現実はオワコンという認識からはじめませう。その19。

じょう 2013/02/07 21:59


はじめまして。
SAC 2nd gigの頁から入りまして、最近のエントリーを読ませていただきました。


バーチャルな理想郷いいですね。現実の社会で生活を送ることが困難になったときにはじめて病気が存在するのですから。誰も傷つかない、否定されない場所が理想郷とするならば、ヲタクコミュニティの構造がそれですね。同じものを崇拝するコミュニケーションは楽しいです。ヲタク最強だと思います。


ところで、本文にある「底辺、馬鹿」と「凄い人」とは、どのような特徴をもった人たちですか?
是非お教えください。


mimisemiさんの文章を読んでいて、共感能力の特に高い人たちがこの社会で絶望せずに生きていくにはどうすればいいのかという問題意識を感じ、それに共感する形でコメントしてしまいました。


書き込みありがとうございます!底辺に関してはあれですね、一般的な底辺ってやっぱり収入とか社会的地位のことだと思うんですが、僕の場合は僕が勝手に主観的に思っている人間の質のことです。ようはクズ人間ってことですね。身の保身のために人を平気で騙せるとか誰かを蹴落とすことに躊躇が無いとか相手の気持ちを全然理解せずに平気で人を傷つけるとか最近の日本人に多いタイプの所謂嫌なやつのことですね。というかお隣韓国とか中国とかでも多いそうでこれは社会的な構造によるものなのかなんなのか分かりませんが、とにかく陰湿でどうしようもない感じの連中といったところですかね。だから収入云々は全く関係ありません。こんなことを言ってたら世の中でやっていけないとかってよく言われますけども、僕に言わせれば社会はこういう底辺が支配してると思ってるんですね。で、まともな人たちが貧乏くじを引いてたり無駄に苦労してたりするわけです。僕はこの支配構造を逆にしたいと考えていましたが、変えるということの難しさというのを痛感しておりまして、だから変えるのではなくまともな人たちが既存の社会とは違う社会を作り上げるという考え方になってますね。


で、それはヲタクコミュニティ的なものでもいいんですっていうかそういうのがあればそれが存在のインフラとなって逆にリアル社会での底辺のやつらとの付き合いもリアル社会でのどうしようもないオワコンにつき合わされてるということで割り切れるようになる場合もあると思うんですね。存在のよりどころがクソみたいな場しかないから居場所が無くなって自殺とかになるわけで、似たような嫌なやつばかりが横行している社会に嫌気がさしている人たちは決してマイノリティではないので、まずマイノリティではないんだっていう自覚が必要ですよね。マイノリティだからって思うから現実でやっていけなくて自殺になるわけですよね。でも実際に現実に嫌気がさしている人は多いわけで、だったらその現実から離れるなり距離を置くなり存在が定まる場所を変えるなりすればいいわけですよね。それがなんていうか存在のインフラという考え方なんですが、端的に言えばクズとか底辺とか馬鹿と付き合わなくて済むか、もしくは存在のインフラがあることである程度割り切れる余裕ができるとかそういうところですよね。


僕が言う底辺という言葉は一般的に使われている意味と違うんで語弊があるので考え直そうと思いました。繰り返しになりますが僕の言う底辺は人間の質です。なので億万長者にも底辺は大勢居るし、それは何も経済的な要因で規定されるものではないということです。むしろ人間的にまとも過ぎて損をしている人で言えば底辺じゃないのに収入とか生活の質とかで底辺のレッテル張りをされたりしますよね。僕に言わせればそんなの底辺でもなんでもないわけで。かといっても左翼にありがちな労働者達のほうが資本家より人間的に勝っているみたいな幻想は持っていないんですよね。実際にしょうもない場所で働いている人たちはそれなりに馬鹿や底辺が大勢居るというのは経験して見ていますし、あとは色んなものを読んだり聞いたりもしているので、何が言いたいのかというとある程度は経験と情報によって判断されているということです。僕は文章の雰囲気から引きこもりだと思われがちなんですが、その辺の人たちよりかは豊富な経験を持っているので、机上の空論ではないと思っています。ある程度のことを経験してきて見えてきたパターンみたいなものですね。


