行方不明の象を探して。その168。

象は自分の存在を無視して部屋の中で作業をしているフリをしている。行ったり来たりして「あ、そうだ」って思い出したようなふりをして戻ったかと思うと考えてまた何かやっているフリをする。電化製品のプラグを点検したりPCでなんかの操作をしたりしている。なぜPinナンバーを知っているのかは分からないしどうでもいい。時間が物凄く重く感じる。象の重量と同じ感じがする。それを受け止めている感じ。

 

でも象の動きはてきぱきしていてのっしのっしする感じは一切ない。そこに作為的な演技性すらも感じてしまうぐらいてきぱきしている。部屋の片付けもやってくれたらなーと思う。実際に積み上げられた本とかを入れ替えたり本棚を覗いては本を取り出してまたしまったりしている。でも片付いているという印象はない。

 

象に対峙するときは不思議さを全く感じない。饒舌だったり今みたいに意味不明な行動をしたり、でもそれは凄くおかしいなという印象を与えない自然さがあって、一体何なんだろう?という例のitのほうがよっぽどおかしいだろうという認識に至ることになる。まだ意味不明なことをしている象のほうがitより何かがある気がする。

 

ただここまで誰もいないかのように意味不明な作業をさせられると自分が存在しているのかどうかが不安になってくる。でもそんな不安は一瞬で消えてしまう。そもそも存在ってそんなもんだったよなという理性が働くからである。

 

怠慢。象の仲間に入り続けることを許す受動性です。あなたがたからはなにひとつ残りはしまい。無限はついにそれに悩んだものから脱出する。書かないことに全精力を注ぎ、書くことで失敗から、失敗の強度の中で書くようになるだろう。顕在化しない苦悩。悩んでいてもしょうがない。そうではなくて、象はもっと切迫したもの、能力のない時間としてしか受け取ることができないのだ。言葉が武器でなくなり、行動の手段、救いの手段となりますように。アーメン。信仰告白。

 

むしろ混乱に感謝し頼ろう。無限において終末しなくてはならないのだから。書いても書かなくても変わらないときに書くことが変わるだろう。失敗を恐れてはいけない。わが生涯を説明するため、我があなた方に言うことはと言えば。しかしそれと同時に成功へのノスタルジーに浸ってもいけません。

 

張り詰めた神経の先に快楽があり快楽の先には快楽を越えたものがあります。それは偶然に起こることであり、自分の魂を救うために自分を消滅させることでもあります。書かないということ、それが書きたくないということでも書けないということでもなく、実際は象の喪失という形で存在意義を無くしますが、必要なのは象と無関係に書くのではなく、書くこと自体を前提とすることです。

 

腰をおろして鉛筆を片手にブランショを読む。ブランショと鉛筆を置き、床を拭いて降らすにふたたび水を注ぐ。腰をおろし鉛筆を片手にブランショを読む。ブランショを置きメモ帳に書き留める。鉛筆を片手にブランショの続きを読む。電車に乗る。座席に腰をおろしブランショと鉛筆を出すが読まずに、自分で解決策を考える。自分の力で。そろそろできるはずなんだけどな。ひどい話。

 

でも、どうすることもできないんです。あたしの日記は読まれている。コピーが作られ、嫌なタイトルのサイトが公開されてた。削除したけど、20人くらいに読まれているみたい。どうしてこんなことになるの?そうなの、あたしくらいならどうとでもなるんです。長い間ネットに接続しないようにして様子を見たいんだけど、そうしている間に、どれだけのサイトにコピーされるか分からない。

 

一日の終わりには、あたしのサーチエンジンと削除ボットがインターネット上を行き来するようになった。しかし、もし相手があたしの日記のバックアップをとっていたらどうだろう。相手は変な人だろうから、完全なバックアップをとっている可能性もある。これは悔しい。一人では勝てない。自分の力では。象さんに相談してみようか?でも、なんとかなるかなぁ。

 

書くこと自体を前提とする?いや、そうしているじゃないか。そう思っているから書いているのではないか。これは多分、薬とウィスキーを飲んだときに書いたものだと思う。それがなぜ机の上にあるのかが分からない。

 

考えるのをやめてブランショを開く。フランス語で読むブランショは分かりにくい。邦訳で読んでもそれは変わらないので、ブランショ自体が分かりにくいのだろう。短いセンテンスより長いセンテンスのほうが分かりにくい。長いセンテンスのいくつかは部分部分はわかってもあまりに長いために最後にたどり着く前に最初のほうを忘れてしまう。

 

最初に戻り最初を理解して読み進み最後まで来るとまた最初のほうを忘れている。最初に戻らず理解もせず思い出さず何も学ばないまま鉛筆を宙に浮かせて読み進む。分かる部分になり余白に鉛筆で印をつける。しかし分からないようで分かっているし、本を読むときにメモも書き込みも必要ないので基本的に本しか持ち歩かない。

 

ブランショから目を上げ、他の乗客を見る。紙媒体を読んでいる人間はほとんどいない。スマホを見ているからといって本を読んでいないとは限らない。電子書籍を読んでいる可能性がある。しかし大抵の場合、メールかSNS関係で、過去に電子書籍を読んでいた乗客は一人しか見たことが無い。彼女が何を読んでいたのかまでは分からなかった。

 

ブランショに戻る。ブランショがどういう場合に分かりにくく、どういう場合に分かりやすいかが分かってくる。勘所を掴むと一気に読書が楽になる。ブランショの文芸作品の理解も高まることだろう。そういう意味では文芸批評から読み始めたのは正解だった。ブランショの処女小説「謎の男トマ」は出版された当時、フランスの限られた超インテリしか読まなかったらしい。

 

超インテリでもない自分がブランショを読めるようになっているのには感謝しかない。それにしてもあれが1941年に出版されていたなんてとんでもないことだ。ベケットのモロイが1951年だから時代の先を行き過ぎていたと思う。ベケットですらもそうだったのだから、ブランショと言えばもうとんでもないことだ。自分の貧弱な語彙ではそのくらいしか言い表せる言葉が見つからない。

 

サルトルの嘔吐が1938年だが、嘔吐は所謂小説だ。主題が若干難解であっても読めなくはない。ブランショはどうか?主題も難解で内容は抽象を極めている。そんなものが1941年に出版されていたのだ。

 

そんな歴史的事実という、疑いえないものが、疑いに陥ることなく、疑い深さから自由なまま、そのままの状態で、言語を裂き、言語の中で自身を失い、言語をその喪失に変える沈黙によって目に見えない形で無意味にされる。このような条件下で、愛すべき真理が保たれるのである。

 

書くことは不連続性によって継続する。それは沈黙の誘惑であり、まさに不在のうちに、僕たちを不条理な帰還へと導いているのである。沈黙の外部において、つまり、言語と何の関係もない沈黙において、言語から来るのではなく、常に言語から出発しているこの沈黙の外部において、始まりもしなければ終わりもしないものが、夜、常に見張っているのである。

 

それは思考が自らを解き放ち、書くことによって断片化するときの名前である。外。中立的な象。これらがシステムを形成することはない。その境界がどこにも示されていない外側でさえ、何も明らかにしない滑りやすい半透明さだけが残る。この言語は、これらの名前を再び世界に戻すか、より高い世界に昇華させることなしには、復元しようとしてもできないものである。