆に「あー浮かんじゃった!消さなきゃ!」って反応をしてる時点でそれが数秒の出来事でも反応してる時点で不動心じゃないんだよね。まぁ難しいけどね。言うは易く行うは難しの典型だよね。太極拳の先生に教えてもらってる武術の心得でもフェイント臭いものに一個一個反応してたら命がいくつもあっても足りないわけで、そんなのに反応せずに常に相手の中心を捉えているということが大事っつーことで、なんかよくさ、宮本武蔵とかじゃないけど日本の武術とかって瞑想みたいな禅の境地みたいなのと武術ってセットな感じするじゃん?まぁようは通底するものがあるんだよね。明鏡止水とかって中国の概念だけど昔から武術とセットな感じするよね。

 


空手の道場とかに「不動心」とかって掛け軸が飾ってあったりするのもまぁようはそういうメンタルなんだよね。自分の太極拳の師父も言ってたけど一番ヤバい攻撃って無の攻撃なんだそうだよ。全く作為が無く気配もない、拳がこっちに来るという情報もそぶりもない中で気が付いたら腹殴られてたみたいなのが一番ヤバいらしい。んでまぁ空手を60年とかやってきた達人でそういう人がいたらしくてまぁ実際にそういう無の突きみたいなのを受けたことがあってまぁそういう風に思ったらしいんだけど説得力あるよね。まぁそりゃ予備動作なりそぶりがあると反応できるからね。全くそれがないって怖いよね。

 


まぁようはその空手の達人の無の突きのような精神の在り方だよね。無の突きは相手の攻撃が来た!って反応してたらもう遅いんだよね。まぁ武術全般そうだけどね。格闘技ならともかく武術の場合、一瞬で生きるか死ぬかが決まるから反応という次元のレベルのものが淘汰されるんだよね。そうじゃないと身が守れない。

 

ってことで続きますんでんじゃまた。