で、次に凄い人なんですが、これは人格と社会的地位や収入や才能がある人たちのことですね。でも別にこれも世間的に言われる凄い人!って意味ではなくて、あくまで良い人格が軸になって才能を発揮している人たちのことですね。才能があっても人間的にクズだと僕は凄い人だとは思わないんでそれは凄い人に入りません。あと人格がすばらしくて才能があるけど収入がゼロでもそれは凄い人になります。これも経済的要因はあまり関係ないということですね。結局はようはヴァーチューということですね。哲学用語でのヴァーチューでもいいですし、仏教儒教などの徳ということでもいいんです。でもヴァーチューがあるからこそ角が立ったり世間との折り合いがつかない人って結構いると思うんですよね。そういう人たちが適応のために希少価値のあるヴァーチューを捨ててしまうみたいなこともあるわけで、そういうヴァーチューを発揮できる世界っていうんですかね。それも僕の世界構想なんですよね。


収入云々ではなくそういう人たちがクズ人間に囲まれて腐らなくするようにサルベージするという感覚ですかね。僕が言うすごい人って滅多にいませんからそれはもう絶滅危惧種みたいなもんですから保護をしなきゃいけないわけです。彼らに自殺されたらたまったもんじゃありませんね。国益の損失ですよ。本当に。そういう人たちが上手く生きられないのが問題なんですが、そこを国とか社会に求めてもようはそういうのはオワコンなのでオワコン側はそういう人たちを上手く扱えないわけですよね。だから新しい世界が必要だってことなんですね。底辺・馬鹿・凄い人といったようなキーワードは全部こういう世界の話に結実する共通した話題ですね。


ようはそれって価値ってことなんですよ。凄い人!っつってくだらない情報バブルに乗って一時的に大金を稼いでる人とか凄い人じゃないわけですよね。僕は収入ゼロだろうがニートだろうが人格が優れている人は保護されるべきだと思ってるんですね。逆にクズは救済されなくていいと思っている極論も持っていて、ようはクズに関してはどうでもいいってことですね。まともだからこそ悩んでいる人たちを保護したいんですね。そういう人たちが毎日自殺していると思うともうやるせないんですよね。せっかく良いものを持って生まれてきたのに社会がオワコンだから居場所がなくなって自殺するしかなくなるとか理不尽の極みですよね。


あと最後になりますが「最近の日本人に多い」というのはみんな余裕が無くなってきているという状況が人間の野獣化を促進しているのは間違いないですね。マルクスが書いていたようなことで、永遠と意味も無い賃労働をしてそのためだけに生きていると最終的にその人間は野蛮な動物みたいな人間になるってまぁ不安定な社会がそういう人間を大量生産してしまっているというのは事実ですね。韓国とか中国とか日本とかその辺は共通してますよね。で、それプラスこの辺のアジアっぽい陰湿さが生きづらさを倍増させているわけですね。


何が言いたいのか?というとそれは別に日本人に限ったことではなくて、構造的な問題なんだってことですね。まぁオワコンという事実は変わりないのですが。何かコメントあったらよろしくお願いします。

metaruna 2013/02/08 06:24


こんにちは。初めてコメント書きます。ずっと前からここのブログは知ってて今日久しぶりにふいに思い出して最近のエントリーを読みました。多分俺の感覚とmimisemiさんの感覚は似てるとこがあります。もちろん違うところもありますが。で、読んでほしい本があります。ユクスキュルとホフマイヤーの「生命記号論」です。できたら、感想聞かしてほしいです。なぜかと言うとmimisemiさんの囚われてるニヒリズム感というのは「カント危機」的なもので、まぁ俺もそういうのがあった訳だけどで、今mimisemiさんは「ヴァーチャル」「ゲーム」というところに着目してる。それは俺がニヒリズムから抜けだしてたどり着いた感覚、あるいは「環世界」というところに似てるのじゃないかなと思うのです。結局は「色即是空、空即是色」ということなんですけど。まぁ他にも感想聞かしてほしい本がいくつもあるのですがこの辺で。


あと坂口恭平苫米地英人なんかも偶然僕のブログに書いてるので、もしよければ読んでください。「バーチャル(virtual)←virtue」とそれが「仮想的」ではなく「事実上」という意味である欧米の感覚と東洋の僕らの感覚とは違うところがあると思うとか色々聞きたいことはありますが、それもまたこの辺で。久しぶりに来て、今色々考えてることとつながりを感じたのでついコメントしてしまいました。では。


metaruna 2013/02/08 07:13


言葉足らずだなと思って付け加えておくと、要はプラトンの洞窟の比喩自体にニヒリズムの構造が埋め込まれてるということです。あれをガチで信じると、というかプラトンデカルトやカントを前提にして思考していけばその先にはニヒリズムに行き着くに決まっているということです。科学や西洋哲学によって判明したこと、説明できることはたくさんありますが、そうではない部分も確かにあるのです。そして、そのこと自体を科学や西洋哲学によって説明できると俺は思ってます。まぁその一端がゲーデルだ、とか言うと数学に詳しいmimisemiさんから怒涛の反論を食らいそうですが。科学的思考と身体的感覚の両方が大事だと言いたいだけです。


slさんへの反論を読んだのですが、「神秘主義」という言葉に拒否感を持たない方がいいと思います。なにせ西洋世界はこれまで「キリスト教」を元に築かれてきたんだから。それで「神が死んだ」とか大騒ぎしてる訳です。だけど俳句読んで気持よくなれる日本人には大したことない問題だと思います。この「神秘主義」というのは音楽聞いて「No more war」と言いたくなるような感覚も含みます。科学と偽科学・エセ宗教の間の領域の話です。「オワコンの世界」とか「現実はオワコン」なのは確かですが、その言葉は僕は嫌いです。「奴らマジ終ってる」とか「奴らが前提にしてること」だとか言う言葉を使いたいです。なぜならこの世界自体とか、「現実」vs「仮想」というのは存在せず、「環世界」しか存在しないからです。そして、その「環世界」の中で価値や意味が生まれます。客観的な意味や価値は存在しません。またこれが相対主義とは違うというのが重要な点ですが。自分のブログで書けよって感じなんで、ここら辺にしときます(笑)

生命記号論は早速注文しました。アメリカからの発送で到着に一週間ぐらいかかると思いますが届いたら早速すぐ読んで見ようと思っています。「環世界」に関しては凄く近いですね。僕が前に書いたホムンクルス性ですね。知覚できる場所というのを自分で作ったりバーチャルなものもあえてバーチャルなんて言わずに主体によって知覚されている一つの環境や存在であると考えることで人間はそれをあたかも本当の存在のように扱うようになるってことですね。あとはまぁこれも前に書きましたが、手を動かすと画面上のバーチャルの手が動くとかようはキネティック的な感じなんですが、人間はこういったものに対する適応性が尋常じゃなく高いらしいんですね。ジャロン・ラニアーというバーチャルリアリティーのゴッドファーザーみたいな人の「人間はガジェットではない」という本でこのホムンクルス性の凄さを知ったんですけどね。で、ラニアーはさすがにゴッドファーザーだけあって安易なユートピアニズムとかに陥っていなくて、むしろ主体は人間ではなくてネットそのものにあるわけではないから、所詮は烏合の衆が集まったところで何も生まれないみたいな批判的なことを書いていて凄く感銘を受けたんですよね。バーチャルリアリティに必要な視点ってまさしくこれなんですよね。極度な楽観性とか期待ではなく現状を見据える批判的な目とリアリズムですね。ラニアーは研究が長いだけあってさすがに色々と分かっているなって思いました。だから僕もリアリストとして言えるのは社会云々というよりかはまず個人の世界を作るということだろうってことになるんですよね。


あとカント危機については正直初耳だったので今ちょっと調べて見てどんなものかは分かりましたが、ちゃんと文献を当たって研究してから色々と書きたいと思います。ただ僕が陥っているニヒリズムがカント危機的であるというのは本当にその通りだと思います。完全にそうではなくても類似点が色々とありますね。類似性で言えばヤスパースの限界状況もありますね。あとmetauraさんのブログは何回も読んだことはありますが、これを機に全部読ませていただきます!


いや、こういうことなんですよね。こういったやり取りもバーチャル世界でのやり取りというよりかは共通した問題意識を持った人たちが集まって情報交換などをしながらまた色々と知ることができる・・・ってバーチャルでもなんでもありませんよね。なかなか現実の場でそういう場所を見つけるのが大変なだけで、ネットがあればピンポイントでやり取りができるわけですから、これを果たして「ネットの世界の話」なんて言っていいものか?ってことなんですよね。むしろ現実社会でのコミュニケーションのほうが表層化していて、むしろ深い話はネット上で行われている気がしますね。それはネットという性質から類は友を呼ぶ的な言わばキーワードですよね。それこそウェブなので似たような問題意識を持っている人たちがキーワードを頼りにつながりやすくなったり、別に直にコミュニケーションをしていなくてもお互いのブログは読んでいたりするわけです。これはもうすでに間違いなく有機的な動きですよね。凄く人間らしいバイオな動きだと思います。その動きを僕はしているわけで、そこにバーチャルも現実もないわけですよね。


場所が現実であれバーチャルであれネットであれそこに自分という主体が置かれていてバイオロジカルな動きや知覚をできていたらもうすでにそれは自分の世界で起こっていることですからね。自分の世界で知覚されているということをむしろこれはネットでこれは現実で・・・って分けるのがナンセンスですよね。仏教で言うところの分別ですね。無分別智が必要だということです。でも現実にバイアスを置かなければいけないみたいなわけのわからないイデオロギーで無分別智が得づらくなっているわけですね。現実は無駄な分別をしろ!と強制しますからね。それで他人と自分とを比べたり職業だ学歴だなんだってどうでもいいことに悩んで苦悩してしまうわけですよね。そんなものを強いる現実とは一体何なのか?ってそこが僕に言わせるとずばり「オワコンの世界」ってことになるんですよね。そうではなくてそこから離れた彼方に認識や存在の定立を求めたほうがいいわけです。でも言うまでも無く物理的にはオワコンの世界との付き合いは続きますが、認識や存在が属している場所が違う場所なら折り合いはつけやすくなると思うんですよね。


あとプラトンの洞窟の比喩なんですが、まさしくおっしゃる通りですね。僕はあれをガチで信じてニヒリズムに陥ったわけです(笑)元々自分はニヒリスティックで厭世的ではありましたが、哲学的にニヒリズムに陥るというのは、悟性的というか分析的なニヒリズムに陥るわけですから、それって言わば必然的な論理的な帰結としてのニヒリズムですから凄まじいものですよね。あとオワコンという言葉なんですが、これは確かに色々と語弊があって、全ては metauraさんのおっしゃる通りで反論も異論も一切ありません。ただ僕がオワコンだと言いたいのは個人としての現実への怒りがあるんですね。そこは概念や書物の世界だけではないそれこそ身体的に感じる不快感と怒りです。環世界しか存在しないのに現実側はそれを壊そうと邪魔をしてきますよね。攻撃をしてくるわけです。僕はそこは認識的な高みにいながら環世界しか存在しないと言うのではなく、現実に身を置いて苦悩をしながら精進していくしかないという泥臭い生活性の中から出てきた言葉としての強い意味での「オワコン」という言葉を使いたいんですね。誤解を生みますがでもそこは僕の実存ですね。そこは僕の馬鹿なところでもありでも人間臭いところでもあってそこは捨てたくないんですね。自分の馬鹿なところが「オワコンだ」って言い方をしているわけです。


これは全く正当化できるような代物ではなく、認識的には先ほども書いたようにmetauraさんのおっしゃる通りでそれに関してはなんの異論もありませんが、僕としてはまだ「環世界しかない」と言い切れないというか、まだそこに至っていない自分というのもあるし、「環世界しかない」と言えるようになるまでの未熟なプロセスとしての、そのプロセスから出てきた語弊のある言葉として「オワコン」という言い方は今は残しておきたいんですよね。言わば日記的な役割ですよね。で、将来の自分が見れば完全に環世界しかないと認識的にも身体的にも感じきっていてそれ自体が生きることになっている自分が今書いている自分の言葉を読み直したときに「葛藤していたなーあの頃は」って感じられればいいと思ってるんですね。馬鹿な言葉ですけど自分なりの凄く強い言葉なんですよね。ようは。怒りや憤りや悲しみとか、そういうのはやっぱり表現したいんです。だからこそ未熟なままなんですが、それの繰り返しが精進だと思っていますし、そのプロセスを恥ずかしげも無く公開しているというのがこの場なのでそれはいいかなと思っているんです。でもあまり過度に使いすぎるとより誤解を生むのでmetauraさんのご指摘は心に刻んで今後は気をつけて使おうと思っています。あとはアジテーションの意味もありますね。お前ら悩むんじゃないぞ!あんなもんオワコンなんだ!っていうこの頭の悪いシンプルさですね(笑)


で、そのアジテーションにお付き合いいただくと環世界的な話や仏教的な話が見えてきて、結局はオワコンなんて言葉は無いじゃん!ってことになるんですが、アジテーションとしてはやっぱり必要というか、あとは僕は基本的に闘争的な人間なので汚い言葉を使ってでも嫌なものは徹底的に叩きたいんですね。で、悩んでいる人たちがべらんめぇな感じで会社やバイトを辞めたりしてもらえれば凄くいいなって勝手に思ってるわけです。就活クソ食らえ!ってのも就活なんてオワコンだろ!っていうシンプルな怒りで表現できますよね。こういう卑近なことに対応できる言葉として凄く便利だなと思っているわけです。まぁファックな就活と良い就活はありますから就活=ファックではないんですが。それはバイトや会社然りですね。


神秘主義に関しては凄くそれは分かります。でも何でこんなに僕が神秘主義という言葉を嫌うのか?というと僕自身が神秘主義者寄りだからなんです(笑)波動的なこととかオカルト的なこととかもちろん分けて考えるようにしていますが、神秘主義的に考える自分というのはここではそこまで書きませんが内なる声としては凄く大きくあるんですよね。だからこそ下手をするとそれにズボズボになりかねないという危惧を感じてるんですね。過去に引き寄せの法則を信じ込んで詐欺にあったということもあって、それ以来特に神秘主義や魔術的思考に関しては凄く気をつけるようにしているんです。そういうところが少なからずあるので、それこそドラッグにハマりがちな人間が過去の反省からドラッグ的なものを拒絶するようになるみたいなそういう感じになりますね。あんま書いてませんがトランスパーソナル心理学とかあのケン・ウィルバー系の話とか実は大好きなんですよねってまぁでも神秘主義的なフレーバーがあるので怖くて手を出してないって感じなんですよね。あと自分の数学観に関して言えば完全に宗教的です。自分が帰依する対象が数学なんだと真剣に思っているほどです。


今一番読みたい本がFranklin Merrell-Wolffという人の本です。オカルトではありませんがある種の神秘主義者ですね。神秘主義という言葉を嫌っているのにも関わらずやはり言葉では表せないようなところのものに惹かれてしまう自分がいるので、神秘主義を嫌うというのはクラスの好きな女の子のことを悪く言うみたいな愛情の裏返しみたいなところですかね(笑)ひかりの輪の上祐さんの話とか聞き入っちゃうんですよ。本当に。でもそこは自分が厳密なフッサール的な意味での哲学的立場に立っていないと自分の地盤はいつでも壊れるとすら思っています。まぁ別にひかりの輪が悪いとかそういうことではないんですが、ただ認識的に凄く危険だと思うんですね。あ、ひかりの輪が危険だということではなくて、超越的であったり神秘的であったりそういうものが介在すると自分的には自殺というのが凄くリーズナブルなものになってしまうんですね。実際に入定なんつって昔の坊さんは即身仏になったりしてましたし、あとは普通の入水や崖からの身投げもあったそうです。南無阿弥陀仏と唱えながら日本を横断して行き着いた先が崖でそのまま念仏を唱えながら進んで大往生したとか、そういうのを僕がリーズナブルだって考えてしまっているところが自分としてはマズいって思ってるんですね。そういう面が多分にあって、なおかつ神秘的なものや超越的なものの介在を許す話になると、色々と端折りますが結局は自殺が一番!という帰結になってしまうんです。だからそれは凄く危険なことだと認識していないと自分も簡単に入定する可能性があるので、それはなんというか理性的な歯止めですかね。まぁでも理性を追求した結果の入定なので入定という行為は反理性的なことではないんですが。


話が逸れたので戻しますと、言葉では説明できない境地なんだって言ったらそれで終わりですから、あくまで僕は哲学的というと大げさですけど、良い意味でガチガチの西洋哲学的な地盤でいたいと思うんです。それがあった上での神秘主義とかならウェルカムなんですよね。まぁ実際は今は地盤ができたから色々と読めるわけですが、守破離ということでもないかなと思うんですね。西洋的な意味での哲学って何でもとにかく説明するっていうところと厳密性ってのがあってこれは良い意味での論理が飛躍しがちな自分にとっての縛りになってるんですね。元がめちゃめちゃ非論理的なのでだから徹底的に論理で武装するわけです。小室直樹先生も同じようなことを言ってましたね。めちゃめちゃ論理的であるということは非論理的なことなんだって。まさしくその通りなんですね。


で、神秘主義の話に戻りますと、slさんへの返信に関しては、環世界にしろホムンクルス性にせよ認識や脳機能の話をしているのにそこから神秘主義に行くとか飛躍しすぎているというかreasoningの部分がさっぱり分かりませんよね。理由がある神秘主義ならまだしも環世界やホムンクルス性といった科学的に認められている即物的な人間の生物学的・脳科学的なことを神秘主義に結びつけるとかそういうのは死ぬほど嫌いなんですね。せっかく良いところまで厳密に科学的であったり論理的であったりするのに帰結が神秘主義じゃどうしようもないと思うんです。そういう意味で僕はやはり神秘主義に関しては蔑んでますね。ビジネス書なんかにも魔術的思考は危険だ!と書いていて本当にそうだなって思いました。行動あるのみ!みたいなのも魔術的思考だと言えるんですよね。それ自体が何の良い理由も無いのになんとなく行動するということが良いとされる風潮からなんでも行動あるのみ!になるっていうこれは行動ということに魔術的な価値を与えている魔術的思考ですよね。昔の学生運動とかがどうしようもなかったのもあれはただの魔術的思考だったからですよね。あとは形骸化された宗教化されたマルキシズムですね。


マルクス自体はただの資本主義の分析を行っていたわけで魔術的な行動とは全く関係がありませんでしたよね。でもやたら革命とか武装するというところを取り出してそれをドクトリンの中心にしてそれを実践するとかただの宗教ですよね。その結果が毛沢東とかポルポトとかスターリンといったようなマルクスとは似ても似つかないような最悪の大虐殺や独裁主義を生んだわけです。それだけ魔術的思考というのは危険なんですよね。ヒトラーも完全に神秘主義者でしたね。といっても彼の場合は本当にお告げ的なことや何かとの出会いというのを経験していたらしいのでそうなってしまう体質の人だったので経験からくる神秘主義はしょうがないと思うんですけどね。超常現象などを経験すると考え方が変わるっていうこれは理由がある神秘主義だったりするわけで、こういうのは全然アリですよね。あと僕は霊魂の存在を信じてますし、何より実際に見える人とか見えた人の話とかも聞いたりしていて、あと僕自身も経験しているので、ある意味で身体的に経験的にも僕は神秘主義寄りなんだと思っています。でもそれを手の内で扱えるようにバックグラウンドとしてガチガチのアカデミックな基礎があるってことですよね。なので親和性を感じつつも嫌悪感も感じているという微妙なところですね。


神秘主義ではないんですが、何か言葉では説明できないようなものに動かされているとか、超常現象的な体験をしやすい人たちっていますよね。で、坂口恭平はキングだと思っていますね。あれを理解できない人は「トンデモだ」って言うわけです。でも普段から普通の人には経験できないことを経験している身から言うとトンデモでもなんでもない。だから常人との認識の差が生まれてしまうわけですよね。僕は坂口恭平が取り付かれたように話をしているところを見て「あー類人だなぁー」って思いました。恐らく飛躍だと見られるところも自分にとっては全部繋がりましたね。「体にテキストが流れている感覚」とかあれはそういう感覚を持っている人じゃないと分からないことですよね。でもああいう人って持っていかれやすいんですよね。魂が。だからいきなり自殺する可能性もある。そこはもう気をつけてとしか言いようが無いですよね。凄く貴重な人物なわけですから。


で、話は前後してゲーデルの話になりますが、ゲーデルの話そのもののコンテキストで話すと「感覚からかけはなれているのに、公理はそれ自身が真であると強制している。この事実からもわかるように、私たちは集合論の対象物に対する認識のような何かをもっている。なぜ私たちは、感覚認識よりも、この種の認識、つまり数学的直感に対する自信を失わなければいけないのか私にはわからない。この数学的直感は、物理理論を築き上げ、未来の感覚認識はこの数学的直感と一致するだろうということを期待させる。さらに、この数学的直感は、現在では決定可能ではない問題が将来意味をもつようになり、決定されるかもしれないということを信じさせる。数学における集合論パラドックスは、物理におけるだまされるという感覚に比べ、そう難しいものではない」という長い引用になるわけですが、metarunaさんがおっしゃる「そうではない部分」というのが今のゲーデルの引用における「現在では決定可能ではない問題」なんだと思います。これは数学や集合論に内在している決定不可能性の問題というよりかは認識そのものの話であるし、ゲーデル自体が現象学に深くコミットしていたという事実からも、この問題というのは認識の問題なんだということが言えると思います。


で、僕も全くmetarunaさんと同じで「そうではない部分」について諦めずに神秘主義や抽象的な東洋哲学ではなく科学や西洋哲学の言葉で説明できると思っています。だからこそ僕は神秘主義の影響は受けたくないというのがありますね。超越的な存在を出してしまうとDeus ex machinaになってしまいますからね。ちなみに自分にとってのイデアDeus ex machinaだと認識していてそこに話を持って行き過ぎると厳密性が失われて実用性がなくなると思っていてあくまでそれは別に考えることだと思っています。ゲーデルの引用で言うところの「数学的直感」というのも今の状態ではDeus ex machinaみたいなものですね。よく分からないけどなんかアプリオリにある場合もあるといったような曖昧なものですよね。そこを身体感覚や感覚認識と同じぐらいのレベルに感じられるぐらいそのよく分からない「数学的直感」というのを考えるということなわけで、ゲーデルはそれを明らかにしたかったんだと思います。これはメタ数学でもありメタ認識論でもありますね。この辺のことを長年やってるのがチャイティンですね。


で、僕が数学の証明が嫌いなのはここなんですよね。直感や意味論を無視してただのcomputationで証明できたと言われても全く感覚からはかけはなれてますよね。それ自体で証明できていても全く意味が無い。まぁ証明を理解して感覚的に理解できるようになる場合もありますが、それが所謂良い証明なんだと思っています。別に証明自体はいいんですが、それ自体を吟味しない計算の結果だけって最悪なんですよね。物理の近似計算や確率論などではいいんですけど純粋数学的なもので意味の無い証明ってこれほどナンセンスなものはないと思うんですね。そういうわけでただの計算の結果というのは何にもならないんですよね。ゲーデル連続体仮説のコーエンの証明に対して「これ自体は連続体仮説について何も述べていない」と言っていたのはつまりはこういうことなんだと思っています。まぁ僕の勝手な解釈なんですけどね。でもゲーデルのさまざまなメモや発言や書いたものを見ていると一貫性があるんですよね。だからそれ自体では判断しかねるものでもゲーデルを研究することで意味が分かるようになるんです。むしろゲーデルほど意味を考えていた人はいるんだろうか?というぐらい意味について考えていた人だと思うんですね。第一級の数学者・論理学者であったと同時に第一級の哲学者でもあったわけです。


ゲーデルの話が長くなりすぎましたがというか全体で長くなっていますが、何かあったら返信よろしくお願いします。